茂丸伝記抄タイトル画像




杉山農園
夢野久作が福岡市の北東、香椎村の唐原の丘陵を買収し、約四万坪といわれる農園を拓いたのは、大正二年三月であったとされる。時に久作は二十四歳。買収資金は父杉山茂丸がまかなった。久作は、玄洋社の奈良原至の息子で千葉園芸学校を卒業した奈良原牛之助らとともに郷里に戻り、農園経営に従事したのであるが、翌年春には奈良原牛之助は米国に移住して農園を去り、久作も放浪生活に入って農園経営は破綻した。
 久作が唐原の土地を買収した時期は明らかではない。大正二年三月に農園を拓いたのであれば、大正元年中には目星をつけていたであろうが、大正元年の久作の日記には明確にそうと読み取れる記事は見当たらない。しかし、この年に久作が土地を物色していたことは、いくつかの記事から確認することができる。最初に登場するのは次の記事である。
大正元年九月二十日
「小美田氏来台花社。語於父曰。千葉県安食。有地面三十九町歩。田圃交未開墾地。価格反三十円。開墾費要最低十五円也。富豪某所有之。非全部同時不売。該地肥沃高燥。風景絶佳。風俗頓厚。好適地與。父呼吾。與十円。與紹介者木下氏。小美田氏友人。会行然見。吾諾。適奈良原君来。約同行」
杉山龍丸による同日記の註解では、この土地は「九十九里浜にあった杉山茂丸の別荘予定地」であるとされているが、筆者はこの註解に疑問をもっている。安食は成田市の北に位置し、九十九里浜からは遠く離れている。千葉県の地理に詳しいわけではないが、Google Earthで見る限り、現在でも田園地帯といってよい地域であり、大正元年当時は人家も数少なかったであろう。到底別荘に適した土地とは思えない。また三十九町歩というのは十二万坪近い宏大な土地であり、別荘用地と考えるのは適当ではない。
 おそらくこの安食の土地とは、久作が農園を拓くために物色していた土地のひとつであろう。この日記の記事も、開墾費に言及していたり、「肥沃高燥」な「好適地」などという表現を見ると、開拓して農園を営むことを想定していたと考えることが自然であろう。
 久作は同月二十五日に奈良原牛之助を伴ってこの土地を視察した。日記には「山地」と書かれているから、印旛沼の北東に広がる丘陵地がその土地であったのだろう。翌日には父茂丸に、安食の土地のことを話している。
 しかしその後しばらく、祖母トモの発病から死に至る記事が日記の中心となり、土地についての記述は見られなくなる。再び土地に言及するのはその年の暮れである。
大正元年十二月三日
「午前奈良原君と地面の事を語る」
大正元年十二月四日
「夜奈良原君より地面の事の手紙来る」
ここで書かれた「土地」が安食の土地であるのか、あるいは唐原の土地のことなのかは知る術がないが、その数ヵ月後に杉山農園が拓かれることを考えれば、唐原である可能性が強いと言えよう。あるいは唐原の土地の買収についての相談を奈良原との間にしていたのであろうか。
 では、杉山農園は何のために設立されたのであろうか。
 杉山龍丸は『わが父・夢野久作』の中で、杉山農園とは茂丸の「アジアの独立運動を推進するための構想計画の一つ」であり、「最大の目的は、アジアの開発に役立つ人材の養成」であったと記している。
 筆者は、この記述についてもいささかの疑問をもっている。杉山茂丸とアジアの独立運動との関係に対してそもそも疑問をもっているのであるが、それはともかくとしても、龍丸が語る杉山農園の活動は、玄洋社員的野半介の息子たちや若者たちが農業に従事したと述べ、松本治一郎の協力で被差別部落の人々を傭ったという内容にとどまり、アジア独立運動との具体的な関連は見いだせない。
 筆者はむしろ、杉山茂丸が久作に農園経営を試みさせたのは、別の目的があったのではないかと考えている。その目的とは、退役軍人に対する授産である。
 杉山茂丸には、大正十二年に著した『建白』と題する著作がある。そもそもは加藤友三郎首相をはじめとする政府高官に差し出した建白書であったと考えられる。その主眼は第十一章の「第十一 台湾朝鮮の政治改革の事」、就中朝鮮の施政改革にあったに違いないが、その前に「第十 陸海軍に改革を行ふ事」と題された章があり、章の大半を大正九年に杉山茂丸が同志とともに政府筋に提出したと思われる請願書が占めている。「軍人帰農団之儀に付御願」と題されたこの請願書には、軍人が「偉勳殊功の如何に拘はらず現今比較的僅少なる恩給下賜の範圍に呻吟し氣力𨼲阳共に衰亡致し斯る有樣にては啻に國民社交上の資格無之のみならず衣食住に對する生存一縷の望さへも極端の脅威に迫られ漂泊流轉其終所も不明に至るもの不尠」という状況にあり、このままでは「帝國の前途に對し由々しき一大事」であるから、「退職の陸海軍人をして出來得る限り漸次齊しく歸農の業に就かしめ度」いと考え、軍人帰農団を設立しよというのである。岡山県真庭郡川上と八束の未開墾林野約二千町歩と、村有地の陸軍々馬牧場であった原野約二千八百町歩の払い下げを受け、そのための資金は資本家から五十万円を借り入れることとし、詳細な起業目論見書を附している。
 筆者は、規模こそ違え、杉山農園はこの起業目論見書のフィージビリティ・スタディであったのではないかと考えているのである。

参考文献
●『夢野久作の日記』杉山龍丸編・葦書房・1976
●『わが父・夢野久作』杉山龍丸・三一書房・1976
●『建白』杉山茂丸・私家版・1923