其日庵資料館
文献覆刻・同時代から見た杉山茂丸
杉山茂丸
鵜崎鷺城
政治家にあらずして政界に關係を有し、實業家にあらずして財界に出沒し、浪人の如くして浪人にあらず。堂々たる邸宅に住ひ、美服を身にし、自働車を驅つて揚々顯官紳士の邸に出入し、常に社會の祕密裏に飛躍しつゝある杉山茂丸は、當代の怪物一種の策士として興味ある人物である。世間には彼を福岡玄洋社の出身と思ひ又た彼も玄洋社の人の如く吹聽するが、實は玄洋社と直接の困縁のある譯でなく、唯だ頭山滿が九州の或る炭坑を取るに際して其間に奔走劃策し、それから昵懇の間柄になつた。關係といへば是れだけの事で、強ひて彼を玄洋社に結び付けるならば玄洋社の傍系と言ひ得るかも知れぬ。彼を知るものも如何にして今日まで來たかを知らず、殊に知らぬものは尚更で、右の手の指が四本しかない其事が神祕的なる如く、彼の閲歴其物にも幾多の祕密を藏し、隨つて怪物たる所以も亦此にある。世間よりホラ丸と卑まるゝにせよ、兎に角名士の一人になつたのは尋常一樣の手段でなく、策士通有の權略術數を巧みに用ゐて、時代を支配せる人々を捕へた結果である。
彼が朝野の名士と關係を結ぶの最初の手段は例の待合政略であつた。日清戦爭後東京にゴロ/\して居る頃、當時アグリと呼ぶ新橋有名の老妓に待合を開業させ、杉山が旦那で朝比奈知泉を顧問のやうにしていろ/\な人を引寄せる算段をした。最初朝比奈を彼に紹介したのは、嘗て頭山の爲めに炭坑運動をする時、仲間の一人であつた結城虎五郎で、爾來遊び友達として懇親の間柄になつたのである。斯くして朝比奈は先づ道樂仲間の大河内輝剛を引張り込み、大河内は後藤新平・加藤正義を、後藤は兒玉源太郎を伴ひ、それから同郷の關係で金子堅太郎が來れば、其傳手で伊藤・桂も遊びに來るといふ始末で、果ては此待合を本陣としてノンキ倶樂部といふものを造り、其間に杉山は伊藤・兒玉・桂・後藤等に続び付き、待合政略美事に功を奏した。
彼は策士として最も必要なる條件を具へて居る。第一風采堂々として押出しが好い。第二に雌辯滔々として遊説の術に長じ、人に對して説く處恰も戰國時代の縱横家の口吻に類し、而も根が野武士育ちであるから上のものに對して柔媚卑屈の態度がない。嘗て大岡育造が伊藤を大磯滄浪閣に訪ふと、未だ見も知らぬ偉丈夫が辯舌爽かに政治を論ずるのを見て感服し、後ちに杉山なるを知つて其雄辯を嘆美したといふ。第三には對手の弱點と氣合を察して之れに應じて酬酢する。世間には伊藤を平民的と稱したけれども、統監服を著けて藝者の前に誇つたといふだけあつて案外虚榮家である。此點を看破せる杉山は、たとひ伊藤が人の前で君僕と打解けたからとて、此方も君僕といはずに矢張閣下扱ひをして其浮誇心に投じた。單に伊藤といはず、大概何人も此手に罹つて仕舞ふ。兒玉の明敏を以てしても尚且つ杉山に惚れ込み、臺灣の公債募集を彼に一任し、桂も日露戰爭の際、恰も政府の代表者の如くして外債を米國に募らせたのでも分る。
彼は學問の素養なく、世に公けにした二三の著書も部下のものに代筆させたのであるが、何事によらず一寸した緒を得れば是れを誇張大做《エキザゼレート》して應用する才に長じて居る。彼をホラ丸と稱するは好んで法螺を吹くよりし、而も其法螺は尋常一樣の法螺と違つて、一種不可思議の魔力を有つて居る。山縣に對しては經濟論を試み、伊藤に對しては軍事上の意見を談じ、總て對手の如何に依り逆に出て心を攬るの術を用ゆ。縁もゆかりもない高杉晉作の遺孤を世話せるは、天性世話好きなるにも因るが、一は斯くして長州元老を驩《よろこ》ばせる爲めの術策とも見える。又た彼は巧みに頭山を利用し、玄洋社のものは大抵自分の言ふ通りになるかに吹いて金を取出す方便に使ふ。嘗て伊藤に對し、頭山が爆裂彈を山で試驗させたら、成績が好かつたゲナと意味ありげな嘘を言つたといふが、何の爲めに爆裂彈の試驗をさせたか、そこまで言はない處に味があるではないか。
如何に遊説の術に長ぜるかを立證すべき二つの例がある。一は前年大江卓・竹内綱等が京釜鐵道を發起した時、時の首相山縣は豫て京釜線の必要を説いた位であるから、無論政府が補助するものと算用に入れて居た。然るに愈々二萬圓を投じて線路を踏査する運びに及んでも補助する樣子が見えぬので、兩人は杉山を訪うて政府に交渉のことを相談し、且つ發起人の中に加はらんことを懇請すると、彼は萬事此方寸にあるから某の日山縣を訪へと答へた。彼は其間に如何にして説得したものか兩人が約束の日に山縣を訪へば果して希望通りになつた。又た彼の友人が釜山の北濱埋立を計劃し、資金に窮して杉山に相談すると、彼は直ちに承諾し、大倉喜八郎と友人とを結付けて埋立に著手した。
後藤に對してはいろ/\獻策し彼も之れを用ゐたらしく、昨年桂が同志會を造るに就て後藤と共に圖謀參畫した。當時杉山の手で三百萬圓の資金が出來たとの風説が傳はつたが、是れも彼の口から流布させたのである。兩三年前福岡の九州日報を手に入れて同志會開拓を計り、昨年進藤喜平太・大原義剛等玄洋社の先輩を國民黨より奪つたのは彼の指金である。一時玄洋社悉く同志會になつたかに傳へられたのは是れも彼の策略で、玄洋社といつても福岡在住の一部のものに限り、國外に散在するものは杉山の意の如くならず、寧ろ此惑亂策に反感を抱いて居る。彼も桂や後藤の影に隱れてこそいろ/\仕事が出來たものゝ、桂の歿し後藤の脱會したる今日最初程に身を入れて居るか何うか疑問である。
格別急な用向がなくとも毎朝必ず自動車に乘つて家を出で、漸く途中で訪間先を案出し初めて運轉手に行先きを命ずるさうである。今日は何うか知らぬが以前三箇の電話番號を家の門に張出し、而もそれが孰《いず》れも同じ番號であつた。又た相當な客が來ると書生を呼び、『後藤が居たら一寸電話口に出ろといへ』とか、『桂に電話を懸けて何日何時《いつなんどき》に行くといへ』とか命じて威張つて見せるさうであるが、是等は遺憾なくホラ丸式を發揮して居る。
彼が朝野の名士と關係を結ぶの最初の手段は例の待合政略であつた。日清戦爭後東京にゴロ/\して居る頃、當時アグリと呼ぶ新橋有名の老妓に待合を開業させ、杉山が旦那で朝比奈知泉を顧問のやうにしていろ/\な人を引寄せる算段をした。最初朝比奈を彼に紹介したのは、嘗て頭山の爲めに炭坑運動をする時、仲間の一人であつた結城虎五郎で、爾來遊び友達として懇親の間柄になつたのである。斯くして朝比奈は先づ道樂仲間の大河内輝剛を引張り込み、大河内は後藤新平・加藤正義を、後藤は兒玉源太郎を伴ひ、それから同郷の關係で金子堅太郎が來れば、其傳手で伊藤・桂も遊びに來るといふ始末で、果ては此待合を本陣としてノンキ倶樂部といふものを造り、其間に杉山は伊藤・兒玉・桂・後藤等に続び付き、待合政略美事に功を奏した。
彼は策士として最も必要なる條件を具へて居る。第一風采堂々として押出しが好い。第二に雌辯滔々として遊説の術に長じ、人に對して説く處恰も戰國時代の縱横家の口吻に類し、而も根が野武士育ちであるから上のものに對して柔媚卑屈の態度がない。嘗て大岡育造が伊藤を大磯滄浪閣に訪ふと、未だ見も知らぬ偉丈夫が辯舌爽かに政治を論ずるのを見て感服し、後ちに杉山なるを知つて其雄辯を嘆美したといふ。第三には對手の弱點と氣合を察して之れに應じて酬酢する。世間には伊藤を平民的と稱したけれども、統監服を著けて藝者の前に誇つたといふだけあつて案外虚榮家である。此點を看破せる杉山は、たとひ伊藤が人の前で君僕と打解けたからとて、此方も君僕といはずに矢張閣下扱ひをして其浮誇心に投じた。單に伊藤といはず、大概何人も此手に罹つて仕舞ふ。兒玉の明敏を以てしても尚且つ杉山に惚れ込み、臺灣の公債募集を彼に一任し、桂も日露戰爭の際、恰も政府の代表者の如くして外債を米國に募らせたのでも分る。
彼は學問の素養なく、世に公けにした二三の著書も部下のものに代筆させたのであるが、何事によらず一寸した緒を得れば是れを誇張大做《エキザゼレート》して應用する才に長じて居る。彼をホラ丸と稱するは好んで法螺を吹くよりし、而も其法螺は尋常一樣の法螺と違つて、一種不可思議の魔力を有つて居る。山縣に對しては經濟論を試み、伊藤に對しては軍事上の意見を談じ、總て對手の如何に依り逆に出て心を攬るの術を用ゆ。縁もゆかりもない高杉晉作の遺孤を世話せるは、天性世話好きなるにも因るが、一は斯くして長州元老を驩《よろこ》ばせる爲めの術策とも見える。又た彼は巧みに頭山を利用し、玄洋社のものは大抵自分の言ふ通りになるかに吹いて金を取出す方便に使ふ。嘗て伊藤に對し、頭山が爆裂彈を山で試驗させたら、成績が好かつたゲナと意味ありげな嘘を言つたといふが、何の爲めに爆裂彈の試驗をさせたか、そこまで言はない處に味があるではないか。
如何に遊説の術に長ぜるかを立證すべき二つの例がある。一は前年大江卓・竹内綱等が京釜鐵道を發起した時、時の首相山縣は豫て京釜線の必要を説いた位であるから、無論政府が補助するものと算用に入れて居た。然るに愈々二萬圓を投じて線路を踏査する運びに及んでも補助する樣子が見えぬので、兩人は杉山を訪うて政府に交渉のことを相談し、且つ發起人の中に加はらんことを懇請すると、彼は萬事此方寸にあるから某の日山縣を訪へと答へた。彼は其間に如何にして説得したものか兩人が約束の日に山縣を訪へば果して希望通りになつた。又た彼の友人が釜山の北濱埋立を計劃し、資金に窮して杉山に相談すると、彼は直ちに承諾し、大倉喜八郎と友人とを結付けて埋立に著手した。
後藤に對してはいろ/\獻策し彼も之れを用ゐたらしく、昨年桂が同志會を造るに就て後藤と共に圖謀參畫した。當時杉山の手で三百萬圓の資金が出來たとの風説が傳はつたが、是れも彼の口から流布させたのである。兩三年前福岡の九州日報を手に入れて同志會開拓を計り、昨年進藤喜平太・大原義剛等玄洋社の先輩を國民黨より奪つたのは彼の指金である。一時玄洋社悉く同志會になつたかに傳へられたのは是れも彼の策略で、玄洋社といつても福岡在住の一部のものに限り、國外に散在するものは杉山の意の如くならず、寧ろ此惑亂策に反感を抱いて居る。彼も桂や後藤の影に隱れてこそいろ/\仕事が出來たものゝ、桂の歿し後藤の脱會したる今日最初程に身を入れて居るか何うか疑問である。
格別急な用向がなくとも毎朝必ず自動車に乘つて家を出で、漸く途中で訪間先を案出し初めて運轉手に行先きを命ずるさうである。今日は何うか知らぬが以前三箇の電話番號を家の門に張出し、而もそれが孰《いず》れも同じ番號であつた。又た相當な客が來ると書生を呼び、『後藤が居たら一寸電話口に出ろといへ』とか、『桂に電話を懸けて何日何時《いつなんどき》に行くといへ』とか命じて威張つて見せるさうであるが、是等は遺憾なくホラ丸式を發揮して居る。
鵜崎鷺城(1873〜1934)は、本名熊吉、姫路藩士の四男として出生し、東京専門学校(のち早稲田大学)に学んだ。卒業後は新聞界に進み、東京日日新聞、九州日日新聞、大阪毎日新聞などに記者として勤務する傍ら、「日本及日本人」「中央公論」などに寄稿して、鋭い舌鋒で当代の人物を批評した。著作は多数にわたるが、代表的な著書としては「朝野の五大閥」「犬養毅伝」などが挙げられる。
本篇は「當世策士傳」(東亞堂・1914)から覆刻した。
Edited by Tomoyuki Sakaue.