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久作関係人物誌




進藤喜平太(しんとう・きへいた)
進藤喜平太は、旧福岡藩士で玄洋社社長を永く務めた。
 嘉永三年十二月出生、藩校文武館から高場乱の私塾に学んだ。明治維新の際には、官軍の東北征討にも加わったという。その後武部小四郎の矯志社に拠り、明治九年、前原一誠の萩の乱に呼応した容疑により、箱田六輔、頭山満、奈良原到らと共に投獄された。しかしこのことが、明治十年の西郷挙兵に呼応する機会を奪い、結果として後に玄洋社を結成する主要人物の命を救ったことになる。
 箱田らは西南戦争終結後釈放されたが、師と仰ぐ武部小四郎は西郷挙兵に呼応した福岡の変に破れて既に刑死していた。残された箱田や進藤ら同志は向浜に開墾社を開き、秩禄処分によって生計の途を絶たれた旧藩士の自活を模索する活動に従事した。
 明治十一年九月に大阪で開催された板垣退助の愛国社再興集会に、進藤喜平太は頭山満とともに参加している。板垣が監修した「自由党史」によれば、このとき進藤の肩書きは「福岡成美社」となっている。因みに頭山に関しては「久しく土佐に留遊せし福岡の頭山満」とあり、その拠る政社は明記されていない。進藤の肩書きとなっている成美社とは、明治十年八月から同十二年八月まで「福岡新聞」を発行していた新聞社であり、福岡県で発行された新聞の中では、最も早く社説を掲載したと新聞であるという。進藤喜平太と「福岡新聞」との関係については詳らかにしない。
 愛国社再興集会を受けて、頭山や進藤は箱田六輔を初代社長として向陽社を結成する。民権論を鼓吹する政社としての向陽社は、青年の教育機関として向陽義塾を設け、そこには講師として土佐立志社の植木枝盛や、頭山や進藤を育てた高場乱、「福岡新聞」を創刊した臼井浅夫らが名を連ねていた。
 向陽社の名は現在では殆ど知る人もないが、板垣退助の自由党と系譜を一にする土佐の立志社と並び、当時は民権団体の最右翼の一つと目されていた。しかし向陽社の中では、愛国社への加盟を巡って意見の対立があったといわれ、加盟を支持する一派は別に正倫社を興し、愛国社に加盟した。正倫社に拠ったのは箱田六輔や平岡浩太郎、奈良原到らであり、即ち玄洋社を結成することとなる面々である。
 玄洋社の結成は、菊池秋城が編纂した「玄洋社社史」によれば明治十四年となっているが、石瀧豊美の研究によれば明治十三年五月十三日付けで福岡県警察本部に「玄洋社設置御届」が提出されており、その時点で玄洋社が成立していたことが明らかになっている。この「玄洋社設置御届」は、進藤喜平太の名で提出されており、社長に進藤の名が記されている。
 一般に玄洋社の社長は、初代が平岡浩太郎、次に箱田六輔、三代目の社長が進藤喜平太であるとされているが、進藤は初代若しくは二代の社長(平岡浩太郎が初代社長であるとの前提に基づく)を務めた後、再び社長に就任したものである。
 進藤喜平太が再び玄洋社社長となったのは明治二十一年一月、箱田六輔の急逝を受けてのことであった。因みに、箱田六輔の死は世に病死とされ、伝記文学の雄、小島直記もその死を心臓破裂としているが、夢野久作の嫡子杉山龍丸が昭和四十五年に年に発表した「杉山茂丸の生涯」によると、頭山満の国権主義と玄洋社の自由民権主義との対立が、頭山と箱田の対立となり「遂に箱田は頭山に玄洋社の後事を托して、明治二三(ママ)年一月十九日、福岡市の自宅で頭山と二時間余に及ぶ論議の末自決した」とされる。さらに「頭山は箱田邸を辞して一町も行かないときに、箱田の侍僕の急報で雨中傘も下駄もふり捨てて箱田邸に走り帰ったが、時に箱田は見事に深々と切腹しており、ただ後事を断末魔の中から頭山に托して昇天した」と続ける。また頭山満の孫に当たる頭山統一の労作「筑前玄洋社」はその辺りの事情を詳解し、佐々友房の紫溟会との提携を巡る頭山満と、玄洋社と同士的関係にある熊本相愛社との対立の結果自刃したものであると述べている。
 その後、頭山満が東京に活動拠点を置き、政界に重きをなす存在となるのに対し、進藤は福岡にあって玄洋社に拠る青年の育成に努めた。玄洋社からは、広田弘毅や中野正剛といった政治家を輩出しているが、それらの人材の養成に、進藤喜平太は大正十四年五月十一日の長逝に至るまでの生涯を費やしたのであった。
 進藤喜平太はその人柄によって玄洋社社長を三十七年の永きにわたって勤め上げた。頭山満は進藤を評して「七十六年の生涯に何等奇もなく、衒もない唯当り前の人物であったが、其当り前なるが故に進藤の生涯は尊い」といった。「巨人頭山満翁」を著した藤本尚則は「逸話らしい逸話のない事、その事が進藤翁の貴い逸話である」という。それら衆目の一致するところの進藤喜平太という人物を、格調高い名文で書き残したのが中野正剛である。中野は進藤を次のように評した。
先生は實に卓言なく、奇行なく、智名なく、勇功なく、唯玲瓏玉の如き純人格を横たへて、坦々たる大道を闊歩し、觸るゝ所盡く畏敬の念と欽慕の情とを贏ち得しのみ。世人は未だ嘗て先生が叱咤呼號せしを聞かず、慷慨悲歌せしを見ず、然れども先生を知る者は皆先生の胸裡常に慈母の温情を湛ふるを知る、公事に當りては常に必ず身命を賭するの決意あるを知る。
更に中野は次のように続ける。
先生には謹直と云ひ、廉潔と云ひ、篤實と云ふが如き、彫琢の痕跡を留めず、平々淡々として真に水の如し。善事は黙して己一人之を躬行す。嘗て人に勸誘せず、又人の之を行はざるを責めざるなり。悪事は斷じて自ら之を爲さず、啻に行為の上に之を示さざるのみならず、心の眞底より之を嫌忌す。而して未だ嘗て他の惡を爲すを剔抉せしを見ざるなり。斯の如くにして先生は常に静なり、常に從容たり、宛も長江の流れて聲なきが如し。自ら定むる所の常道を進みて、須臾も休止する所なきなり。
夢野久作は九州日報記者の時代に、初めて進藤喜平太に会った。久作が書き残した進藤喜平太の第一印象は「向ふ歯の抜けた、斑白のコツコツ爺(おやじ)で衣服のみすぼらしさにも似ず、何処となく品のいゝ処がある」、「正にタワイもない田舎爺(おやじ)で、それほどの傑士らしい感じはミヂンも受けなかった」という。
 しかし、進藤は謹厳寡黙で温厚なだけの好々爺では決してなかった。
 明治九年の投獄の際、進藤らは官憲から激しい拷問を受けた。その時の様子を、玄洋社随一の豪傑といわれた奈良原到は、夢野久作にこう語った。「進藤と、頭山と自分は三人並んで県庁の裏の獄舎で木馬責めにかけられた。(略)頭山も進藤も実に強かった。石の数を一つでも余計にブラ下げるのが競争のやうになって、あらん限り強情を張ったものであった。三人とも腰から下は血のズボンを穿いたやうになってゐるのを頭山は珍しさうにキョロキヨロ見まはして居る。進藤も石が一つ殖える度毎に嬉しさうに眼を細くしてニコニコして見せる」。
 中野正剛が頭山満から聞いたその折りの進藤の勇猛さは、奈良原の言を裏付ける。
同志は交々牢屋より引き出されて、殘酷なる拷問に會へり。何れも死せるが如くなりて、戻り來るに似ず、進藤のみは文字通り泰然自若として眉毛一線動さず、神色毫も平常と異るなし。乃ち彼れ一人苛責を免れしかと疑ひ、試みに衣を排して其身體を檢すれば、膚裂け、肉破れ、却て最も拷問の嚴しかりしを示せり。
玄洋社を率いてからも、進藤に決して勇猛なる逸話がないわけではない。明治二十五年二月の総選挙、即ち悪名高き品川弥二郎の選挙干渉が行われた総選挙に当たり、玄洋社は政府吏党の側に立ってこの選挙干渉に協力したのであるが、進藤はその際、民党を標榜する多田作兵衛の根拠地である秋月に乗り込み、多田の落選に向けた干渉工作に従事している。
 各地で流血を伴った総選挙は、吏党の圧勝に終わったが、囂々たる世論の非難に堪えられず松方正義が内閣を投げ出すと、伊藤博文がその跡を襲った。内務大臣に井上馨、司法大臣に山縣有朋、外務大臣に陸奥宗光、逓信大臣に黒田清隆、農商務大臣には後藤象二郎と、維新の立役者をずらりと並べた所謂元勲内閣である。この第二次伊藤内閣の成立を不満とした玄洋社は、進藤喜平太自身が社員数十名を率いて東上した。予戒令によって東京に入ることはできなかったものの、進藤東上の報に、内閣閣員は色を失ったという。
 酒席における進藤の逸話もなかなか痛快である。
 かつて玄洋社と対立し、のち玄洋社の一派となった博多の侠客大野仁平が、酒席で何やら気勢を上げているのを咎めた進藤が、ニコニコ笑いながら「やかましい、小便を引っかけるぞ」と言うと、大野仁平は「面白い」と言って刺青裸でその場に大の字になった。周囲が色を失う中、進藤は平然と裾を捲って大野仁平の顔をめがけて放尿したという。
 またある時、玄洋社の一員で豪傑とうたわれた人物が中国へ渡航するに際して、その豪傑の自宅で開かれた送別の宴席では、豪傑が酔って客に無礼の働きがあったという。その場にいた進藤は黙って庭へ下り、落ち葉をかき集めて火をつけた。忽ち燃え上がった炎に、一同が総立ちになって騒ぎ出すと、豪傑氏は酔いも醒めて漸く火を消し止めたという。
 明治三十九年、平岡浩太郎の死去に伴う補欠選挙に立候補し、衆議院に議席を得た。頻りに辞退する進藤を、日頃対立関係にある自由党までが推挙したものであるという。また明治45年の総選挙では、政友会の鶴原定吉の対立候補として立候補した。このときも進藤喜平太は立候補に難色を示し、ついには進藤の同意がないまま、周囲が勝手に立候補させてしまったという。この選挙は安川敬一郎の支援を受ける鶴原の金力と、進藤の徳望との戦いであったといわれるが、僅か百十票の差で鶴原が当選している。選挙が終わってから安川はこう言った。「鶴原があの立場であれ程の金を使いながら、当選したとは言え僅々百票の差に過ぎぬとは情けない。それにしても進藤の徳望こそ驚く可きである」。
 進藤喜平太の死後、頭山満はこう言った。「彼の男が死んだ後、俺は玄洋社が無くなった樣な気がしてゐる」。生涯の大半を玄洋社社長であった進藤にとって、これほどの餞はなかろう。

参考文献
●「進藤喜平太翁追悼録」淺野秀夫編・私家版・1955
●「増補版 玄洋社発掘 もうひとつの自由民権」石瀧豊美・西日本新聞社・1997
●「筑前玄洋社」頭山統一・葦書房・1988
●「玄洋社社史」玄洋社社史編纂会・近代資料出版会・1977
●「杉山茂丸の生涯」杉山龍丸・「夢野久作の世界」西原和海編・平河出版社・1975所収
●「近世快人伝」夢野久作・葦書房・1995
●「自由党史」板垣退助監修・岩波書店・1997
●「東亜先覚志士記傳」黒龍会編・原書房・1966
●「人間中野正剛」緒方竹虎・鱒書房・1952
●「西日本新聞社史」阿部暢太郎・西日本新聞社・1951
●「西日本新聞百年史」権藤猛・西日本新聞社・1978