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久作関係人物誌




月成功太郎(つきなり・こうたろう)
月成功太郎は旧福岡藩士で玄洋社社員、大正二年三月五日に五十四歳で死去したというから、安政五、六年の生まれであろうか。同じ月成姓の玄洋社社員に、月成元義と勲、光(のち梶川姓)の兄弟がいるが、功太郎は同族ながら別家の出生である。月成元義ら兄弟は知行三千石を領する福岡藩家老の家柄であった。
 月成功太郎の名は、明治二十二年十月十八日の、玄洋社社員来島恒喜による大隈重信襲撃事件と、その娘が広田弘毅に嫁ぎ悲劇的な最後を遂げたことで知られる。
 明治維新以降、我国外交上の最大の懸案は、関税自主権の回復や外国人に対する裁判権の確立など、不平等条約の改正問題であった。明治二十一年二月に第一次伊藤博文内閣の外相となった大隈重信は、同年四月に首相が黒田清隆に代わっても留任し、その問題に全力を傾注していたのだが、大隈が纏め上げた条約改正案は、外国人裁判官の採用など、前任の井上馨の改正案と大同小異であったため、その内容が公開されるや新聞はもとより反政府の立場をとる政党などから猛烈な反撥が沸き上がった。閣内においても、法制局長官の井上毅が大隈案反対の急先鋒となり、逓信大臣の後藤象二郎がそれに同調するなど、賛否が真っ向から対立する事態に至ったのであるが、首相の黒田は大隈を支持し、大隈も不屈の態度で条約改正に臨んでいたため、政情は極めて混沌としていた。
 閣外で大隈の条約改正案に反対するのは、言論界では陸羯南、杉浦重剛ら、民権主義者からは中江兆民や大井憲太郎、国権主義陣営からは頭山満の玄洋社や佐々友房の熊本紫冥会、軍人では谷干城や三浦観樹らであり、現代の認識に従えば右から左まで揃った錚々たる面々であるが、これらの人々が度々会同し条約改正案の破棄を叫んでも、大隈重信の条約改正への意志は微動だにしなかった。
 議論百出して決め手のない一日、諸士の悲憤慷慨を默って見ていた頭山満は、徐ろに口を開いた。
 「屈辱条約の改正は断じてやらせてはならない。余は政府をしてやらせぬことに決めた」
 そのとき満座を沈默せしめた頭山の決意を知って、大隈襲撃を志願したのが月成功太郎や来島恒喜である。
 来島は明治二十二年八月十七日に上京の途につき、月成功太郎は来島を追って9月25日に上京、来島が滞在する神田美土代町の塚本某宅に到着した。来島は、月成功太郎に老母、妻子のあることを慮り、一人の大隈を誅戮するのに二人の力は要らぬと説いたが、月成は来島の意見を容れず十月十三日に到り来島に大事決行を促した。しかし来島は警備の厳重さを言い、他日を期すことを約して別れたという。
 来島は十七日にも横浜で月成功太郎と会するが、単騎大隈を襲撃するという決意はおくびにも出さず、美和作太郎ら玄洋社の同輩と旧交を暖めて別れた。
 来島恒喜が大隈外相を襲撃したのは、その翌日であった。後年、韓国の閔妃殺害に関与することになる月成光を後見役に伴い、頭山満が大井憲太郎、高野麟三らを通じ、最終的に三多摩壮士の森久保作蔵から手に入れた爆裂弾を、閣議を終え官邸に戻らんとする大隈の馬車に投擲したのである。
 硝煙とともに馬車は外相官邸に走り込んだ。大隈暗殺に成功したと判断した来島は、物陰から一部始終を見ていた月成光に合図を送ると、皇居の方角を遥拝し、自刃した。短刀を自らの左の頸部に突き立て、そのまま右へ回して、首の半分を切り飛ばすという凄惨な死に樣であった。
 来島に自刃の方法を教えたのは杉山茂丸である。茂丸と来島とは、父親同士が福岡黒田藩の同役であって、幼馴染みの間柄であった。その後交流は途絶えたが、茂丸と頭山満との出会いの際に、来島とも再会したものである。そのような間柄であったからか、来島は大隈襲撃を決意して上京する前に、茂丸に理由もなく自殺するときは喉笛を切ればよいのかと聞いたという。茂丸はこう答えた。
「馬鹿なことを云ふな咽管などを切ったら夫こそ見苦しい耻を掻くぞ、咽管に疾患のある時などは醫者が刎ね切って護謨管を繼ぎ足して呼吸をさせ、其上の方を休ませて治療をするではないか。武士の自殺する時は頸動脈が耳より後にあるから、耳尻に深く短刀を突込んで、斜めに氣管に掛けて刎ね切り、短刀を握った儘兩手を膝に突き、少し辛抱すれば脳の血液が直に下って出るから、見苦しく居住居を崩さずに死ねるものぢゃ」
来島の自刃は、茂丸に教えられたとおりの武士の作法を守ったものであった。
 大隈外相襲撃犯が玄洋社社員であることが判明するや、警察は関係者の一斉捕縛に踏み切った。このとき、福岡では平岡浩太郎、進藤喜平太をはじめ、的野半介、岡喬、林斧助らの玄洋社社員とともに、杉山茂丸も拘引された。頭山満は大阪で拘引され、東京では月成功太郎、月成勲、月成光、浦上正孝らが捕縛された。
 月成功太郎は来島が大隈外相を襲撃したことを聞くと、来島が約束を違えて単騎襲撃に及んだかと、心中穏やかならぬものがあったが、来島がかねて月成功太郎に老母、妻子のあることから、その自重を説いていたことを想い、来島の友誼と、遅れをとって来島一人を死なせた無念さに悶々たるものがあったという。
 月成功太郎らは、獄に繋がれること半年に及んだが、遂に警察は来島以外の連累者を見出すことができず、拘引された容疑者はすべて放免された。
 月成功太郎の娘静子は、広田弘毅の夫人となった。広田と静子は幼い頃から知己の間柄であったというが、広田が東大在学中に同僚と住まいしていた「浩浩居」の近隣に功太郎と住んでいた静子が、浩浩居に出入りし炊事などを手伝っていたことからの縁であった。以来、広田弘毅が外交官としてのキャリアを積み重ね、外務大臣を経て内閣首班に登り詰めるのを支え続けたのだが、我国の太平洋戦争敗北に続く極東国際軍事裁判、所謂「東京裁判」の被告として広田弘毅が起訴されるに至り、静子は昭和二十一年五月十八日払暁、服毒自殺を遂げた。五月十四日、広田が収監されて以来、ただ一度の面会に赴いた夫人は、帰宅後練馬の仮寓から慌ただしく藤沢市鵠沼の別邸へ移り、そこで自害したのである。子供たちに「パパがいる時代に、日本がこんなことになってしまって、このような戦争を止めることができなかったのは恥ずかしいことです」と洩らしていたという。
 夫の裁判の行方を見屆けることなく決然と死を選んだ広田静子の行動は、なぜかその父の傍輩であった来島恒喜の死をオーバーラップさせる。そこに明治という時代や玄洋社の思想が浮かび上がるように感じるのである。
 久作日記昭和二年一月三十一日に、「水茶屋に月成氏を訪ふに不在」とある。杉山龍丸の注解では月成功太郎のことであるとされているものの、既述のように月成功太郎は大正二年に死去していることから、この日久作が訪ねたのは当時玄洋社相談役を務めていた月成勲であろう。ただ、東京に在住していた月成功太郎と、青年期に東京にあった久作との間に面識があった可能性は極めて高い。

参考文献
●「玄洋社社史」玄洋社社史編纂会・近代資料出版会・1977
●「増補版 玄洋社発掘 もうひとつの自由民権」石瀧豊美・西日本新聞社・1997
●「大アジア主義と頭山満」葦津珍彦・日本教文社・1965
●「雲に立つ」松本健一・文藝春秋・1996
●「百魔」杉山茂丸・大日本雄辨会・1926
●「広田弘毅」広田弘毅伝記刊行会編・広田弘毅伝記刊行会・1966
●「秋霜の人 広田弘毅」渡邊行男・葦書房・1998
●「東京裁判」児島襄・中央公論社・1997
●「知られざる大隈重信」木村時夫・集英社・2000
●「近代国家の出発 日本の歴史21」色川大吉・中央公論社・1989