築地本願寺の凱旋釜
築地本願寺の通称で知られる浄土真宗本願寺派本願寺築地別院。正門を入り、古インド様式の荘厳な本堂に向かって右の方へ塀沿いに進むと、まもなく一基の石碑が見えてくる。本堂に向いた碑の正面には「凱旋釜」と大書され、正面に向かって右側面には「満洲軍総参謀長陸軍大将子爵児玉源太郎御寄進」、左側面には「明治三十九年七月十七日 後進杉山茂丸」とそれぞれ刻まれている。
この石碑の由来をたどると、明治三十七年の夏に遡る。
その年二月に火ぶたを切った日露の大戦は、黒木為楨率いる第一軍、奥保鞏の第二軍がそれぞれ鴨緑江会戦と南山会戦を制して遼陽を目指し、乃木希典の第三軍が旅順攻略の任に当たっていた。さらに野津道貫の第四軍が編成されるに際し、満洲に展開するこの四軍を統括する満洲軍総司令部が設置され、参謀総長大山巌が総司令官に任じられた。そして、それまで参謀次長として対露作戦計画の策定に心血を注いできた児玉源太郎が、大将に昇進して満洲軍総参謀長に就任することとなった。
満洲軍総司令部が戦地に向けて新橋から発ったのは七月六日午前十時。その新橋駅頭で、杉山茂丸は出征する児玉源太郎に対しこう言った。
「今度閣下は極北烈寒の地に於て強露と戦を決せらるるは其勝敗固より識るべからざる事にて、いつ御凱旋に成るやも図られず。而して又御生還も期し難き御事ながら、若し戦に勝ち御無事に東京に御凱旋相成る時は、私貧乏なれども身代不相応に気張って祝意を表しませう」
すなわち、勝って帰ってきたら祝いを奮発するぞ、というのである。
杉山からの祝いが欲しかったからではなかろうが、児玉は満洲軍総参謀長として数々の勲功を挙げ、国運を賭した大戦争を辛くも勝利と呼びうる戦況のまま終結に導いた。満洲軍総司令部が東京に凱旋したのは、明治三十八年十二月七日のことである。
翌日、児玉から祝いの催促を受けた杉山は、先祖伝来の茶釜が二個あるのでそれを差し上げたいと思うと答え、児玉は「それは結構早速に送り呉れよ」と応じた。しかし先祖伝来の茶釜というのが杉山一流のホラ、これまでも児玉との間には中古の精糖機械を送りつけたり、手に負えぬ放蕩者の後藤猛太郎を押しつけたり、散々に悪戯をし尽くして来た間柄である。杉山は近隣の醤油屋が破産して売りに出していた五石釜という大釜二個を買い上げ、これを児玉に贈って驚かせてやろうという魂胆であった。五石釜というのが釜の容積を示すものであるとすれば、ひとつがおよそ九百リットルに相当する。球体なら直径にして一・五メートル近くにもなろうから、人ひとりでは押すにも引くにも難渋するほど巨大な釜には違いなかったであろう。
杉山は鐘淵紡績会社の綿載馬力(荷馬車)を借り、植木屋十人を雇ってこの大釜を向島から児玉邸のある牛込薬王寺前町まで、夜を徹して運ばせた。早朝四時半に届いた大釜を見て、さすがの児玉も開いた口がふさがらなかったであろうが、そこは悪戯仲間同志のこと、気の利いた礼状を杉山に認めた。曰く「凱旋紀念として茶の湯釜二個御贈与被下御芳志忝く存じ候。此釜は出来格恰とも宜敷不断は拙者座右に据置長く愛玩可致候得共若し無法の悪戯を為すか嘘八百を吐く不埒者有之候時は釜煎りの刑に処するときの用に供すやも図られず候に付此儀御含み置き相成度云々」と。
児玉はこの大釜をしばらく自邸の厩に置いていたが、家人から責めたてられてなんとか処分すべく、あるとき桂太郎に天水桶にちょうど良い大釜を進呈しようと持ちかけてみたが、留守中に訪れて現物を検分した桂に心底を見透かされて破約となってしまった。
やがて児玉邸の大釜は知らぬ者もないほどになり、なんとも始末のつけようがなくなった挙げ句、築地本願寺に泣きついて、凱旋記念として境内に寄進することとなった。児玉が急逝する一週間前、碑に刻まれた明治三十九年七月十七日がその日である。
現存する石碑は、その何年かのち、杉山によって建てられたものである。その経緯を杉山は「寄進を受けたる本願寺も其当時こそ持囃し居たれども去るもの日々に疎く今日にては境内の隅に赤錆の儘転がり居るのを見たる其日庵贋僧は転た今昔の情に不堪己が悪戯をしたる因果応報寔にに天罰と諦め茲に右釜二個を台に据え両蓋を為し之を凱旋釜と名付け僅かに其の標石を建て了んぬ」と記している。
凱旋釜そのものは現存しない。太平洋戦争中の金属類供出により失われたものと見られる。
なお近年、凱旋釜は碑のある場所に埋められたとする言説(補註1)が流布されている。これが誤った説であることは右の杉山の一文で明らかであろう。
この石碑の由来をたどると、明治三十七年の夏に遡る。
その年二月に火ぶたを切った日露の大戦は、黒木為楨率いる第一軍、奥保鞏の第二軍がそれぞれ鴨緑江会戦と南山会戦を制して遼陽を目指し、乃木希典の第三軍が旅順攻略の任に当たっていた。さらに野津道貫の第四軍が編成されるに際し、満洲に展開するこの四軍を統括する満洲軍総司令部が設置され、参謀総長大山巌が総司令官に任じられた。そして、それまで参謀次長として対露作戦計画の策定に心血を注いできた児玉源太郎が、大将に昇進して満洲軍総参謀長に就任することとなった。
満洲軍総司令部が戦地に向けて新橋から発ったのは七月六日午前十時。その新橋駅頭で、杉山茂丸は出征する児玉源太郎に対しこう言った。
「今度閣下は極北烈寒の地に於て強露と戦を決せらるるは其勝敗固より識るべからざる事にて、いつ御凱旋に成るやも図られず。而して又御生還も期し難き御事ながら、若し戦に勝ち御無事に東京に御凱旋相成る時は、私貧乏なれども身代不相応に気張って祝意を表しませう」
すなわち、勝って帰ってきたら祝いを奮発するぞ、というのである。
杉山からの祝いが欲しかったからではなかろうが、児玉は満洲軍総参謀長として数々の勲功を挙げ、国運を賭した大戦争を辛くも勝利と呼びうる戦況のまま終結に導いた。満洲軍総司令部が東京に凱旋したのは、明治三十八年十二月七日のことである。
翌日、児玉から祝いの催促を受けた杉山は、先祖伝来の茶釜が二個あるのでそれを差し上げたいと思うと答え、児玉は「それは結構早速に送り呉れよ」と応じた。しかし先祖伝来の茶釜というのが杉山一流のホラ、これまでも児玉との間には中古の精糖機械を送りつけたり、手に負えぬ放蕩者の後藤猛太郎を押しつけたり、散々に悪戯をし尽くして来た間柄である。杉山は近隣の醤油屋が破産して売りに出していた五石釜という大釜二個を買い上げ、これを児玉に贈って驚かせてやろうという魂胆であった。五石釜というのが釜の容積を示すものであるとすれば、ひとつがおよそ九百リットルに相当する。球体なら直径にして一・五メートル近くにもなろうから、人ひとりでは押すにも引くにも難渋するほど巨大な釜には違いなかったであろう。
杉山は鐘淵紡績会社の綿載馬力(荷馬車)を借り、植木屋十人を雇ってこの大釜を向島から児玉邸のある牛込薬王寺前町まで、夜を徹して運ばせた。早朝四時半に届いた大釜を見て、さすがの児玉も開いた口がふさがらなかったであろうが、そこは悪戯仲間同志のこと、気の利いた礼状を杉山に認めた。曰く「凱旋紀念として茶の湯釜二個御贈与被下御芳志忝く存じ候。此釜は出来格恰とも宜敷不断は拙者座右に据置長く愛玩可致候得共若し無法の悪戯を為すか嘘八百を吐く不埒者有之候時は釜煎りの刑に処するときの用に供すやも図られず候に付此儀御含み置き相成度云々」と。
児玉はこの大釜をしばらく自邸の厩に置いていたが、家人から責めたてられてなんとか処分すべく、あるとき桂太郎に天水桶にちょうど良い大釜を進呈しようと持ちかけてみたが、留守中に訪れて現物を検分した桂に心底を見透かされて破約となってしまった。
やがて児玉邸の大釜は知らぬ者もないほどになり、なんとも始末のつけようがなくなった挙げ句、築地本願寺に泣きついて、凱旋記念として境内に寄進することとなった。児玉が急逝する一週間前、碑に刻まれた明治三十九年七月十七日がその日である。
現存する石碑は、その何年かのち、杉山によって建てられたものである。その経緯を杉山は「寄進を受けたる本願寺も其当時こそ持囃し居たれども去るもの日々に疎く今日にては境内の隅に赤錆の儘転がり居るのを見たる其日庵贋僧は転た今昔の情に不堪己が悪戯をしたる因果応報寔にに天罰と諦め茲に右釜二個を台に据え両蓋を為し之を凱旋釜と名付け僅かに其の標石を建て了んぬ」と記している。
凱旋釜そのものは現存しない。太平洋戦争中の金属類供出により失われたものと見られる。
なお近年、凱旋釜は碑のある場所に埋められたとする言説(補註1)が流布されている。これが誤った説であることは右の杉山の一文で明らかであろう。
《補註1》
浦辺登『霊園から見た近代日本』(弦書房・2011)p.123に「これは日露戦争に勝利した際、長州閥の陸軍参謀総長児玉源太郎に戦勝記念に贈った茶釜を埋めた跡を示すもの」と記述されている。贈られたものが「茶釜」ではなかったことも杉山の一文に明らかである。
浦辺登『霊園から見た近代日本』(弦書房・2011)p.123に「これは日露戦争に勝利した際、長州閥の陸軍参謀総長児玉源太郎に戦勝記念に贈った茶釜を埋めた跡を示すもの」と記述されている。贈られたものが「茶釜」ではなかったことも杉山の一文に明らかである。
参考文献
●「本願寺の凱旋釜」杉山茂丸・太平洋通信社『兒玉大将傳』所収・1908●『兒玉源太郎』宿利重一・マツノ書店・1993
●『杉山茂丸傳 もぐらの記録』野田美鴻・島津書房・1992
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