桂内閣誕生秘話の虚構
第四次伊藤博文内閣は、蔵相渡辺国武と原敬ら他の閣僚との内訌が原因となって、明治三十四年五月二日に辞表を捧呈、瓦壊した。伊藤は大命の再降下を期待していたが、山縣らは伊藤の再出馬に同意せず、後継首班の決定は一ヶ月に及ぶ混乱に迷い込むこととなった。
伊藤が辞任して二週間後、大命を蒙ったのは井上馨である。薩長の巨頭の中でいまだ首相の印綬を帯びたことがなかった井上は、五月十二日に組閣を命ぜられ、閣員の詮考に向けて動き出した。
杉山茂丸は『俗戦国策』の「日露開戦の魂胆」と題した章で、この伊藤博文の辞任から井上の組閣工作を経て最終的に桂太郎が首相となるまでの裏話を詳細に述べている。
それによれば、大命を拝した井上は帝国ホテル支配人の横山孫一郎を杉山のもとへ差遣し、大命を拝したことにつき用があるとの趣旨で来邸を求めた。杉山はそれを固辞して児玉源太郎に相談するよう助言した。児玉は井上の依頼を受けて閣員詮考の手助けをするに際し杉山を訪ね、「今、井上を助けて置くのは悪るい事ではない」と言って杉山に協力を慫慂した。杉山は児玉に従い、以後夜を日に継いで八方に奔走したが、遂に協力者を得ることができず組閣の頓挫は避けられぬ事態となった。杉山は当時山縣有朋に出入差止を喰らっている身であったが、止むなく往訪し前非を謝して助力を求めたところ、山縣は鷹揚に引見した上で「今夜僕の所に君が来られた事を伊藤でも知るとモウ何事も駄目ぢゃぞよ」と忠告を与えた。杉山からその報告を聞いた児玉は、山縣の意中の首相候補は陸軍の軍人であろうと見抜いたが、案に違わず井上は自らへの大命を拝辞し、前陸軍大臣桂太郎を総理に推した。杉山は児玉とともに桂に面会し、固辞の姿勢を示す桂に対して、児玉がロシアとの衝突が避けられぬ国際情勢を説き、国の興亡を賭してロシアと戦うために起つべしと激語して、遂に桂に総理就任を受諾させたのだという。杉山はその光景を間近に見て「生れて恐怖と云ふ事を知らざる大馬鹿者の庵主さへ思はずも膚に粟を生じたのである」と、その折りの感動を書き記している。
しかしここに書かれた桂内閣誕生秘話は、一切が杉山による虚構であった。杉山は横山孫一郎の訪問を受けることなどできなかったし、児玉に協力を求められたり、山縣有朋を訪ねたり、まして児玉と桂との感動的な対話の場に居合わせることもできなかった。
杉山はそのころ、はるか東京を離れること一万余キロメートル、アメリカ合衆国のニューヨークに滞在していたのである。詳細は後述するが、杉山は伊藤博文が辞表を捧呈した直後の五月四日、横浜を出航するインプレス号に乗船して渡米の途にのぼった。井上馨に大命が降下した十二日は、当時の太平洋航路の行程を考えると、おそらくまだ太平洋上にあったことであろう。桂内閣発足の六月二日には、杉山はワシントンの日本公使館に高平駐米公使を訪ねている。杉山が帰国したのは七月十九日のことである。杉山のアメリカ滞在は、五月二十日付でシカゴから発出された伊藤博文宛杉山茂丸書翰の存在、六月中に在ワシントンの高平小五郎駐米公使と曾禰荒助外務大臣との間に交わされた公文の存在、さらには翌三十五年三月に杉山自身が東京朝日新聞の記者に語った談話の記事などの史料で立証できる。
桂内閣成立にまつわる杉山の虚構は、『俗戦国策』のみにとどまらない。『山縣元帥』収録の『著者の追憶』でも、出来事の細部は若干相違しているものの、『俗戦国策』と同様のエピソードを披瀝し、さらに「庵主は桂内閣の成立と共に『お目出度う』と云ふを其儘、誰にも云はずに米国に飛んで行った」と、あたかも桂内閣の成立を見届けてから渡米の途に立ったかのような書きぶりをしているし、『桂公の裏面』でも「親任式を了って宮中より下って来られたときの桂公の容貌は顔色殆ど蒼白を呈し、恰も勇士の今や大敵を前に見たる戦場に駈向はんとするが如き場合に武者振ひをする有様と同じことに見受けられたのである」と、親任式を終えた桂の出迎えでもしたかのように記している。また『桂大将伝』の自序でも『俗戦国策』と同様に児玉が桂を説得する場面に言及している。
杉山研究の第一人者たる室井廣一は『杉山茂丸論ノート』の第五回で「杉山の自伝的回想記録や著書20数冊を読んできて、彼が自分の人間関係史的なもので、全くの作り話をするとは考えられない」と述べているが、ことこの桂内閣成立秘話に関しては、室井の評価なり認識なりをも否定せねばならないことを史料が裏付けているのである。
杉山はなぜこのような虚構を書き残したのだろうか。考えられる可能性のひとつは、記憶の混乱である。杉山は『山縣元帥』の序文で、執筆を終えて印刷所に入稿した山縣有朋の伝記原稿が関東大震災で焼失したこと、その際築地の台華社も焼失し多くの手控えなどを失ったため、刊行される本著は記憶にもとづいて一から書き直したものであると述べている。とすれば、大正末期から昭和初めにかけて執筆されたと思しい『俗戦国策』の様々なエピソードもまた、記憶にもとづいて書かれたものが相当を占めるに違いないから、桂内閣成立秘話も杉山が経験してきた他の事蹟との混乱が起ったものと解釈することはできよう。
しかし杉山にとって、明治三十四年五月から六月にかけての渡米は軽々しいものではなかった。伊藤内閣から桂内閣に引き継がれる外債募集という国家的課題を背負って、かつてモルガン相手に徒手空拳で借款交渉に成功したという自負心を漲らせていたはずである。また米国滞在中に自らが友人と呼ぶ星亨が暗殺されたことを同じ『俗戦国策』中に書き記していることからも、この渡米が杉山にとって印象の薄いものではなかったことは明らかといえる。記憶の混乱というような安直な結論で糊塗できるような軽い体験ではないはずだ。
ではなぜか。桂太郎内閣誕生の裏面に自らが存在したことを主張せんとする虚栄、ホラに過ぎないのか。答えを見出すのは容易ではない。しかしこの一件の存在は、杉山茂丸という人物の実相に迫るうえで、極めて重要な教訓をわれわれの前に提示しているであろう。
伊藤が辞任して二週間後、大命を蒙ったのは井上馨である。薩長の巨頭の中でいまだ首相の印綬を帯びたことがなかった井上は、五月十二日に組閣を命ぜられ、閣員の詮考に向けて動き出した。
杉山茂丸は『俗戦国策』の「日露開戦の魂胆」と題した章で、この伊藤博文の辞任から井上の組閣工作を経て最終的に桂太郎が首相となるまでの裏話を詳細に述べている。
それによれば、大命を拝した井上は帝国ホテル支配人の横山孫一郎を杉山のもとへ差遣し、大命を拝したことにつき用があるとの趣旨で来邸を求めた。杉山はそれを固辞して児玉源太郎に相談するよう助言した。児玉は井上の依頼を受けて閣員詮考の手助けをするに際し杉山を訪ね、「今、井上を助けて置くのは悪るい事ではない」と言って杉山に協力を慫慂した。杉山は児玉に従い、以後夜を日に継いで八方に奔走したが、遂に協力者を得ることができず組閣の頓挫は避けられぬ事態となった。杉山は当時山縣有朋に出入差止を喰らっている身であったが、止むなく往訪し前非を謝して助力を求めたところ、山縣は鷹揚に引見した上で「今夜僕の所に君が来られた事を伊藤でも知るとモウ何事も駄目ぢゃぞよ」と忠告を与えた。杉山からその報告を聞いた児玉は、山縣の意中の首相候補は陸軍の軍人であろうと見抜いたが、案に違わず井上は自らへの大命を拝辞し、前陸軍大臣桂太郎を総理に推した。杉山は児玉とともに桂に面会し、固辞の姿勢を示す桂に対して、児玉がロシアとの衝突が避けられぬ国際情勢を説き、国の興亡を賭してロシアと戦うために起つべしと激語して、遂に桂に総理就任を受諾させたのだという。杉山はその光景を間近に見て「生れて恐怖と云ふ事を知らざる大馬鹿者の庵主さへ思はずも膚に粟を生じたのである」と、その折りの感動を書き記している。
しかしここに書かれた桂内閣誕生秘話は、一切が杉山による虚構であった。杉山は横山孫一郎の訪問を受けることなどできなかったし、児玉に協力を求められたり、山縣有朋を訪ねたり、まして児玉と桂との感動的な対話の場に居合わせることもできなかった。
杉山はそのころ、はるか東京を離れること一万余キロメートル、アメリカ合衆国のニューヨークに滞在していたのである。詳細は後述するが、杉山は伊藤博文が辞表を捧呈した直後の五月四日、横浜を出航するインプレス号に乗船して渡米の途にのぼった。井上馨に大命が降下した十二日は、当時の太平洋航路の行程を考えると、おそらくまだ太平洋上にあったことであろう。桂内閣発足の六月二日には、杉山はワシントンの日本公使館に高平駐米公使を訪ねている。杉山が帰国したのは七月十九日のことである。杉山のアメリカ滞在は、五月二十日付でシカゴから発出された伊藤博文宛杉山茂丸書翰の存在、六月中に在ワシントンの高平小五郎駐米公使と曾禰荒助外務大臣との間に交わされた公文の存在、さらには翌三十五年三月に杉山自身が東京朝日新聞の記者に語った談話の記事などの史料で立証できる。
桂内閣成立にまつわる杉山の虚構は、『俗戦国策』のみにとどまらない。『山縣元帥』収録の『著者の追憶』でも、出来事の細部は若干相違しているものの、『俗戦国策』と同様のエピソードを披瀝し、さらに「庵主は桂内閣の成立と共に『お目出度う』と云ふを其儘、誰にも云はずに米国に飛んで行った」と、あたかも桂内閣の成立を見届けてから渡米の途に立ったかのような書きぶりをしているし、『桂公の裏面』でも「親任式を了って宮中より下って来られたときの桂公の容貌は顔色殆ど蒼白を呈し、恰も勇士の今や大敵を前に見たる戦場に駈向はんとするが如き場合に武者振ひをする有様と同じことに見受けられたのである」と、親任式を終えた桂の出迎えでもしたかのように記している。また『桂大将伝』の自序でも『俗戦国策』と同様に児玉が桂を説得する場面に言及している。
杉山研究の第一人者たる室井廣一は『杉山茂丸論ノート』の第五回で「杉山の自伝的回想記録や著書20数冊を読んできて、彼が自分の人間関係史的なもので、全くの作り話をするとは考えられない」と述べているが、ことこの桂内閣成立秘話に関しては、室井の評価なり認識なりをも否定せねばならないことを史料が裏付けているのである。
杉山はなぜこのような虚構を書き残したのだろうか。考えられる可能性のひとつは、記憶の混乱である。杉山は『山縣元帥』の序文で、執筆を終えて印刷所に入稿した山縣有朋の伝記原稿が関東大震災で焼失したこと、その際築地の台華社も焼失し多くの手控えなどを失ったため、刊行される本著は記憶にもとづいて一から書き直したものであると述べている。とすれば、大正末期から昭和初めにかけて執筆されたと思しい『俗戦国策』の様々なエピソードもまた、記憶にもとづいて書かれたものが相当を占めるに違いないから、桂内閣成立秘話も杉山が経験してきた他の事蹟との混乱が起ったものと解釈することはできよう。
しかし杉山にとって、明治三十四年五月から六月にかけての渡米は軽々しいものではなかった。伊藤内閣から桂内閣に引き継がれる外債募集という国家的課題を背負って、かつてモルガン相手に徒手空拳で借款交渉に成功したという自負心を漲らせていたはずである。また米国滞在中に自らが友人と呼ぶ星亨が暗殺されたことを同じ『俗戦国策』中に書き記していることからも、この渡米が杉山にとって印象の薄いものではなかったことは明らかといえる。記憶の混乱というような安直な結論で糊塗できるような軽い体験ではないはずだ。
ではなぜか。桂太郎内閣誕生の裏面に自らが存在したことを主張せんとする虚栄、ホラに過ぎないのか。答えを見出すのは容易ではない。しかしこの一件の存在は、杉山茂丸という人物の実相に迫るうえで、極めて重要な教訓をわれわれの前に提示しているであろう。
参考文献
●『俗戦国策』杉山茂丸・大日本雄辯会講談社・1929●『山縣元帥』杉山茂丸・博文館・1925
●『桂公の裏面』杉山茂丸・菊屋出版部・1914
●『桂大将伝』杉山茂丸・博文館・1920
●『米国に於ける外債事件顚末』杉山茂丸口述・「東京朝日新聞」明治34年3月4日〜12日掲載
●『外務省記録』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B11090716000、米国ニ於ケル台湾外債募集関係雑纂附紐育ニテ公債売却見合後本邦財政状況通知ノ件(B-3-4-4-16)(外務省外交史料館)
●『後藤新平文書 デジタル版』資料番号024002〜024018・後藤新平記念館/雄松堂
●『伊藤博文関係文書 第6巻』伊藤博文関係文書研究会編・塙書房・1978
●『杉山茂丸論ノート 第五回』室井廣一・東筑紫短期大学「研究紀要」14号所載・1983
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