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文献覆刻・同時代から見た杉山茂丸

星亨と杉山茂丸

=政客乎侠客乎=

小松 緑    

星亨と杉山茂丸を同爼に乘せて品隲しては、必ず其の不倫を怪しむ人があらう。一は大政黨の領袖衆議院議長、全權公使、内閣大臣ともなつた人。他は政界の遊星を以て終始した壯士の親分、其の輕重は提燈と釣鐘ほど違ふではないかと詰る人もあらう。併し杉山に星ほどの學問を與へたら、大政黨の領袖どころか、立派な總裁になり、平の大臣どころか、慥かに大隈侯以上の總理大臣になつて、天下を吹き倒すことのできる男である。星から學問を取つたら、杉山ほどの人物にもなれなかつたかも知れぬ。兩人を其の儘に赤裸々にすれば、恰好の取組になる。唯だ其の顯著な相違點は、一は表面に現はれ、他は裏面に匿くれてゐたと云ふだけに過ぎぬ。
 兩人ほど世間に眞價の知れなかつた人物は稀れであらう。誰でも、星を傑物と見ると同時に、私曲を働く奸雄と思ふ者が多かつた。甚だしきは公盗の巨魁とまで罵る者があつた。星は此の誤解の犠牲となり、伊庭想太郎の爲めに白晝市會で刺されて、悲慘な最後を遂げた。伊庭は立派な儒者であるが、偶然にもシーザーを公會堂に刺したブルタスを自ら擬したのである。杉山は一般に鷄鳴狗盗の雄と見られ、口善惡なき京童に法螺丸などゝ譏られるだけで、終に星のやうに殺されはしなかつた。
 一體此の兩人は、時世におくれて生れたのである。渠等は宜しく侠客傳中に入る可き人物である。時あつては猫の如く柔順で、兒女も親しむほどであるが、時あつては虎の如く獰猛で、鬼神も避けしむるといふ趣がある。弱い者を助け強い者を挫くのが、渠等の無上の樂みで、頼まれたら最後、理が非でも後へは引かない。富貴も淫する能はずといふことがあるが、渠等は逆に富貴を壓倒する膽力がある。威武も屈する能はずと云ふことがあるが、これも倒まに威武を屈服せねば承知せぬ氣概を持つてゐた。
 星は東京築地小田原町の左官の親方佃屋徳兵衞の子であり、杉山は福岡藩の馬廻り格の侍の家に生れた。其の爲か知らん、星の子分には、貧乏諸生や亂暴者が多かつた。其れに引替へ、破落漢の親方とも思はれる杉山の子分には、反つて貴公子や成金が澤山あつた。今は亡くなつたが伯爵後藤猛太郎や男爵高崎安彦が一時義太夫と藝者とに浮身をやつした結果、借金で首も廻らぬ破目に陷り、親族縁者から見離された時の事である。杉山は渠等を内密に自分の家に圍まつて置いて其の借金を整理した上に、伊藤公に頼んで高崎を貴族院議員に周旋し、後藤を立派な會社の社長にした。此の二人が再び紳士として世に出ることができたのは、全く杉山のお蔭である。一時成金の筆頭といはれた中村精七郎が博多灣築港や理化學研究所設立の如き公共事業を企畫したのも、杉山の差金であつた。それだから杉山が後藤や高崎や中村などと對談して居る所を聞くと、全く親分子分の關係としか思はれなかつた。杉山が「おい」と云ふと、後藤、高崎、中村などは「はい」と答へて頭を下げる。かういふ華族や富豪を子分に持つた杉山自身は至極の貧乏者で、今は相當な家に住んでゐるが、それは、渠の恩に感じた某から貰つたものである。幾十年か前に、三千圓で家を買入れたことがあるが、それは、母親の住宅であつた。渠の親孝行は格別なもので、親だけは借家に住はせたくないといふ心遣ひからであつた。他人に心から親切を盡す渠の性行も孝心から來たものであらう。星も親孝行であつた。現に池上本門寺に、星の實父佃屋徳兵衞の墓がある。其の側面に「孝子星亨建之」と刻つてある。忠臣は孝子の門に出づといふが、渠等兩人を忠臣の部に入れる樣な大事が起らなかつたのは、却つて國家の幸ひかも知れぬ。
 星と杉山とは政變毎に屹度飛び出して、内閣を起したり倒したりした。米國に時代を同うしてハンナといふ政治家がゐた。デツプリ肥えた無髯の容貌が星に似てゐる所から、星が米國公使になつた時に、米人は星を日本のハンナと云つた事がある。ハンナはタンマニー・ホールの首領で、大統領製造者と云はれた人、性格も星に似てゐたが、星よりも杉山の方に一層能く似てゐた。星も杉山も肥滿してゐた。杉山の方が丈がズツト高く、常陸山位の大男である。以上の三人は、見るからして傲岸、剛腹、勇猛、果敢の相貌を備へてゐた。星は舞臺の表面に立つてゐたが、杉山はハンナの樣に、何時も裏面で働いた。この二人は、人の目に止まらないで暴れ廻ることさながら雷獸の如くであつた。星には學問があつたが、演説も對話も下手であつた。杉山の辯舌ときたら眞に天下一品で、之を聞くと忽ち當年の蘇秦張儀が浮んでくる。學問の短所を常識で補うて、理を非に枉げても説き付ける所は、何人も企及すべからざる妙味がある。伊藤公でも、山縣公でも、桂公でも、兒玉伯でも、松方候でも、大隈候でも、渠の辯舌にかゝつては、一たまりもなく參つてしまつた。杉山が、鷲をも欺く烱々たる目玉を光らして、
 「さて目下の形勢は誠に容易ならぬものであります。」
と威嚇し付けると、皆なが襟を正して傾聽する。渠は、桂公の末路を救はんとして極力奮鬪したが、終に事、志と違うて、一敗地に塗れてから、申譯がないとて、全く意を政治に絶つて了つた。そこにも渠の眞骨頭が窺はれる。
 星が篤學の人であつたことは知らぬ人が多い。渠は横濱で英學を習ひ、それから大阪の何禮之の塾で英學科の教師をした程上達してゐた。出稽古をして英學を陸奥宗光に教へたのは此の時である。それから横濱の税關長となり、英國に留學してバリストルになつた。大抵の人は、出世すると書を讀まぬが、渠は死ぬまで讀書を怠らなかつた。筆者が米國公使館に在勤して居た時に、星の頼みで毎月百圓内外の新刊書を購入して送つたが、最後の一函を荷造りしてゐた時に、渠が市會で殺された電報を受取つた。此の新刊書は渠の死後に屆いたであらう。眞正に萬卷の書を讀み破つた星は、學者振つた素振は噯氣にも出さなかつた。併し渠が議長でも、公使でも、大臣でも、何でも能くやり通ふすことができたのは、其の間斷なき學問が與つて力あつたのである。
 面白いのは、天上天下可怖《二字にルビ「こわい」》といふ事を知らない此の兩人が、女にかけては、から生地がなかつたことである。星の始めの細君は、幕府の御家人伊阿彌氏の長女綱子といふ方で、若い頃は評判の美人であつた。初め星が見合をした時に、此の美人の威光(?)に打たれて畏縮して了ひ顏をも得上げ得ずして引下つた。あとで星は今一度見合をさせて呉れと頼んだ。媒酌人は、それはできん、二度見合をする者が何處にあるか、氣に入らぬならやめたらよからうと言ふと、星はイヤ氣に入らぬどころではないが、淑女の前に出た經驗がないから、つい狼狽して先方の顏を見なかつた。今度屹と勇氣を皷して見るから、今一度會はしてくれと懇願した。二度の見合は、前代未聞であらう。尤も外に一人り破天荒の見合をした男がある。それは、「東方策」で一時名聲を博した稲垣滿次郎である。此の人西班牙公使在勤中に亡くなつたが、夫人は今尚ほ達者である。稲垣は自分が痘痕斑々たる醜男であるから、細君だけは絶世の美人でなくては釣合はぬと尤もの樣な不理窟を云ひ出した。其の上に裝飾した外貌ばかりでは、お互に安心ができぬから、赤裸々で見合をしようと頑張つた。其の候補者は誰れあらう當時の貴族院議員山口尚芳の息女であつた。そんな馬鹿げた見合があるものかと怪む人もあらうが、實際箱根の温泉宿福住の湯殿で、文字通り赤裸々な見合を實行して、目出度く結婚したのである。是れは、星とは正反對に、頗る厚顏しい遣方である。
 杉山にも珍談がある。杉山のは初婚の時ではなく、ズツト後ちの話である。渠が新橋の藝者に惚れて、惚れられたことがある。セゝラ笑ふ人がある樣だが、是れは本人の直話だから、謹承し給へ。一夜渠は柄にもなく邊幅を修飾して出掛けた。一滴の酒も飲まぬ男だから、總て大眞面目で此の女と會見した。處が星と同じ樣に美人の威光に打たれて畏縮した上に萎縮した。二度の會見を申込んだ。それは叶うた、が又もや萎縮して了つた。三度目の會見? 今度は流石精力絶倫の杉山が、哀れ無能力者と斷定せられて、女の方から斷られて了つた。此の戀だけは、とう/\プラトニツクに終つたといふのである。どうも怪しい話だが、其の眞僞は別問題としても、事柄に依ると案外内氣となり臆病になるといふ渠の性格が偲ばれる。
 後ちにこそ内務大臣で納つてゐたが、若い時には相馬の屋敷へ亂入した後藤新平なども、杉山の善い相棒であつた。後藤が臺灣の民政長官時代に、東京に來て杉山と一緒に自轉車の稽古を丸の内でやつた事がある。すると向ふから知人が來て、不意に挨拶をしたので、後藤は無意識に右の手で帽子を脱らうとして、ハンドルを放したから耐らない。忽ち雨上りの泥の中へ見事に仆れて了つた。そこで、汚れた上著を脱いで芝原の上で乾すことにした。其の中に煙草の火で芝が燃え出した。兩人狼狽して上著を振つて燒け芝を叩き消さうとして騷いでゐると、そこへ突然巡査が來た。二人共一癖ありげな面魂《つらだましい》、一人の上著は泥だらけ、殊に處もあらうに、丸の内で柵内に侵入して芝を燒いた罪もある。杉山が例の辯舌を振つて滔々と申し開きをしたが、巡査はなか/\聞き入れないで、一寸來いと頑張る。最後の手段として後藤の官職付の名刺を出して、やうやく虎口を逃れた。此の時ばかりは、千言萬語の雄辯も一枚の名刺に如かざることを、流石の杉山も痛感したとの事である。
 星と杉山の兩人は、世間で誤解する樣な變物でもなく、奸雄でもない、況して公盗では猶更ない。筆者は、渠等が至極親愛すべき好人物、珍重すべき快男子、無邪氣な惡戯者であることを、善い意味に於て素破拔いた譯である。


 小松緑(1865〜1942)は、会津出身の外交評論家である。慶應義塾卒業後渡米し、エール大学、プリンストン大学に遊学した。帰国後外務省に入り、明治三十九年伊藤博文の韓国統監就任に従い統監府外交部長となり、韓国併合を現地で体験した。のち朝鮮総督府外務部長、中枢院書記官長を歴任。大正五年に退官してのちは、著述に従事した。著書に「明治外交秘話」「朝鮮併合之裏面」などがある。
 本篇は「近世秘譚 偉人奇人」(學而書院・1934)に収録されたものである。