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久作関係人物誌




後藤保弥太(ごとう・やすやた)
後藤保弥太は、杉山茂丸の親友であった後藤猛太郎の長男であり、明治維新に際し徳川慶喜に大政奉還を進言した土佐の後藤象二郎の嫡孫にあたる人物である。
 久作日記明治四十三年一月七日の項に「At night I went to the story-teller's hall which is in hundred steps from my house to see the cinematograph with the Count Goto's sons and Mr. Misumi, very interesting.」との記載がある。杉山龍丸の注解では、「Count Goto's son」とは「後藤新平伯の長男、後藤市助伯、後に東亜合成監査役」とされているが、後藤新平は明治三十九年に男爵を授爵、大正十一年に子爵に陞爵、伯爵となるのは死の前年の昭和三年であるから当時はまだ男爵、従って日記に記された後藤伯爵とは後藤猛太郎のことであろう。
 従って、この日記に記された後藤伯爵の息子達とは、保弥太たち兄弟のことである。
 後藤保弥太は、猛太郎の死後弱冠十七歳で襲爵するが当時は十五歳、父親同士の繋がりから当然に久作と保弥太ら後藤伯の子息達も交際があっただろうし、当時二十一歳の久作が弟分のように後の伯爵を映画鑑賞に伴ったものであろう。
 保弥太は家督を継いだ後、三菱の千石貢の後見を受けて米国ブリンストン大学に留学し、帰国後も伯母(後藤猛太郎の姉)の嫁ぎ先である三菱財閥の総帥岩崎弥之助の庇護を受けて事業を始めた。昭和六年の「人事興信録」によれば、北濃鉄道株式会社社長という肩書きになっている。しかし、やがて新橋の芸者に溺れ、事業にも失敗し、スキャンダルにまみれたまま貧窮と失意の裡に昭和十二年七月、四十一歳の若さで死去した。

参考文献
●「明治の人物誌」星新一・新潮社・1998
●「第九版 人事興信録」人事興信所・1931
●「東亜先覚志士記傳」黒龍会編・原書房・1966