萬漫評
筑紫野行の記
十一月十二日は福岡県筑紫野市の筑紫野市文化会館が開催したシンポジウム「杉山家五代と筑紫野」の最終回の日であった。九月と十月に開催された第一回と第二回には都合がつかず参加できなかったが、この最終回には旧知の大鷹涼子さん、何度かメールの交換をしたことがある馬場宏恵さん、田中由美さんの三女性がパネリストになったディスカッションが開催されるというので、勇躍福岡へ向かった。
シンポジウムは午後一時半開会、筆者はその時刻に悠々と間に合うつもりで午前九時過ぎ新大阪発の新幹線のぞみ号に乗車したのであるが、発車後まもなく、新岩国駅構内の信号機故障でその先への運行ができない状況とのアナウンスがあるではないか。新神戸は予定通り過ぎたものの、姫路に到着したところで、遂に数十分の足止めを余儀なくされた。場合によればこのままスゴスゴと引き返さざるを得ぬかと思いつつ、杉山満丸氏に状況報告のメールを送る。しばらくして動き出したものの、岡山でもしばしの停車、広島でもしばしの停車で、信号機故障は回復したとのアナウンスがあっても、先行列車が数珠つなぎの状態では定刻の到着は望むべくもない。結局一時間半の遅延で博多に到着、鹿児島本線に乗り換えて二日市駅に到着したのは午後二時頃であった。
タクシーに飛び乗り、筑紫野市文化会館へ……しかしこれは筆者のチョンボであった。シンポジウム会場は二日市駅と文化会館との間にある生涯学習センターであったのだ。会館の事務局の方に指摘されてトボトボ歩いて生涯学習センターへ行くと、会館から連絡をして下さっていたらしく、スタッフの女性が待ちかまえていて、すぐに二階のホールへ案内された。ホールのロビーで杉山夫人に出会いあいさつをしていたら、会場から文化会館の手島館長が出てきて、満丸氏は中にいるとのこと。シンポジウムの最初のプログラムは神田紅さんが杉山龍丸の生涯を語る講談であったが、遅参したせいで筆者が会場に入ったときにはもはや終演前五分ばかりの頃合いであったのは、返すがえす残念であった。
休憩となって、杉山満丸氏の案内で最前列の関係者席へ。そこで紹介を受けたのは、このシンポジウムのチラシやパンフレットのメインビジュアルに使用されたイラストの製作者、YOUCHANさんである。思いがけない出会いであった。このイラストについて筆者が、久作のモダン性と怪奇性がよく表現されていると申し上げると、YOUCHANさんはモダン性の指摘がお気に召されたようであった。筆者もたまには好いことを言うのである。
やがてパネルディスカッションが始まる。コーディネーターは神田紅さんが務められた。パネラーの田中由美さんはテレビマンユニオンという番組制作会社のディレクターで、NHKのBSプレミアムで放送された「トライエイジ〜三代の挑戦 第三回『杉山家三代の物語』」を作られた方である。筆者は杉山満丸氏の紹介で、番組制作にあたって何度か杉山茂丸の事跡についてお問い合わせをいただいたことがある。
馬場宏恵さんはお勤めの傍ら、法政大学大学院で杉山茂丸の研究をなさっておられる。この方も杉山氏の紹介で何度かメールのやりとりをさせていただいた方だ。後刻名刺交換して、ご本業は筆者と同業界であることが判明した。奇遇である。
大鷹涼子さんは筆者とは唯一面識がある。六年余り前に、ウェブサイト「谷底ライオン」のKUBO氏と大鷹さんと筆者の三人で、福岡県立図書館杉山文庫の文献調査をした仲だ。当時は岡山大学大学院に在学中だったが、今や文学博士の学位も得られ、かつ『メディアシンドロームと夢野久作の世界』の著者田畑暁生氏夫人である。何度も論文の抜き刷りを頂戴しているのだ。いつもありがとう。
筆者のように夢野久作と杉山茂丸にドップリ浸っている人間には驚きなのだが、この筑紫野の地では、あまり久作や杉山家は知られていないそうで、ガールズ・トークと銘打ったこのパネルディスカッションは、ほどほどにアカデミックで、ほどほどにエンターテインメントめいて、地元の方々の関心を喚起するのによい企画であったろう。神田紅さんのコーディネーター振りも、それを意識した話の振りを心掛けていらっしゃったように感じた。大鷹さんが夫君の著書の宣伝をなさったのはなかなか微笑ましかった。
ホールのロビーには福岡の古書店が杉山家関連の書籍を持ち込んで即売していた。ここでYOUCHANさんは鶴見俊輔著『夢野久作と埴谷雄高』を購入なさったのだが、なんとこれが鶴見さんから久作次男の故三苫鉄児氏に贈られた献辞署名入りのお宝モノで、一同驚きと羨望に包まれたのであった。
シンポジウムが終了した後、文化会館に戻って関係者の懇親会に出席。残念ながら田中由美さんはお仕事の都合とかで懇親会は欠席された。しかし馬場宏恵さんとはいろいろお話ができたし、東京大学大学院生の川下俊文氏と初めてお目にかかったほか、シンポジウムの開催に尽力されていた地元の高島正武氏や権藤宣威氏に再会できた。高島さんは杉山家が明治十年ごろ山家に移住した際、なにくれとなく援助をした高島圓の子孫に当たり、筆者が今年七月に福岡県立図書館杉山文庫の再調査を行った際には、杉山満丸氏のお世話で高島家を往訪し、貴重な資料なども頂戴したものである。再会と言えば、極めつけは大阪在住の今村忠生氏。杉山龍丸が生前何度も足を運んでいた奈良市の宗教団体大倭〈おおやまと〉を、前出KUBO氏と筆者で訪問した際にお目に掛った方である。御年八十歳とお聞きした。ご高齢で筑紫野の地までシンポジウムにご参加なさる意欲には頭が下がる。
楽しい時間の過ぎるのが早いのは世の常、あっという間に帰阪の時刻が近づき、大鷹さんと二人、一足お先に会館を後にした。姫路で下車される大鷹さんと二時間ばかりの楽しい道中、博士論文を拝見できることになり、翌日早速ファイルを頂戴したが、なにぶんにも原稿用紙換算で一千枚の大長篇、浅学菲才の身に理解が及ぶかどうか。
出発時には新幹線の運行トラブルでどうなるかことかと案じられた筑紫野行であったが、どうやら無事帰着。終わりよければすべてよろし。
(2011.11.26)
シンポジウムは午後一時半開会、筆者はその時刻に悠々と間に合うつもりで午前九時過ぎ新大阪発の新幹線のぞみ号に乗車したのであるが、発車後まもなく、新岩国駅構内の信号機故障でその先への運行ができない状況とのアナウンスがあるではないか。新神戸は予定通り過ぎたものの、姫路に到着したところで、遂に数十分の足止めを余儀なくされた。場合によればこのままスゴスゴと引き返さざるを得ぬかと思いつつ、杉山満丸氏に状況報告のメールを送る。しばらくして動き出したものの、岡山でもしばしの停車、広島でもしばしの停車で、信号機故障は回復したとのアナウンスがあっても、先行列車が数珠つなぎの状態では定刻の到着は望むべくもない。結局一時間半の遅延で博多に到着、鹿児島本線に乗り換えて二日市駅に到着したのは午後二時頃であった。
タクシーに飛び乗り、筑紫野市文化会館へ……しかしこれは筆者のチョンボであった。シンポジウム会場は二日市駅と文化会館との間にある生涯学習センターであったのだ。会館の事務局の方に指摘されてトボトボ歩いて生涯学習センターへ行くと、会館から連絡をして下さっていたらしく、スタッフの女性が待ちかまえていて、すぐに二階のホールへ案内された。ホールのロビーで杉山夫人に出会いあいさつをしていたら、会場から文化会館の手島館長が出てきて、満丸氏は中にいるとのこと。シンポジウムの最初のプログラムは神田紅さんが杉山龍丸の生涯を語る講談であったが、遅参したせいで筆者が会場に入ったときにはもはや終演前五分ばかりの頃合いであったのは、返すがえす残念であった。
休憩となって、杉山満丸氏の案内で最前列の関係者席へ。そこで紹介を受けたのは、このシンポジウムのチラシやパンフレットのメインビジュアルに使用されたイラストの製作者、YOUCHANさんである。思いがけない出会いであった。このイラストについて筆者が、久作のモダン性と怪奇性がよく表現されていると申し上げると、YOUCHANさんはモダン性の指摘がお気に召されたようであった。筆者もたまには好いことを言うのである。
やがてパネルディスカッションが始まる。コーディネーターは神田紅さんが務められた。パネラーの田中由美さんはテレビマンユニオンという番組制作会社のディレクターで、NHKのBSプレミアムで放送された「トライエイジ〜三代の挑戦 第三回『杉山家三代の物語』」を作られた方である。筆者は杉山満丸氏の紹介で、番組制作にあたって何度か杉山茂丸の事跡についてお問い合わせをいただいたことがある。
馬場宏恵さんはお勤めの傍ら、法政大学大学院で杉山茂丸の研究をなさっておられる。この方も杉山氏の紹介で何度かメールのやりとりをさせていただいた方だ。後刻名刺交換して、ご本業は筆者と同業界であることが判明した。奇遇である。
大鷹涼子さんは筆者とは唯一面識がある。六年余り前に、ウェブサイト「谷底ライオン」のKUBO氏と大鷹さんと筆者の三人で、福岡県立図書館杉山文庫の文献調査をした仲だ。当時は岡山大学大学院に在学中だったが、今や文学博士の学位も得られ、かつ『メディアシンドロームと夢野久作の世界』の著者田畑暁生氏夫人である。何度も論文の抜き刷りを頂戴しているのだ。いつもありがとう。
筆者のように夢野久作と杉山茂丸にドップリ浸っている人間には驚きなのだが、この筑紫野の地では、あまり久作や杉山家は知られていないそうで、ガールズ・トークと銘打ったこのパネルディスカッションは、ほどほどにアカデミックで、ほどほどにエンターテインメントめいて、地元の方々の関心を喚起するのによい企画であったろう。神田紅さんのコーディネーター振りも、それを意識した話の振りを心掛けていらっしゃったように感じた。大鷹さんが夫君の著書の宣伝をなさったのはなかなか微笑ましかった。
ホールのロビーには福岡の古書店が杉山家関連の書籍を持ち込んで即売していた。ここでYOUCHANさんは鶴見俊輔著『夢野久作と埴谷雄高』を購入なさったのだが、なんとこれが鶴見さんから久作次男の故三苫鉄児氏に贈られた献辞署名入りのお宝モノで、一同驚きと羨望に包まれたのであった。
シンポジウムが終了した後、文化会館に戻って関係者の懇親会に出席。残念ながら田中由美さんはお仕事の都合とかで懇親会は欠席された。しかし馬場宏恵さんとはいろいろお話ができたし、東京大学大学院生の川下俊文氏と初めてお目にかかったほか、シンポジウムの開催に尽力されていた地元の高島正武氏や権藤宣威氏に再会できた。高島さんは杉山家が明治十年ごろ山家に移住した際、なにくれとなく援助をした高島圓の子孫に当たり、筆者が今年七月に福岡県立図書館杉山文庫の再調査を行った際には、杉山満丸氏のお世話で高島家を往訪し、貴重な資料なども頂戴したものである。再会と言えば、極めつけは大阪在住の今村忠生氏。杉山龍丸が生前何度も足を運んでいた奈良市の宗教団体大倭〈おおやまと〉を、前出KUBO氏と筆者で訪問した際にお目に掛った方である。御年八十歳とお聞きした。ご高齢で筑紫野の地までシンポジウムにご参加なさる意欲には頭が下がる。
楽しい時間の過ぎるのが早いのは世の常、あっという間に帰阪の時刻が近づき、大鷹さんと二人、一足お先に会館を後にした。姫路で下車される大鷹さんと二時間ばかりの楽しい道中、博士論文を拝見できることになり、翌日早速ファイルを頂戴したが、なにぶんにも原稿用紙換算で一千枚の大長篇、浅学菲才の身に理解が及ぶかどうか。
出発時には新幹線の運行トラブルでどうなるかことかと案じられた筑紫野行であったが、どうやら無事帰着。終わりよければすべてよろし。
(2011.11.26)
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