久作関係人物誌
横溝正史(よこみぞ・せいし)
本名は「まさし」と読むのが正しい。探偵小説の揺籃期に登場した作家としては、江戸川乱歩と並んで最も著名な作家と言えよう。明治三十五年五月二十四日神戸に出生。中学時代に翻訳家西田政治の弟徳重と出会い、海外の探偵小説を渉猟し始める。作家としてのデビューは大正十年四月に「新青年」に発表した「恐ろしき四月馬鹿」で、当時弱冠十八歳の早熟ぶりであった。江戸川乱歩が「二銭銅貨」で探偵文壇に登場するのは大正十二年四月の同誌であるから、横溝正史のデビューは乱歩より二年も早い。
大阪薬学専門学校を卒業後、一時期薬剤師として家業の生薬屋を手伝ったというが、大正十五年秋、江戸川乱歩の勧めで「新青年」発行元である博文館に入社。昭和二年三月に森下雨村の後任として「新青年」編集長に就任、翌年十月まで編集長を務めた。横溝が編集長にあったその僅かな期間に、「新青年」誌は元来の青年の志操育成というカラーを完全に拭い去り、「新青年」趣味とでも呼ぶべきモダニズムとダンディズム溢れる雑誌に変貌した。同時に、探偵小説のメッカとしての地位を不動のものにしたという意味で、横溝の編集者としての功績は多大であると言える。
横溝の博文館時代は昭和七年夏まで続くが、この間も雑誌編集の傍ら創作の筆を執り続けていた。作家としての横溝正史の活動は、概ね四期に区分することができる。第一期は処女作から博文館時代であって、この時期の作風はユーモアとナンセンス趣味にペーソスを加味した軽い読み物といった印象が強い。当時、海外の作家の中で人口に膾炙していたのがルヴェルやビーストンであったということもその背景にあったのだろう。その作風が一変したのが昭和八年一月に発表された「面影草紙」で、以後結核による大喀血と諏訪への転地療養の時代に陸続と発表される「鬼火」「蔵の中」「かひやぐら物語」などの中短篇や長篇「真珠郎」など、我が国の戦前探偵小説界において多くの作家の無意識の主題となっていた「愛憎と残虐」の世界を、横溝自身も描き始める嚆矢となったのである。この昭和八年から、人形佐七捕物帖執筆に至るまでの時期が、横溝正史の第二期であると言える。第三期は日中戦争が泥沼化し始める時代、多くの探偵作家がそうであったように、横溝も従来の如き探偵小説を書く能わざる状況に、人形佐七捕物帖や戦時迎合の作品を発表せざるを得なかった。この時期は、いわば横溝が次の時代に飛躍するための雌伏の時期であったとも言えよう。第四期が戦後、昭和二十一年四月から「宝石」誌に連載を開始した「本陣殺人事件」を嚆矢とする本格探偵小説の時代である。純日本家屋における密室トリックという前代未聞のプロットを実作において具現化したこの作品によって、我が国探偵小説は新たな時代へと進んでゆくのであり、横溝正史はその新たな時代の先導者となって、「獄門島」「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」などの名作を次々と世に問うたのである。
昭和三十九年以来筆を絶っていたが、昭和四十九年十一月「新版横溝正史全集」に書き下ろした「仮面舞踏会」以後、「病院坂の首縊りの家」「悪霊島」など古希を過ぎたとも思えぬ力作を発表した。また昭和五十年頃からの横溝正史ブームで、角川文庫版の著作が一千万部を超える売り上げとなり、極く一部のファンだけが知っていた「名探偵・金田一耕助」が、一躍明智小五郎と並ぶ有名人になってしまったことは記憶に 新しい。昭和五十六年十二月二十八日、結腸癌により没す。享年七十九歳。
私事にわたるが、筆者はまだ角川文庫に「八つ墓村」一点が収録されていたに過ぎない二十数年前の高校生時代に、古書店で購った横溝正史の作品集に収録されていた短篇「車井戸はなぜ軋る」を読んで以来、横溝正史に耽溺した経験を持ち、爾来今もこの作品が横溝の数多ある著作の中で最も愛好する一篇である。
横溝正史と夢野久作が出会ったことはないと断言してよいと考える。それを証明する確定的な史料はないが、久作が東京の探偵文壇に姿を現したのは昭和十年一月の「ドグラ・マグラ」出版記念パーティが最初で最後であったし、そのとき横溝正史は諏訪に転地療養中であったから、この二人が対面する場面があったとは考えられない。両者の接触の記録は久作の日記の昭和二年十二月一日の項に残されている。曰く「新青年の横溝氏より、原稿送れと云い来る。『人の顔』と『白菊』の二篇を候補作にきめる」。このとき久作が横溝の依頼によって送ったのは「人の顔」、翌年三月の「新青年」に掲載されている。「人の顔」は、江戸川乱歩をして久作の評価を転換させる契機となった作品である。久作の文壇デビュー作「あやかしの鼓」を乱歩が酷評したことは夙に知られているが、乱歩は本作に対し好意的な評価をし、「それを見ると、私の最初の考は甚く違って居たのではないか、と云ふ事を感じました」と述べている。
横溝は随想「好敵手甲賀・大下」の中で、戦前の探偵作家中、作家としての本領を発揮し得た人物として江戸川乱歩、甲賀三郎、大下宇陀児の三人の名を挙げ、「夢野久作さんは遠隔の地でありすぎたし、海野十三氏はSFへいきすぎた。小栗虫太郎さんと木々高太郎氏は出るのが少し遅れたと思う」と回顧している。この文章は昭和四十八年のもの、横溝正史が探偵文壇の大御所として一大ブレイクする直前のものである。久作の死後四十年近く経った時期に横溝のこの認識、久作もって瞑すべし。
大阪薬学専門学校を卒業後、一時期薬剤師として家業の生薬屋を手伝ったというが、大正十五年秋、江戸川乱歩の勧めで「新青年」発行元である博文館に入社。昭和二年三月に森下雨村の後任として「新青年」編集長に就任、翌年十月まで編集長を務めた。横溝が編集長にあったその僅かな期間に、「新青年」誌は元来の青年の志操育成というカラーを完全に拭い去り、「新青年」趣味とでも呼ぶべきモダニズムとダンディズム溢れる雑誌に変貌した。同時に、探偵小説のメッカとしての地位を不動のものにしたという意味で、横溝の編集者としての功績は多大であると言える。
横溝の博文館時代は昭和七年夏まで続くが、この間も雑誌編集の傍ら創作の筆を執り続けていた。作家としての横溝正史の活動は、概ね四期に区分することができる。第一期は処女作から博文館時代であって、この時期の作風はユーモアとナンセンス趣味にペーソスを加味した軽い読み物といった印象が強い。当時、海外の作家の中で人口に膾炙していたのがルヴェルやビーストンであったということもその背景にあったのだろう。その作風が一変したのが昭和八年一月に発表された「面影草紙」で、以後結核による大喀血と諏訪への転地療養の時代に陸続と発表される「鬼火」「蔵の中」「かひやぐら物語」などの中短篇や長篇「真珠郎」など、我が国の戦前探偵小説界において多くの作家の無意識の主題となっていた「愛憎と残虐」の世界を、横溝自身も描き始める嚆矢となったのである。この昭和八年から、人形佐七捕物帖執筆に至るまでの時期が、横溝正史の第二期であると言える。第三期は日中戦争が泥沼化し始める時代、多くの探偵作家がそうであったように、横溝も従来の如き探偵小説を書く能わざる状況に、人形佐七捕物帖や戦時迎合の作品を発表せざるを得なかった。この時期は、いわば横溝が次の時代に飛躍するための雌伏の時期であったとも言えよう。第四期が戦後、昭和二十一年四月から「宝石」誌に連載を開始した「本陣殺人事件」を嚆矢とする本格探偵小説の時代である。純日本家屋における密室トリックという前代未聞のプロットを実作において具現化したこの作品によって、我が国探偵小説は新たな時代へと進んでゆくのであり、横溝正史はその新たな時代の先導者となって、「獄門島」「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」などの名作を次々と世に問うたのである。
昭和三十九年以来筆を絶っていたが、昭和四十九年十一月「新版横溝正史全集」に書き下ろした「仮面舞踏会」以後、「病院坂の首縊りの家」「悪霊島」など古希を過ぎたとも思えぬ力作を発表した。また昭和五十年頃からの横溝正史ブームで、角川文庫版の著作が一千万部を超える売り上げとなり、極く一部のファンだけが知っていた「名探偵・金田一耕助」が、一躍明智小五郎と並ぶ有名人になってしまったことは記憶に 新しい。昭和五十六年十二月二十八日、結腸癌により没す。享年七十九歳。
私事にわたるが、筆者はまだ角川文庫に「八つ墓村」一点が収録されていたに過ぎない二十数年前の高校生時代に、古書店で購った横溝正史の作品集に収録されていた短篇「車井戸はなぜ軋る」を読んで以来、横溝正史に耽溺した経験を持ち、爾来今もこの作品が横溝の数多ある著作の中で最も愛好する一篇である。
横溝正史と夢野久作が出会ったことはないと断言してよいと考える。それを証明する確定的な史料はないが、久作が東京の探偵文壇に姿を現したのは昭和十年一月の「ドグラ・マグラ」出版記念パーティが最初で最後であったし、そのとき横溝正史は諏訪に転地療養中であったから、この二人が対面する場面があったとは考えられない。両者の接触の記録は久作の日記の昭和二年十二月一日の項に残されている。曰く「新青年の横溝氏より、原稿送れと云い来る。『人の顔』と『白菊』の二篇を候補作にきめる」。このとき久作が横溝の依頼によって送ったのは「人の顔」、翌年三月の「新青年」に掲載されている。「人の顔」は、江戸川乱歩をして久作の評価を転換させる契機となった作品である。久作の文壇デビュー作「あやかしの鼓」を乱歩が酷評したことは夙に知られているが、乱歩は本作に対し好意的な評価をし、「それを見ると、私の最初の考は甚く違って居たのではないか、と云ふ事を感じました」と述べている。
横溝は随想「好敵手甲賀・大下」の中で、戦前の探偵作家中、作家としての本領を発揮し得た人物として江戸川乱歩、甲賀三郎、大下宇陀児の三人の名を挙げ、「夢野久作さんは遠隔の地でありすぎたし、海野十三氏はSFへいきすぎた。小栗虫太郎さんと木々高太郎氏は出るのが少し遅れたと思う」と回顧している。この文章は昭和四十八年のもの、横溝正史が探偵文壇の大御所として一大ブレイクする直前のものである。久作の死後四十年近く経った時期に横溝のこの認識、久作もって瞑すべし。
参考文献
●「探偵小説昔話 横溝正史全集18」横溝正史・講談社●「横溝正史年譜」島崎博編・雑誌「幻影城増刊 横溝正史の世界」(第二巻第六号)所収
●「夢野久作氏の人と作品」(講演速記録)江戸川乱歩・平河出版「夢野久作の世界」所収
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