茂丸伝記抄タイトル画像




大相撲近代化事始め
明治三十七年頃のことであろう。中田源次郎という名の青年が、一通の添書を携えて山縣有朋を訪問した。この青年は、既に兵役を終えて予備役となっていたのだが、日露の役に際会し、予備招集を待たずに第一線に出征したいとの希望を山縣に申し出るためにやってきたものであった。携えていた添書は、杉山茂丸が青年の求めに応じて与えたものである。杉山の添書が奏功したのであろうか、青年の希望は叶えられた。青年は近衞師団の一員として、黒木為楨が率いる第一軍に加えられ、日露緒戦の鴨緑江の戦闘から従軍することとなったのであった。
 この青年には本名の外に、二つの呼び名があった。木村宗四郎という名と、春日野という名がそれである。
 夢野久作の日記大正元年十月二十三日の条にも書き留められているこの春日野という名は、当時の東京相撲協会の年寄春日野、すなわち中田源次郎その人のことである。日露戦争出征当時、中田源次郎は現役の幕内格行司木村宗四郎であり、かつ年寄春日野でもあった。いわゆる二枚鑑札である。
 現在の相撲協会で年寄株を取得できるのは一定の資格を持った力士に限られているが、昭和三十年代の半ば、相撲協会が時津風(元横綱双葉山)理事長の下で制度の大改革を実施する以前は、行司もまた年寄となることができたし、立行司の木村庄之助と式守伊之助は年寄兼任であった。因みに、現在も残る年寄名跡「木村瀬兵衛(木瀬)」と「式守秀五郎(式秀)」は、行司が年寄になり得た時代の名残であろう。
 中田源次郎と杉山茂丸とは、明治二十二年以来の相識であった。当時中田源次郎は、木村源太郎(あるいは源二郎か)という名で土俵をさばく行司であったが、偶々茂丸の親友である小美田隆義の息一彦と、中田源次郎とが親しかったことから、杉山とのつながりが出来たものであるという(補註1)
 その中田源次郎は旧姓を坂本といい、明治十年四月十日生まれ、出身は千葉県香取郡とする文献と東京都本所区であるとする文献とがあり、詳らかにしない(補註2)。明治十五年五月から土俵に登り、明治二十八年には幕内格に昇った。明治三十一年からは二代目木村宗四郎を名乗っていたが、同三十二年、養父である先代春日野(元幕内の千羽ヶ嶽)の死去により名跡を継いで二枚鑑札となった。日露戦争では遼陽の会戦で負傷するが、金鵄勲章を受ける戦功を挙げたという。戦傷で復員してからは行司を引退して年寄専業となり、以後東京相撲協会の桟敷部長や理事、取締役などの要職を歴任する。大正期の大横綱である栃木山を養子とし、その引退に際して春日野を譲って入間川(補註3)に名跡変更した。以後、没するまで、東京相撲協会から日本相撲協会へと繋がる大相撲の歴史の中で、行司出身者としては異数の取締という大幹部の座を占めて、相撲協会の運営に大きな影響力を持った人物であった。
 そして、年寄入間川七五郎の活躍の背後には、杉山茂丸からの様々な助力が存在したのである。
 杉山の相撲界への関わりは明治二十年代から始まっていたようだが、その実相は詳らかにしない。杉山自身の言によれば、「何時も相撲が衰運になれば出て行って世話をして来た」ものであり、昭和三年一月の財団法人大日本相撲協会の設立を援助したのがその三度目であるという。一度目がどのようなものであったのかについて杉山は語らず、二度目については明治三十二三年頃、常陸山に「相撲道の事を説き聞かせ、之を奮勵せしめて大いに相撲道の振興を計った」と記しているに過ぎない。
 常陸山は明治三十六年に綱を張った名力士であるが、杉山は「當時脱走して居た常陸山」と書いているから、その時期は正しくは明治三十年以前であろう。東京相撲の出羽ノ海部屋に属していた常陸山は、明治二十八年、諸事情から巡業中に脱走して名古屋相撲に加入し、大阪相撲を経て明治三十年に東京へ復帰を許された。杉山が「相撲道の事を説き聞かせ」た頃、常陸山はまだ入幕もしていなかったから、それがその後の相撲界の隆盛にどう結びついたのかは想像すら困難である。しかし、その後常陸山は最高位に登りつめて一時代を画し、出羽ノ海部屋を継いでは角界屈指の一門を作り上げ、東京相撲協会の取締として斯界の興隆にも功があった。杉山からさまざまな助力を得たという年寄入間川七五郎の養子栃木山は、出羽ノ海部屋で常陸山に育てられた力士であった。またその名跡「入間川」とは、常陸山死後にその年寄名跡「出羽ノ海」を継いだ元小結両国梶之助が承継前に名乗っていた名跡であった。こうした事実から、杉山と相撲界とは出羽一門を中心として永く繋がっていたのであろうと推察できる。
 そして三度目だという大日本相撲協会設立への援助は、関東大震災によって国技館が焼失し、相撲部屋もことごとく灰燼に帰したことがきっかけとなった。
 その頃まだ春日野を名乗っていた入間川七五郎は、たまたま体調を崩して協会の役員を辞任し静養していたというが、震災によって相撲界が壊滅的打撃を受け、協会は解散、力士は帰郷ということが協会内部で議された際に、招かれてその議に加わると、猛然と協会解散に反対して復興のために奔走することとなった。入間川の奔走で国技館の再建の目鼻はついたが、相撲部屋を再興するための資金調達が暗礁に乗り上げたとき、杉山は入間川の懇請を容れて日本のビール王と呼ばれた馬越恭平に依頼し、十二万円の資金の借用を成功させた。
 一方、頭山満や陸軍中将の堀内文次郎ら相撲界の衰退を憂える諸士からの斡旋もあり、杉山は相撲界の組織基盤の確立に乗り出すこととなった。大正十三年、杉山は内部対立を抱える年寄衆全員から絶対服従の一札を入れさせると、文部省と宮内省に対して工作を開始した。文部省に対しては相撲協会を財団法人化するための工作であったが、宮内省に対する工作には杉山らしい深慮遠謀があった。杉山は「その昔我が皇室の衛士であった乾兒《ちからびと》等が攻防の術として工夫したもの」が相撲であり、それゆえ「相撲は我國の武藝の始源である」と考えていた。勿論、杉山のこの認識は誤謬でも飛躍したものでもない。相撲と皇室との関わりは記紀神話にも散見されるし、下っては朝廷行事としての相撲節、各地の神社において興行されていた奉納相撲などによっても、その事実は確認できるであろう。杉山は、相撲界の衰微を建て直し、恒久的にその社会的地位の安定を図るためには、こうした相撲界の歴史に従い、皇室との強い繋がりを築くことが何よりも効果的であると考えていたに違いない。
 杉山は加藤隆世という人物を代理人として、文部省のほか内務省や東京府への働きかけを行い、その結果大正十四年十二月二十八日、岡田良平文部大臣から財団法人設立認可を得た。当時の内閣は加藤高明の憲政会内閣であった。そもそも憲政会の前身たる立憲同志会の成立や、加藤高明を首班とする護憲三派内閣の成立などに、杉山茂丸の様々な活動があったことを惟みれば、この内閣下で杉山の構想した財団法人化が認められるためには、さほどの支障はなかったであろう。
 しかしもう一方の宮内省工作は、少しく時日を要した。杉山は宮内省工作の相手方を「或筋」としか記していないが、それが当時の宮内次官関屋貞三郎であったろうことは、容易に察することができる。関屋貞三郎は内務官僚で大正十年から宮内次官を長く務めた人物であるが、明治三十三年から台湾総督府に勤務し、永らく兒玉源太郎総督に秘書官として仕えていたから、杉山とは旧知の間柄であった筈である。関屋の宮内次官当時、宮内大臣や内大臣を歴任して宮中に勢力を張った牧野伸顕の日記に、政治向きの用件での杉山茂丸の面会要請に、牧野自身は会わず、関屋宮内次官が応対していた様子が書き記されていることから見ても、相撲界にまつわる働きかけの相手方が関屋であることは、まず疑いのないところであろう。
 杉山の宮内省工作は、昭和二年四月、賀陽宮から福田雅太郎陸軍大将への御沙汰という形で結実した。福田は淀橋の賀陽宮御用邸に召されて「相撲道を益々盛ならしめる事に力を致せよ」との御沙汰を承ったのである。おそらくこれも、杉山が関屋との折衝の中で描いたストーリーであったのだろう。これを受けて杉山は、さきに東京相撲協会と大阪相撲協会が合併して設立されていた日本大角力協会をいよいよ財団法人化すべく、福田雅太郎を会長に推すとともに、予て協力を求めていた陸軍主計総監陸軍省経理局長三井清一郎の推挽により廣瀬正徳陸軍主計中将を理事長とするなど、陸軍の人脈を相撲界に引き入れて、財団法人としての相撲界の組織基盤を磐石のものに仕立て上げた。財団化が成ったのは、昭和三年一月のことである。
 こうして杉山は、現在に続く財団法人大日本相撲協会の設立に大きな役割を果たした。相撲界の近代化は杉山によって成し遂げられたと言っても過言ではあるまい。爾来八十年余、様々なスキャンダルに揺れる現下の相撲協会を、杉山が生きていたなら果たしてどのように建て直すであろうか。

《補註1》
 堀雅昭の『杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》』は、このころ杉山茂丸が島原の松平邸内に屋敷を構えていたと述べ、島原に活動拠点を持っていた理由を樽井藤吉との関係ではないかと推測している。杉山が松平邸内に屋敷を持っていたというのは福岡県立図書館杉山文庫所蔵の談話筆記原稿『入間川訪問速記』中に見られるが、その松平邸が島原にあったとすることには疑問がある。入間川の言は「當時先生が松平(島原)の殿樣の所に屋敷を別に拵へて居つた時分に」というものであるが、この「島原」というのは、屋敷の所在を示すものではなく、数多くあった松平家のうち、どの松平家を指すのかを示したものであろう。当時島原松平(深溝松平)家の当主は子爵松平忠和であるが、この人物は明治二十二年版の『日本紳士録』によれば、その頃東京の浅草区橋場町八番地に在住していた。そもそも関東出身(千葉県あるいは東京都、補註2参照)で五歳から相撲界に入っていた中田源次郎(入間川)が、明治二十二年ごろに九州の島原に在住して、その地で小美田隆義の息子と交友していたと考えるのは無理がある。小美田隆義は松平家に家令として仕えていたから、その息一彦と中田源次郎との交友も、東京において生まれたと考えるのが自然である。従って、杉山が島原に活動拠点を持っていたという堀の見解は誤謬であろう。
《補註2》
 千葉県香取郡とするのは「大相撲人物大事典」であり、東京都本所区とするのは雑誌「日本魂」昭和3年5月号に掲載された「協會幹部月旦」である。
《補註3》
 堀雅昭の前掲書は、この入間川を元小結両国梶之助であったと記述している。両国梶之助が引退後に年寄入間川を襲名し入間川部屋を創設したのは事実であるが、大正十一年に出羽海(元横綱常陸山)の死去を受けて出羽海を継いだため、大正十五年に年寄春日野(すなわち元行司木村宗四郎の中田源次郎である)が入間川を襲名するまでの間、この名跡は空席になっていた。杉山茂丸が相撲界に梃子入れをしていた事実は、福岡県立図書館杉山文庫に所蔵されている入間川七五郎の談話筆記原稿『入間川訪問速記』に詳しく語られており、堀もこの文書を参照していたと考えられるが、この口述筆記がなされたのは昭和十七年三月十一日であるから、この時点で年寄名跡入間川を襲名していた人物が元小結両国梶之助であるはずがない。昭和十七年に年寄入間川を襲名していたのは、元幕内格行司木村宗四郎、すなわち中田源次郎である。

参考文献
●『入間川訪問速記(談話筆記原稿)』入間川七五郎・福岡県立図書館杉山文庫所蔵「杉山茂丸関係資料No.81」
●『相撲協会(筆記原稿)』三井清一郎・福岡県立図書館杉山文庫所蔵「杉山茂丸関係資料No.78」
●『相撲道振興の要素 大日本相撲協會の成立と其將來』杉山茂丸・雑誌「日本魂」昭和3年5月号所載・1928
●『協會幹部月旦』貴村伸一・雑誌「日本魂」昭和3年5月号所載・1928
●『大正時代の大相撲』鳴門政治・國民體育協会・1940
●『昭和時代の大相撲』尾崎士郎・國民體育協会・1941
●『大相撲人物大事典』「相撲」編集部編・ベースボール・マガジン社・2001
●『土俵の修羅』石井代蔵・時事通信社・1978
●『相撲、国技となる』風見明・大修館書店・2002
●『相撲の歴史』新田一郎・山川出版社・1994
●『日本紳士録 第一版』—・交詢社・1889