安場保和かつぎだし工作の真相
杉山茂丸は明治十八年の秋頃、八重野範三郎らの斡旋によって初めて頭山満と会し、以後十年近くを頭山に随従して過ごすことになる。その際、杉山と頭山との間で。五項目の盟約が結ばれたことは、杉山が『百魔』の第三話に記したとおりであるが、その盟約の第一、「蛇蝎の如く嫌惡せし地方官憲等と交歡」する事業の機会は、早速やってきた。熊本出身の元老院議官安場保和を、福岡県令にかつぎだそうという運動である。
安場は福島県令、愛知県令などを歴任した実力派の官僚で、かつて岩倉具視の米欧使節団の一員に加えられたが、英語を解せず旅中種々の椿事を出来したことなどから、「歐米の制度文物を視んと欲する者は、須く其の國語に通じ、彼と自由に應答し得て、事物の表裏、精粗普く之を察し、以て利害得失の在るところを、審かにするに非んば、徒らに國帑を費し、何等國家に益するところなし」との考えに至り、自らはその適任にあらずと岩倉に懇請して、ついにひとり米国から帰朝したという剛直な人物であった。
明治十九年の二月のことであろう。杉山によれば、芝兼房町の金鯱館という旅宿に安場を訪問し、福岡県令になるよう勧めたという。安場は玄洋社を梁山泊に例えて「真平御免だ」と拒みながらも、杉山の強談判に、自分の一身は山田顕義に一任してあると言った。山田顕義は長州人、陸軍の将官から文治畑に転じて当時は初代の司法大臣の地位にあった。杉山は安場に対し、自分が山田の承諾をもらってくると言ってそこを辞すると、後藤象二郎の紹介で山田に会った。ここで杉山のホラ丸流が炸裂する。杉山は山田に、安場は既に玄洋社の頭山と結んでいるのだから、安場を福岡県令にすることが県政に適切であるとホラを吹いたのである。山田が、頭山らのような非常識な乱暴者と結ぶとは安場を見損なったと憤慨すると、杉山は、一面識もない頭山を基準にして安場への評価をおとしめんとする山田の態度を詰り、安場を深く信頼していたはずの山田が「ある事情の為めに俄かにこれを軽棄するは、安場氏の不信に非ずして閣下の不明を暴露するもの」だと畳みかけた。ホラ丸流捨て身の説伏術である。それに気圧されたか、山田は安場に会って話してみようと逃げを打った。杉山は直ちに安場に再見し、山田との談判の顛末を語った。杉山のホラに驚いた安場が難詰すると、杉山は「結托して居なかったらこれから結托したら良いではありませんか、但し夫が國家の爲めに不善の事なら、已に結托していても何時でも破壞せられたがよい。善事と知って何を躊躇するのです、一己の淺薄な事情の爲めに善事と知っても逡巡せられるのなら、閣下は倶に語るに足らぬ人と絶叫して小生は引下る迄の事ぢゃ」と、ここでもホラ丸流で押し通した。
かくしてその月の末に安場は福岡県令に任命されたというのだが、この『百魔』における安場保和かつぎだし工作のくだりには、なにゆえ安場という人物を福岡県令に就けようとしたのかが明らかにされていない。また、安場の福岡県令起用というアイデアが杉山一個のものなのか、あるいは頭山らの発案によるものなのかも不明である。それより何より、つい半年ほど前までは雨露をしのぐことにさえ窮迫していた無名の一青年が、単身高級官吏を福岡県令にかつぎだすような大仕事に関われたのは何ゆえか、という疑問に対する答えを見出すのは容易ではない。
これらの点については、室井廣一が『杉山茂丸論ノート(第五回)』(『研究紀要』第十四号、東筑紫短期大学、昭和五十八年)で論じているように、熊本の人脈が大きな意味を持つものと考えるべきであろう。
杉山と頭山満とを結びつけたのは、佐々友房や八重野範三郎ら熊本県人であった。このとき、佐々は国権主義の立場をとる政治結社紫溟会を率いて、頭山との提携を図っていた。そして安場保和は、井上毅らとともに紫溟会の創設に関与した一人である。また八重野は後年安場の伝記『咬菜・安場保和先生傳』(『安場咬菜・父母の追憶』村田保定編、安場保健発行、昭和十三年に所収)を著すほどの側近であり、この当時は福岡県の学事課長を務めていた。とすれば、安場保和という人物の福岡県令起用が、佐々や八重野の意に出でたものではないのかと考えるのは容易であるし、かつ自然であろう。頭山の伝記のひとつである『頭山満翁正伝』でも、安場と頭山との関係について「杉山茂丸がその間に介在したといふが実際の橋渡しは佐々友房であつたと思ふ、翁と佐々との交游、安場と紫溟会との関係などより推してさう判断される」と記し、安場の福岡県令就任には佐々が深く関与していたことが推定されている。そして、杉山が『百魔』で語ったエピソードが間違いなく明治十九年二月の出来事であるなら、二月二十五日付けで福岡県令に就任した安場の起用方針は、杉山が安場に面会した時点で、政府部内においてはほぼ確定していたであろう。それは湧き上がる民論に対する、内務大臣山県有朋が下した対策のひとつであったはずであり、同時に民権派とは対峙する位置にある佐々ら紫溟会の利害にも関わっていたであろう。
一方の頭山は、福岡の玄洋社において、社長箱田六輔と並び称される実力者である。玄洋社の前身ともいうべき向陽社は、明治十一年の愛国社再興集会以来、民権派政社の雄として全国に名をとどろかせ、福岡県下の民権派政社を糾合した筑前共愛公衆会に拠って、全国の先頭を切って国会開設の建白を元老院に提出するなど、自由民権運動の主導的地位にあった。しかし明治十九年頃の玄洋社内部では、民権運動に邁進する箱田の路線と、佐々ら保守派との親交を深める頭山の路線との対立が萌芽し始めていたのである。
これらの状況を踏まえると、杉山がなぜこの時期に安場に会わねばならなかったのかが、ぼんやりと見えてくる。政府において安場の福岡県令起用の方向は定まっていたが、安場にとって民権政社玄洋社への対応は県令として活動する上での大きな課題であった。佐々らは安場の福岡県令就任を援助するため、かねて交流のあった頭山に安場との提携を勧めた。玄洋社内で孤立しようとしていた頭山はこれを肯んじ、その内意を安場に伝えるべく、杉山を安場のもとに送った——こう考えると、無名の青年が熊本出身の元老院議官安場保和を福岡県令にかつぎだすべく活動するという、摩訶不思議な構図にひとつの解を見出すことができよう。すなわち、杉山は頭山のメッセンジャーであったのだ。
杉山はその役割を十分果たした。安場は福岡県令に就任し、そして頭山と安場との蜜月は、杉山に新たな活躍の場を与えることになるのである。
安場は福島県令、愛知県令などを歴任した実力派の官僚で、かつて岩倉具視の米欧使節団の一員に加えられたが、英語を解せず旅中種々の椿事を出来したことなどから、「歐米の制度文物を視んと欲する者は、須く其の國語に通じ、彼と自由に應答し得て、事物の表裏、精粗普く之を察し、以て利害得失の在るところを、審かにするに非んば、徒らに國帑を費し、何等國家に益するところなし」との考えに至り、自らはその適任にあらずと岩倉に懇請して、ついにひとり米国から帰朝したという剛直な人物であった。
明治十九年の二月のことであろう。杉山によれば、芝兼房町の金鯱館という旅宿に安場を訪問し、福岡県令になるよう勧めたという。安場は玄洋社を梁山泊に例えて「真平御免だ」と拒みながらも、杉山の強談判に、自分の一身は山田顕義に一任してあると言った。山田顕義は長州人、陸軍の将官から文治畑に転じて当時は初代の司法大臣の地位にあった。杉山は安場に対し、自分が山田の承諾をもらってくると言ってそこを辞すると、後藤象二郎の紹介で山田に会った。ここで杉山のホラ丸流が炸裂する。杉山は山田に、安場は既に玄洋社の頭山と結んでいるのだから、安場を福岡県令にすることが県政に適切であるとホラを吹いたのである。山田が、頭山らのような非常識な乱暴者と結ぶとは安場を見損なったと憤慨すると、杉山は、一面識もない頭山を基準にして安場への評価をおとしめんとする山田の態度を詰り、安場を深く信頼していたはずの山田が「ある事情の為めに俄かにこれを軽棄するは、安場氏の不信に非ずして閣下の不明を暴露するもの」だと畳みかけた。ホラ丸流捨て身の説伏術である。それに気圧されたか、山田は安場に会って話してみようと逃げを打った。杉山は直ちに安場に再見し、山田との談判の顛末を語った。杉山のホラに驚いた安場が難詰すると、杉山は「結托して居なかったらこれから結托したら良いではありませんか、但し夫が國家の爲めに不善の事なら、已に結托していても何時でも破壞せられたがよい。善事と知って何を躊躇するのです、一己の淺薄な事情の爲めに善事と知っても逡巡せられるのなら、閣下は倶に語るに足らぬ人と絶叫して小生は引下る迄の事ぢゃ」と、ここでもホラ丸流で押し通した。
かくしてその月の末に安場は福岡県令に任命されたというのだが、この『百魔』における安場保和かつぎだし工作のくだりには、なにゆえ安場という人物を福岡県令に就けようとしたのかが明らかにされていない。また、安場の福岡県令起用というアイデアが杉山一個のものなのか、あるいは頭山らの発案によるものなのかも不明である。それより何より、つい半年ほど前までは雨露をしのぐことにさえ窮迫していた無名の一青年が、単身高級官吏を福岡県令にかつぎだすような大仕事に関われたのは何ゆえか、という疑問に対する答えを見出すのは容易ではない。
これらの点については、室井廣一が『杉山茂丸論ノート(第五回)』(『研究紀要』第十四号、東筑紫短期大学、昭和五十八年)で論じているように、熊本の人脈が大きな意味を持つものと考えるべきであろう。
杉山と頭山満とを結びつけたのは、佐々友房や八重野範三郎ら熊本県人であった。このとき、佐々は国権主義の立場をとる政治結社紫溟会を率いて、頭山との提携を図っていた。そして安場保和は、井上毅らとともに紫溟会の創設に関与した一人である。また八重野は後年安場の伝記『咬菜・安場保和先生傳』(『安場咬菜・父母の追憶』村田保定編、安場保健発行、昭和十三年に所収)を著すほどの側近であり、この当時は福岡県の学事課長を務めていた。とすれば、安場保和という人物の福岡県令起用が、佐々や八重野の意に出でたものではないのかと考えるのは容易であるし、かつ自然であろう。頭山の伝記のひとつである『頭山満翁正伝』でも、安場と頭山との関係について「杉山茂丸がその間に介在したといふが実際の橋渡しは佐々友房であつたと思ふ、翁と佐々との交游、安場と紫溟会との関係などより推してさう判断される」と記し、安場の福岡県令就任には佐々が深く関与していたことが推定されている。そして、杉山が『百魔』で語ったエピソードが間違いなく明治十九年二月の出来事であるなら、二月二十五日付けで福岡県令に就任した安場の起用方針は、杉山が安場に面会した時点で、政府部内においてはほぼ確定していたであろう。それは湧き上がる民論に対する、内務大臣山県有朋が下した対策のひとつであったはずであり、同時に民権派とは対峙する位置にある佐々ら紫溟会の利害にも関わっていたであろう。
一方の頭山は、福岡の玄洋社において、社長箱田六輔と並び称される実力者である。玄洋社の前身ともいうべき向陽社は、明治十一年の愛国社再興集会以来、民権派政社の雄として全国に名をとどろかせ、福岡県下の民権派政社を糾合した筑前共愛公衆会に拠って、全国の先頭を切って国会開設の建白を元老院に提出するなど、自由民権運動の主導的地位にあった。しかし明治十九年頃の玄洋社内部では、民権運動に邁進する箱田の路線と、佐々ら保守派との親交を深める頭山の路線との対立が萌芽し始めていたのである。
これらの状況を踏まえると、杉山がなぜこの時期に安場に会わねばならなかったのかが、ぼんやりと見えてくる。政府において安場の福岡県令起用の方向は定まっていたが、安場にとって民権政社玄洋社への対応は県令として活動する上での大きな課題であった。佐々らは安場の福岡県令就任を援助するため、かねて交流のあった頭山に安場との提携を勧めた。玄洋社内で孤立しようとしていた頭山はこれを肯んじ、その内意を安場に伝えるべく、杉山を安場のもとに送った——こう考えると、無名の青年が熊本出身の元老院議官安場保和を福岡県令にかつぎだすべく活動するという、摩訶不思議な構図にひとつの解を見出すことができよう。すなわち、杉山は頭山のメッセンジャーであったのだ。
杉山はその役割を十分果たした。安場は福岡県令に就任し、そして頭山と安場との蜜月は、杉山に新たな活躍の場を与えることになるのである。
参考文献
●『百魔』杉山茂丸・大日本雄辨會・1926●『杉山茂丸論ノート』室井廣一・東筑紫短期大学研究紀要ほかに連載・1981〜
●『安場咬菜・父母の追憶』村田保定編・安場保健発行・1938
●『安場保和伝』安場保吉編・藤原書店・2006
●『頭山満翁正伝 未定稿』頭山満翁正伝編纂委員会編・葦書房・1981
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