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其日庵著述テキスト

桂大將傳自序

 故桂公と予とは、其交はりの初めより終に至るまで少しも利害關係のない交際であつたが、夫に拘はらず、常に腹の中では捩ぢり合ひ押し合ひして爭ひが絶へなかつた。已に利害關係がなくて、爭ひの絶へぬ間柄に拘はらず、双方とも嫌氣の起る位、間斷なく相逢ふて相談せねばならぬ程、用事が繁多であつた。夫に不思議なのは、初より終まで、一度も膨れ面をして、喧嘩をした事がなかつたのである。又可笑しい事には、公の薨去後に種々の面白い事を發見した。桂公は昵近者の或る予の親友に向つてコウ云ふた。曰く
「杉山は使ひやうに因つては國家の大仕事の役に立つ男である。併し元々が野生の一本杉であるから、何樣其枝振りが惡るい上に、手入が屆かずに居るから庭園の樹木には兎てもならぬが、樹質が堅牢であるから、節だらけの惡木でも、重荷には耐ゆる男である。夫で俺は二階梁や根太梁のような、荒木の儘で濟む處に斗り使つて居るのじや。
と又或時予は予の隨筆を反讀して見ると、桂公の事をコウ書いて居た、曰く
「桂公は或る火藥の如く、上と外に強く、下と内とに弱い人であるから、露國と戰爭をする事や、元老の壓迫に耐へるやうな事は、屹度爲し得る人である。故に上手に働かすれば、國家の大事の出來る人である。只だ注意すべき事は、縁族的の問題や、國民騷動などの事には、忽ちにして挫折する人だから、其點に克く支柱せねばならぬ。
と此兩者の心裡上の理想は、期せずして相一致して居る處に、双方絶對の信用信任を以て繋いで居たのであつた。
一、決して嘘を吐かぬ、
二、ドンナ痛い苦しみをしても、決して約束は違へぬ、
三、兩人の秘密は則ち兩人間の秘密であるから、一度も兩人以外の第三者に漏洩した事がない、
四、何事に依らず、双方共徹底的に親切であつた、
五、以上の事柄は、悉く國家的の事斗りに限られてあつて、私事ち云ふ物は、初めより終りまで、一事件も相談する隙がなくて永別したのである、
 此の如く大概五個の信用條件が、終始易らざりし爲めに、其良い事を仕たか、惡い事をしたかなどは、全く顧るの遑もない『ソモ逢かゝる始めより、末の末まで云かはし、互ひに胸を明し合ひ、何の遠慮も内證も世話しられても恩に着ぬ』的の眞に國家的英傑として交際をして、振古未曾有の大危機を共に經過して來たのである。
 抑も桂公の出廬關係と云ふは、明治三十四年に始まりて、大正二年の薨去に終つたと云ひ得る。其以前の事、即ち公が奧州戰爭、歐洲見學、軍人生活、師團長時代、次官時代、陸軍大臣時代等は、總て出廬以前の經歴に屬するので、公が其境遇と時代より受けたる教訓は、悉く公が偉大なるべき所以を指導した素地であるが、最後に於て寔に國家の安危を雙肩に擔ふて、前代無比の大業を了へられた勲績に至つては、當世何人も之を褒貶するの力を持たぬのである。
 回顧すれば明治三十年の頃、大隈・板垣の兩伯は、一致連合して伊藤内閣をオツ取捲き、息をも吐かず攻め立てたが爲めに、伊藤公は遂に漢文の辭表を捧呈して、内閣を板隈連合の憲政黨に明渡した。而して此内閣が數月ならずして倒潰するや、山縣公は平田・清浦の二子等を率いて内閣を組織したが、端なくも支那拳匪の亂に遭遇して、出兵するの止むを得ざるに至つた。伊藤公は旗鼓堂々、政友會を提げて此山縣内閣を十重二十重にオツ取捲いて糧道を絶つた。山縣公は是れ幸として伊藤公に内閣を明渡した後に於て、茲に始めて政友會の處女内閣が出來たのである。此内閣の發表と共に、星遞信大臣の攻撃が、貴族院の一角より起りて、見る/\中に内閣の顛覆を見んとするに至つたが、忝くも 陛下の御聲懸りに依て、一先づ其落着の付くが早いか、今度は其政黨内閣の臺所から、猛火がパアツと起つた。夫は彼の渡邊大藏大臣が、財政亡國論を提げて、内輪から燒立てたからである。夫で忽ちにして此政友會内閣は倒潰して仕舞ふたが、サア其後の内閣組織の困難と云ふものは大變であつて、誰一人御召に應ずる者もないのである。ナゼなれば各元老の意氣は張切る斗りに昂進して爪を磨いで居る。食物を召上げられた政黨は、餓狼の如くに牙を剥いて咆哮して居ると云ふ有樣であるから、誰一人我と名乘つて陣頭に立つの勇者はなかつたのである。只さへ心配家の井上伯は晝夜汗馬に鞭つて奔走盡力せられたが、夫は總て徒勞であつた。殆んど一ケ月に近い間、無政府の状態を見たから、是に兒玉大將は猛然と起つて、時の陸軍大臣桂公を膝詰めで説かれたのである。
「騏驥の跼躅するは、駑馬の安歩に如かず。猛虎の猶豫するは蜂蟲の螫すことを致すに如かずである。男子爲すべきの時は、今日を措いて又無いのである。若し此儘に放つて置けば、國家を無能の老骨や、横暴の政黨に委棄するまでである。若平生君國に忠誠を志す者は、斯る時にこそ、此猛火の中に飛込んで、上 陛下の宸襟を安んじ奉り、下非望の妖族を絶滅すべきの時である。夫には桂、先づ君が眞裸體で飛込むが當然であるぞよ。
と息も吐かずに懸河の辯を振はれた。桂公は曰く
「兒玉、ソンナ無茶を云ふても誰が僕を助けるのか。
「夫は、 陛下が君をお助け下さる。井上に僕が命を捨てて助けるのだ。
「ムウ夫は先づ別として、元老などに一人の援護者もなく、政黨にも一人の味方なしでは、今の政治は出來ぬぞよ。
「夫は元老も政黨も全部總掛りで助ける事になる、否助けるよふに仕掛けるのじや。
「ソンナ甘い事が出來るか。
「屹度出來る。
「ドウして。
「夫は元老も政黨も、頭の腦骨を叩き割つて助けねばならぬよふに仕向けさへすれば何でもない。
「サア夫はドウするのか。
「日露戰爭をオツ始めるのじや。
「ナンダと。
「ヲイ桂、耳の穴をホジクツテ、左手で臍を押へて、克く僕の云ふ事を聽けよ。君も俺も軍人として此戰爭をせずに居られるのか。露國はバルカン南下の失敗無念を東洋に向つて晴らさんとして、三億に近き巨資を投じて西比利亞鐵道を布設し、哈爾濱よりは出し拔けにニユーツと龍の手の樣に滿洲に支線を延ばし、奉天、遼陽、金州、瓦房店、青泥窪、旅順とズン/\南下し來りて、各永久の軍事的設備をして東洋を壓迫して居る。一方韓國の王室を掌中に握つた上に、所謂自強會なる親露黨を組織せしめ、李完用を始め宗徒の者は、滿身の媚を露國に傾けて日本を踏付け、今や馬山浦を軍港の意味にて露國に與へ、正さに對馬の租借を日本に申込むがよいなどゝ云ふて居るではないか。何にしても日本が、韓國にさへ手を付け得ぬ位なれば、露國は急潮の枯蘆を捲くが如く押掛つて來る。今若し我國が之を迎へるの策を樹てぬ時は、日本は滅亡である。左すればドンナ臆病者でも、敵を圜外に邀へて、乾坤一擲の壯擧に出づる外ないじやないか。最後の一人まで戰ふの外に何の仕事がある。此一大事は誰が遣つてもソーなるのであるから今其旗を君が荷いでドンと狼煙を揚げたら、夫こそ元老も政黨も、總掛りで君を助ける外仕方はない事になる。サアドウじや。
と恰も懸崖に石を落すが如く説立てた。之を聽いて居た桂公は、アームチヤに體を埋まる程に曲げて、顏の半分は着物の襟にメリ込ませて考へ込んで居たが、稍十分斗りも過ぎた頃、俄然として恟りするような聲で一喝した。
「ヨシ遣る《※4文字に白丸傍点》。今日の時 陛下に命を差上げねば、再び僕の一生に其機會はないのじや。ヲイ兒玉シツカリ頼むぜ。
と地響のするやうな力強い聲で絶叫して立上り、兒玉大將の右手をシツカリと握り占めて、容易に離されなかつた。
 予生れて四十幾年。徒らに寢ね、徒らに奔り、徒らに怒りて、永の年月無可有然たる原野を、徒らに狂ひ廻りて來たが、今月今日、何の光榮か生存中に此驚天動地の大快諾を聽く事を得たのである。否又何の天縁か、予が其席に列せしめられるの大幸を得たのである。夫が因縁の出發點となつて、爾後十年間と云ふものは、筆にも口にも盡されぬ程の、知友關係が出來たのである。故に此間に何で利害の關係や、膨れ面が有るで有ろふぞ。而して今や此兩大將の颯爽たる聲容は、已に十數年の昔の夢となつて、共に嘗め來りし幾多の艱難は、流れて消へ行く浮世の泡沫となつて仕舞ふた。兒玉大將は大戰後間もなく、俄然として天上の神閭に遊び、桂大將又紹いで其跡を追ひ、白玉樓中簫笳の音を慕ふて、白輪の車に駕せられたのである。只だ予一人は、昔の儘の弊衣短褐で、塵埃渦の如き此穢土に生殘つて、彼の徒の字盡しを繰り返して居るのである。秋曉星鮮かなるの時、天に向つて呼べ共答へず。春雨窓を敲くの夜、燈に向つて泣け共影なし。時勢は又徒らに馳せて、懸崖百仭の逕を下る。豺狼道に横はつて狐狸四邊に叫ぶ。予の豪放虎の如しと雖も、故是憂國一塊の弱い人間である。ドウして故人を憶はずに居る事が出來やうぞ。敢て可憐の禿筆を呵して其傳を綴るのは、之を血性ある愛撫幾千の青年に頒つて、一掬の同情けを覓むるのである。予や已に昨年兒玉大將の十三回忌に方つて其傳を著す。今年又桂大將の七回忌に逢ふ。何で此儘に已まれやうぞ。
幾回疑有故人歸《※ルビ:いくゝわいかうたがふじんかへるあるかと》。
尋思於茲涙滿衣《※ルビ:こゝにじんしすればなんだころもにみつ》。
落日悠々春復老《※ルビ:らくじついう/\としてはるまたおゆ》。
遠天無限鳥空飛《※ルビ:ゑんてんかぎりなくしてとりむなしくとぶ》。

 大正八年己未暮春
                   大正の浪窟台華社樓上にて
其日庵主人識

予は茲に改めて一言せねばならぬ事がある。夫は此桂公の傳を著はすに付いて、具體的の材料を得るに困難なりし事は實に筆紙に盡されぬ程であつた。夫を元桂公の秘書官たりし横澤次郎氏が、深く故公の舊恩を思ひ、又予の心情けを憫んで、終始間斷なく其材料を蒐輯して送られたればこそ、ヤツトの事コンナ不完全な物でも書上げる事が出事《※ママ》たのである。此厚志は深く之を感謝すると同時に、予の永く忘却する事の出來ぬ一事である。又曩きの兒玉大將傳を著す時、編輯校閲の勞を執て呉れられた、著述專門の某大家は又此稿も同樣、其勞を執つて呉れられたのである。其好意に凭るにあらざれば、予の劇忙を以てドウして此著を完了する事が出來ようぞ。併せて茲に之を謹謝するのである。最後に倉辻白蛇氏や、社員一同が、此書の刊行に費やしたる多くの努力も、是又予の厚く感銘する處である。


【底本】
 「桂大將傳」杉山茂丸著・大正9年・博文館発行
【註記】
 ○漢字の使用については、JIS第2水準までの範囲において、底本に忠実に入力することとし、正字体を使用した。JIS第2水準に加えられていない正字体については、簡易体を使用した。
 ○仮名使い、ルビ、句読点については、底本に忠実に入力した。ルビは《》内に記述した。