『1492 コロンブス』:1992、アメリカ&イギリス&フランス&スペイン

1491年、スペインのアンダルシア。クリストファー・コロンブスは、委員会からサラマンカ大学に呼び出された。コロンブスは太洋の距離を示した古い説を否定し、もっと短いと主張した。彼は、海を西へ進んでいけば、750海里でアジアに辿り着くと語った。
コロンブスは、東洋への新航路を発見するため、海を西へ渡らせて欲しいと訴えた。西へ行けば多くの黄金や香辛料があり、スペインの国益になると告げた。財務長官サンチェスは国益のために航海を認めようとするが、枢密院にとってコロンブスは危険な思想を持つ人物であり、申し出は委員会に却下された。
修道院にいるコロンブスの元を、船主のピンゾンが訪れた。彼は銀行家サンタンヘルの紹介で、イザベル女王に会えると告げた。1492年1月2日、グラナダ陥落の後、39歳のコロンブスは女王に謁見した。コロンブスはサンチェスに対して利益の10分の1や総督の地位を要求するが、女王が彼を気に入ったため、航海の許可が下りた。
コロンブスは妻ベアトリクス、長男ディエゴ、次男フェルナンドを残し、ピンゾン達と共に西への航海に出た。なかなか陸地に辿り着かなかったが、1492年10月12日、ようやく彼らはグアナハニ島を発見した。コロンブスは、島にサン・サルバドルと名付けた。
原住民のユタパン達と親しくなったコロンブスは、12月5日にはハイチに到着した。だが、グアナハニ島でもハイチでも、わずかな黄金しか見つからなかった。コロンブスは砦を築くための39名を島に残し、スペインへと戻ることにした。
1943年、コロンブスは弟バルトロムとジャコモ、貴族のモクシカ達と共に、2度目の航海に出た。だが、島に戻ると、残していた仲間が全滅していた。モクシカは原住民の仕業と確信するが、コロンブスは報復を禁止し、原住民に協力させて町の建設を開始した。だが、モクシカが原住民の手首を切り落としたことから、殺し合いへと発展していく…。
監督はリドリー・スコット、脚本はロザリン・ボッシェ、製作はリドリー・スコット&アラン・ゴールドマン、共同製作はロザリン・ボッシェ&マーク・ボイマン&ペレ・ファヘス、製作協力はガース・トーマス、製作総指揮はミミ・ポーク&イェーン・スミス、撮影はエイドリアン・ビドル、編集はウィリアム・M・アンダーソン&フランソワ・ボネ&レスリー・ヒーリー&デボラ・ゼイトマン&アーメン・ミナシアン、美術はノリス・スペンサー、衣装はチャールズ・ノード&バーバラ・ラッター、音楽はヴァンゲリス。
主演はジェラール・ドパルデュー、共演はアーマンド・アサンテ、シガーニー・ウィーヴァー、ローレン・ディーン、アンヘラ・モリーナ、フェルナンド・レイ、マイケル・ウィンコット、チェッキー・カリョ、ケヴィン・ダン、マーク・マーゴリス、ファン・ディエゴ・ボットー、アッチェロ・マナス、フランク・ランジェラ、カリオ・セイラム、ビリー・L・サリヴァン、ジョン・ヘファーナン、アーノルド・ヴォスルー他。


クリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸500年を記念して製作された作品。同時期にジョン・グレン監督で公開された『コロンブス』とタイトルの使用権を巡って争い、裁判で負けたために、原題には「COLUMBUS」の文字が使われていない。
コロンブスをジェラール・ドパルデュー、サンチェスをアーマンド・アサンテ、イザベルをシガーニー・ウィーヴァー、ベアトリクスをアンヘラ・モリーナ、モクシカをマイケル・ウィンコット、ピンゾンをチェッキー・カリョ、サンタルヘルをフランク・ランジェラが演じている。

「コロンブスの半生」という題材だが、「娯楽に徹したアドベンチャー映画」を期待すると思いっきり裏切られる。
考えてみれば、リドリー・スコット監督が痛快冒険活劇を描くはずがないわな。
というわけで、ここにあるのは痛快な冒険ではなく、陰鬱な悲劇だ。

この映画、とにかく“喜び”や“楽しさ”を打ち消そうと躍起になる。
例えば、航海の許可が下りるシーン。長年に渡って待ち続け、ようやく許可が下りたというのに、コロンブスの喜びはものすごく薄い。それどころか、「自分が主張した船旅の予定日数はウソです」とコロンブスに懺悔させる場面を用意して、重苦しく描こうとしている。
いよいよ船出というシーンでも、やっぱり重い。「これから旅が始まる」という期待感、ワクワクする気持ちは、全く描かれない。念願の航海のはずだが、コロンブスはこれっぽっちも喜ばない。船旅が始まっても、ずっとジットリした空気が漂い続ける。

乗組員は不満を持つが、それは当然のことだ。「750海里で島に到着する」というウソを信じてたのに、全く島に到着しないんだから。彼らはコロンブスを信奉しているけでもないし、コロンブスと同じような情熱があるわけでもないんだから。
ようやく島を発見しても、やはり喜びの表現は薄い。それよりも、壮大な音楽を流して、「重厚であること」を強く表現しようとする。とにかく、やたら重厚感を出したかったらしい。で、ずっと重厚で抑揚が無いから、印象に残るシーンが無いという結果に。

最初から最後までズッシリとした雰囲気のままで、息を抜くような個所がほとんど無い。それは、緊張感に満ちているという意味ではない。ひたすらに重いのだ。喜ぶとか楽しむとか笑うとか、そういう「ホッとする」ような所がほとんど無いのだ。
おまけに、全て描かなきゃ気が済まなかったのか、やたらと長い。長いからといって、観賞後に「映画を見たなあ」という充実感が残るわけではない。「ああ、しんどかった」と思うだけ。
話に抑揚が無く、重いままで淡々と進んで行くのだから、その「長い」という感覚は相当なものだ。原住民との交流とか、ホントにそこまで時間を割く必要があったのかと思ったりする。

この映画のコロンブスを見ていると、「完全に失敗に終わっても、そりゃあ仕方が無いだろうな」と思ってしまう。生意気な態度で、無駄に敵を作ったりする。テメエの夢のために多くの金や大勢の人々を利用するのに、地位や莫大な金を要求する。
「情熱を抱き、夢を追い求めた純粋で熱い人間」として、彼を好意的に受け入れることが出来ない。むしろ、横暴で我が強く、鼻持ちならない人間に見えてしまう。もう少し、謙虚さってモノが無いのかと思ってしまう。
単純な問題として、魅力的ではない。説得力のある言葉があるわけでもないし、カリスマ性を見せ付けられるわけでもないし。

「たくさんの黄金がある、パラダイスがある」と言って連れて来たのに何も無いんだから、そりゃあモクシカだって不満を爆発させるだろう。奴隷のような扱いしかしてないんだから、そりゃあ原住民だって不満を爆発させるだろう。
原住民の言葉を覚えようとするとか、もっと上手く立ち回れば何とかなったんじゃないかと思える問題も多い。結局、失敗に終わったのは周囲のせいだけじゃなく、自分が招いた部分も多いように見えるのだ。
失敗するべくして、彼は失敗しているのだ。

悲劇というのは、映画の世界では取り立てて珍しいものではない。なんでもかんでもハッピーエンドでなければならないってことは無い。悲劇としてのドラマティック、悲劇としてのカタルシスがあれば、それは「良く出来た悲劇」として評価できる。
しかし、この映画は逆ドラマティックな映画なのだ。「ドーン」ってな感じで悲劇の大きな谷が訪れるのではなく、「小さな挫折が幾つも積み重なって、それがジワジワと広がって行き、全て失敗に終わる」という形だ。急転直下のドラマが無いのだ。
でも、「盛り下げる」ってのとは、ちょっと違う。
なぜなら、そもそも盛り上がってないからだ。

 

*ポンコツ映画愛護協会