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萬漫評




研究余滴・萩か山口か
かつて筆者は、堀雅昭の著作『杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》』を批判した一文の中で、玄洋社を創設した頭山満や進藤喜平太らが萩の乱に連座して捕縛された際に収監された監獄の場所について、『(堀の著作の)16頁の頭山満が「萩で拘禁されていた」との記述と、それに続けて箱田六輔や進藤喜平太がやはり「皆、萩の獄舎にいた」という記述。萩ではなく山口である。参照テキストはいくらでもあろう』と書いた。
 だが、頭山等が拘禁された場所の特定というのは、そう簡単な問題ではなかったことに、その後気づいた。
 筆者は『玄洋社社史』や、頭山統一の『筑前玄洋社』の記述を前提として、山口の監獄に収監されていたと断定していたのであるが、頭山満らの収監に関する様々な著述を点検して見ると、山口説と萩説が並立していることがわかる。筆者の手元にあるものを両説に沿って分類すると、以下のようになる。

〈山口説〉
●『天下之快傑頭山満』吉田俊男・1912
●『頭山満と玄洋社物語』平井晩村・1914
●『玄洋社社史』玄洋社社史編纂会・1917
●『九州における近代の思想状況』西尾陽太郎・1972
●『筑前玄洋社』頭山統一・1977
●『頭山満翁正伝 未定稿』頭山満翁正伝編纂委員会編・1981

〈萩説〉
●『巨人頭山満翁』藤本尚則・1942(初出は1922)
●『頭山満翁評伝 人間個と生涯』長谷川義記・1974
●『雲に立つ 頭山満の場所』松本健一・1996
●『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』読売新聞西部本社・2001
●『人ありて 頭山満と玄洋社』井川聡/小林寛・2003
●『杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》』堀雅昭・2006

なお、山口説には、外に私家版の『進藤喜平太翁追想録』に収録された葛生能久と吉田庾《よしだ・こくら》の回想がある。また筆者は未見であるが、進藤一馬の口述になる『頭山満 偉大なる足跡(博多に強くなろうシリーズ No.61)』は萩説を採っているという。
 こうして見ると、古いものほど山口説が多く、新しいものは萩説が多いことがわかる。察するに両説では山口説が早く成立し、萩説は藤本尚則の『巨人頭山満翁』が源流になっているのだろう。古い記録ほど真実に近いと言えなくもないだろうが、この場合は水掛け論にしかならない。山口だろうが萩だろうが、些細なことではあるかも知れないが、堀の著述に対して堂々と誤りであると言い切った以上、筆者としては何らかの結論を得なければ尻がむず痒くって仕方がないのである。
 目下、筆者が山口説を採用すべき有力な根拠たり得るのではないかと考えているのは、夢野久作の『近世快人伝』の、有名な奈良原至の章の記述である。久作は奈良原からの聞き書きとして、獄舎での拷問についてこう記している。
「進藤と、頭山満と自分と三人は並んで県庁の裏の獄舎で木馬責めにかけられた」
筆者が注目するのは、「県庁の裏の獄舎」という部分である。奈良原が回想するその時は明治十年、廃藩置県によって山口県が置かれたのは明治四年のことである。そして山口県の前身である長州藩は、長らく萩に藩庁を置いていたため萩藩とも呼称されていたが、文久三年に周防山口に山口政事堂と称する新たな藩庁を置き、藩主毛利敬親も山口に移住した。これ以後、萩藩という呼称は消滅し、長州は周防の山口藩と呼ばれることになったのである。
 即ち、夢野久作が奈良原から聞いた「県庁」とは、山口に置かれた山口政事堂、即ち廃藩置県後の山口県庁であろうことは疑いない。
 では、「県庁の裏の獄舎」は実在したのだろうか。筆者は現在のところ、これに対する明確な答えを持ち合わせていないが、『倉敷・浅尾暴動事件』と題されたウェブサイトの中には、「山口政事堂付属監獄」があったと記述されており、その場所は「山口市の国道9号線に一の坂川が貫流する位置に西京橋が懸かっているが、その橋の手前を川沿いにさかのぼる。町名で中河原町が政事堂の監獄の跡」であると、詳述されている。この点を踏まえれば、頭山や奈良原らが収監されていた監獄とは、萩ではなく山口であったと考えることが有力ではないだろうか。
 このサイトは参考文献も明示しており、記述の信頼性は高いと考えられるものの、当該箇所の記述がどの文献によるものなのかは、残念ながら筆者には今検証する余裕がない。他日を期したい。
(2008.10.26)