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久作関係人物誌




高畠義彦(たかばたけ・よしひこ)
昭和四年頃までの夢野久作の日記の中に、久作が上京した際に必ずといってよいほど名前が出てくる「王様」とは、杉山龍丸の註解によれば、久作の義母幾茂の従妹の長男に当たる高畠義彦を指し、元軍人であって、中尉のとき連隊長と喧嘩をして退官し日魯漁業に入社、カムチャツカ漁場の主任となって現地人の王様の如き生活をしたことから「王様」の渾名を冠せられることとなったという。
また、杉山龍丸の著作である「わが父・夢野久作」には、久作の東京における葬儀の際、喜多実が霊前に捧げた「敦盛」の謡を聴いていた龍丸が、その哀切極まる謡曲の調べに、思わず気が遠くなるような状態に陥ったときに、高畠義彦が背後にムズと座ったので、漸く持ち堪えたというエピソードが記されている。
その高畠義彦は、旧名を広次という。幾茂の母親と高畠義彦の母親とが姉妹であったから、夢野久作との間に血縁関係はない。明治二十八年二月二十八日、福岡県糸島郡今津村(現福岡市西区今津)に出生、久作よりは六年の年少であった。
高畠は、陸軍の熊本幼年学校から陸軍士官学校に進み、職業軍人を志した人物である。中野雅夫の「昭和史の原点2 満州事変と十月事件」では、太平洋戦争末期に沖縄防衛戦で三十二軍参謀長に就任し、沖縄陥落後自決した長勇中将と幼年学校、士官学校の同期であったとされ、それによれば陸士二十八期となるが、正しくは陸士二十七期で、長勇より一年先輩にあたる。長勇とは同郷であることから、親交を深めたという。
大正五年九月に陸士を卒業して、香川県丸亀の歩兵第十二連隊に配属された。当時丸亀には、山東出兵の際に捕虜となったドイツ兵約三百名が収容されていたが、高畠は捕虜係士官を命ぜられ、翌年四月には、徳島県板東収容所に移されることとなったドイツ軍捕虜の護送の任に当たり、無事に任務を果たして感状を受けたという。
しかし高畠義彦は、中尉に進んだ大正八年頃に、連隊長とのトラブルによって軍を去ることになる。喧嘩の原因は不明であるが、連隊長を殴打したと伝えられるその事件によって軍を去った高畠は、しばらく浪人した後、おそらくは杉山茂丸の斡旋によるのであろう、日魯漁業に入社した。
高畠義彦が、夢野久作によって「王様」と呼ばれるような生活をしたのは、この際のことであろう。高畠はカムチャツカ半島の喉元にあたるギジガの日魯漁業の現地基地に主任として赴任し、大正十年九月から翌年六月にかけて越冬した。高畠のカムチャツカでの越冬については、杉山茂丸の「俗戦国策」に「庵主の甥、高畠義彦(予備歩兵中尉)を、大正十一年来、極北最寒の堪察加《カムチャツカ》に派遣し、数人と共に越年を試みさせて見た」と記されている。
このとき、高畠は部下一名を伴って、犬橇で厳冬のカムチャツカ半島を一周した。この冒険は参謀本部の密命によって、地誌の調査とボリシェヴィキの動向探索を目的としていたといい、退官後も軍との関係が続いていたことが伺われる。
また、大正十一年八月には、カムチャツカ沖合で日本海軍の軽巡洋艦が転覆し、高畠は漁船を駆ってこの救助にあたったという。
その後高畠義彦は日魯漁業を退社し、自ら国際工船漁業という会社を興す。この会社は、北洋での漁獲物のうち、価値が薄く棄てられていた雑魚をフィッシュミールに加工して家畜飼料として輸出する事業を行っていたという。
昭和六年五月、報知新聞社は北太平洋の空路開拓を企図して、ユンカースA五〇型水上機による太平洋横断飛行を試みた。この飛行は、出発前から最難関と予想されていた千島列島上空において、濃霧に巻き込まれて新知島(露名シムシル島)近辺で遭難し、失敗に終わったのであるが、報知新聞のこの企画に際し、高畠義彦が経営する国際工船漁業は、持ち船「第百国際丸」を使って、着水給油地に燃料や食料、整備士や報知新聞特派員などを送り届ける任務を請け負っていた。その給油地とは、カムチャツカ半島のペトロパブロフスクを起点として、ニコルスコエ、アッツ、アムチトカ、アトカの各島嶼を経てウナラスカ島ダッチハーバーまで、都合六カ所であった。高畠も乗り込んだ「第百国際丸」は、千島列島沖で猛烈な台風に遭遇し、転覆寸前となる難航海を乗り切って、無事任務を遂げたという。このときの報知新聞は「殊勲の第百国際丸」という見出しで、次のような記事を掲載している。
「北太平洋横断の全航程一万二百四十五キロ中最難関と聞くアリューシャン群島ウナラスカ島ダッチハーバーまでの燃料油と、決死的な地上勤務員を乗せた第百国際丸は北海の荒波に幾度か危険を伝えられつつ露領ペトロ、ニコルスキーからアリューシャン群島、アッツ島のチチヤゴフ港、アンチトカ島のコンスタンチー港、アトカ島のナザン・ベーに配油と地上勤務員の配置を続け、最後の地ダッチハーバー港へ九日午後五時(日本時間十日午後一時)海路三千八百余浬の難航を無事押し切って到着その大任を果した 」
このように、高畠義彦の事業は順調であったようだが、同じ昭和六年の秋に至って、大きな転機を迎えることになった。
この年は、我が国の近代史において、歴史が激しく動いた重要な年であったといえる。即ち、陸軍の意志が国政を左右し、そのことによって日中戦争という泥沼に脚を踏み入れ、さらに米英を相手とした無謀とも言える太平洋戦争へと突き進んで行くという、そうした歴史の胎動があからさまになったのが昭和六年であった。
この年、三月に三月事件が企図され、九月に満州事変が起こり、そして十月には十月事件が露顕した。
三月事件は宇垣一成陸軍大将を内閣首班に擔ぎだそうとするクーデター未遂事件であり、陸軍首脳部も関与していたといわれるが、政情の動きを敏感に察知した宇垣の豹変によって未遂に終わった。その顛末は山県有朋から桂太郎、寺内正毅、田中義一と続く長州軍閥の後継者たる宇垣の、陸軍に対する支配力を失墜せしめる結果となり、後年に至って宇垣に組閣の大命が降下した際、陸軍が大臣の推薦を拒否し、宇垣が大命を拝辞せざるを得なくなるという事態を招来したのであった。
満州事変については多くを語る必要はあるまい。石原莞爾の異才が遺憾なく発揮されたこの謀略は、軍事的側面においては稀代の成功を収めた事変であったが、反面においては政治による軍部の統制という、本来あるべき姿を当時の日本の為政者からもぎ取ってしまい、かつまた、天皇に専属すべき兵馬の大権を軍自ら干犯することとなっても、その結果が成功に終わるのでありさえすれば、行賞をもって報いられるのだという風潮を軍人に植え付けてしまった不幸な事件でもあった。
そして、満州事変に対する国内での呼応行動として意図されたのが十月事件である。荒木貞夫陸軍中将を内閣首班に擔ごうとするこのクーデター未遂事件は、三月事件と同様に参謀本部のロシア班長であった橋本欣五郎中佐が中心となり、やはり橋本が結成した陸軍の少壮将校の集まりである桜会に拠る軍人が、それぞれの率いる兵を動員して内閣を倒そうとするものであり、五年後の二・二六事件の原点ともいうべきものであった。
その十月事件に、高畠義彦は些かの関わりを持っていた。
陸軍時代に高畠が親交を結んだ長勇とは、退官後も交友が続いていた。その長は、昭和六年当時少佐に進んでおり、橋本欣五郎中佐が主宰する陸軍内の同志集団桜会に参加していた。時期は詳らかにしないが、三月事件が宇垣の豹変によって未遂に終わって以降のことであろうと思われる。高畠義彦と橋本欣五郎とは、長勇の紹介によって知己の間柄となった。
その後、高畠義彦は橋本を杉山茂丸に紹介し、橋本は当時陸軍の少壮将校に絶大なる信望を得ていた荒木貞夫中将を杉山茂丸に会わせた。荒木が後年陸軍大臣の座を射止めたのは、茂丸から元老西園寺公望に対する働きかけがあったことも与っているといわれている。
三月事件の失敗を教訓に、更なるクーデター計画を着々と進めていた橋本欣五郎は、満州事変間近の昭和六年九月初旬、甘粕正彦の訪問を受けた。甘粕とは、関東大震災の混乱の中でアナーキストの大杉栄を殺害した元憲兵大尉その人である。
石原莞爾の紹介状を持った甘粕は、明治天皇宸筆の短歌の軸物を示し、それを売却して五万円を調達してほしいと橋本に依頼した。石原の事変実行資金であろうと推測した橋本は、高畠義彦に連絡し、甘粕を引き合わせた。高畠が士官学校生であったとき、甘粕の従兄の甘粕重太郎が区隊長であったという縁もあって、高畠は橋本に乞われるまま、ともに杉山茂丸を往訪して金策を依頼し、茂丸は王子製紙社長の藤原銀次郎に連絡して三万円の融通を受け、その現金は高畠義彦が受け取りに赴いた。そのとき茂丸は橋本に対し「金は三万円でしんぼうせい、軸物は返す。こげんな品を持ち歩き、金にする心がいかん」と訓戒したという。
その後満州事変勃發を経て、十月に入ると橋本欣五郎のクーデター計画は実行を待つのみとなっていた。橋本に協力する者は、橋本が主宰する陸軍桜会に拠った和知鷹二少佐、長勇少佐、小原重孝大尉、田中弥大尉らが中心であり、更に海軍においても藤井斉中尉らの協力を取り付けていた。
橋本の手記によれば、クーデター計画は「一夜にして政府機能を撲滅し、之に代るべき政府者に大命降下を奏請するにあり、之が為に各大臣、政党首領、某某実業家、元老、内相、宮相等を一時に殺戮し、陸軍高級者は監禁乃至殺戳し、之に使用する兵力は歩兵二十三聯隊、機關銃六十丁、毒瓦斯、爆弾、飛行機なり」という、まさに二・二六事件を髣髴とさせる大兵力であった。決行は十月二十四日払暁と予定され、長勇が総理官邸を、小原重孝が警視庁を襲撃することなどが決定していたという。
しかしこの計画は、決行の十日前頃から、いくつかのルートで徐々に情報が漏洩し始めた。陸軍省に勤務する田中清大尉から池田純久少佐へのルート、西田税から小笠原長生海軍中将のルート、外務省の守島伍郎アジア局第一課長から西園寺公望の秘書である原田熊雄へのルートなどである。決行一週間前の十六日には、参謀本部作戦課長であった今村均のもとに、支那班長の根本博中佐、影佐禎明少佐、藤塚止戈雄少佐が訪れ、橋本の計画を暴露し、首謀者の検挙を進言したという。今村から報告を受けた南陸相、金谷参謀総長、永田鉄山ら陸軍首脳は、内閣首班に擬されている荒木貞夫と諮り、クーデターを未然に防ぐべく動き出した。
こうした動きは橋本も察知しており、十六日夜に荒木と会見した橋本は荒木の決起を要請し、「決起せねば、荒木といえど、容赦せんぞ」と威嚇したと伝えられる。
橋本や長らクーデターの首謀者は、連日料亭において高吟放言し気勢を揚げていたと言われ、それが末端の兵士らの猜疑を招きクーデター計画の失敗に繋がったとも伝えられるが、荒木貞夫は長がいる料亭に出向き、満州における戦闘の最中に国内に騒乱を起こす不利を説き、計画の中止を促した。長は荒木の言を受け入れたが、そのとき橋本欣伍郎はその場に居合わせていなかった。
橋本は別の料亭から高畠義彦に連絡をし、杉山茂丸を訪問していたのである。事破れたことを知った橋本は、同志の助命を依頼するために、高畠を通じ、茂丸の力を借りようとしたのであった。
高畠とともに茂丸に面会した橋本は、責任は一身に負う覚悟であるから同志千五百名の命を救って欲しい、そのため西園寺公望に対し工作をして欲しいと願い出た。元来、西園寺は橋本らの計画において殺戮すべき対象の一人であったから、橋本の依頼は、まさに事破れて膝を屈したとしか表現できない。
茂丸は京都に滞在していた西園寺に電話をかけ、秘書の中川小十郎を通じて橋本らの助命を求めた。その電話は一時間も続いたが、茂丸の口からほとばしる言葉は、単に頭を下げて助命を乞うというものではなかった。明治三十年以来の茂丸と西園寺との交流から説き起こし、その間、茂丸と西園寺とが悉く意見を対立させていたことを述べ、政党政治が国家を誤らせたことが、政治の腐敗、財閥の横暴、国民の困窮を招き、そのことに由来して橋本ら少壮将校の決起の素地が生まれたことを指摘したのである。挙げ句に、それらは政友会の総裁として二度にわたり内閣首班を務めた西園寺の責任であると指弾するに至っては、まさに座談の名手として聞こえた杉山茂丸の面目躍如たるものがある。
西園寺の政治責任を指摘した茂丸は、一転して橋本らの助命を求めた。曰く「杉山は老公と交際して三十余年になるが、老公とは喧嘩口論に終始して一度も頭を下げたことはない。その杉山が今夜という今夜は国家の前途を憂え、頭を下げて、切にお願いする」。
茂丸が電話を終えたときには、翌日の午前零時半になっていた。茂丸の屋敷を退出した橋本は、長らのいる料亭金竜亭に戻り、そこで憲兵によって身柄を拘束されたのであるが、十一月に至り重謹慎二十日の行政処分を受けるにとどまった。その極めて軽いと言わざるを得ない処分に、茂丸から西園寺への工作が与っていたのかどうかは判らない。
そして高畠義彦は、この事件以後、築き上げた事業を放擲して満洲へ渡った。帰国したのは昭和十九年で、以後渡満することはなく、終戦も世田谷区成城の自宅で迎えた。沖縄陥落の際には、親友長勇を憶って半紙に長の名を墨書し、仏壇に供えていたという。
世を去ったのは昭和四十八年五月十二日、享年七十八歳であった。
高畠義彦の存在と、その長勇との交友は、ヴェールに包まれた昭和期の杉山茂丸の事蹟のひとつを、うっすらと垣間見させた。晩年の杉山茂丸とは、かつて縦横に操っていた人形を失ってしまった人形遣いであったが、その技芸は決して衰えてはいなかったのである。

参考文献
●「昭和史の原点2 満州事変と十月事件」中野雅夫・講談社・1973
●「橋本大佐の手記」中野雅夫・みすず書房・2000
●「指揮官と参謀」半藤一利・文藝春秋・1999
●「わが父・夢野久作」杉山龍丸・三一書房・1976
●「俗戦国策」杉山茂丸・大日本雄辯会講談社・1929
●新聞記事文庫・神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ・http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/
※高畠義彦の経歴の詳細については、子息高畠潔氏のご教示による。