上野動物園のワニ泥棒
昭和三年十月七日のことである。
この日の朝、上野動物園の巡視員が、園の一角の金網が破られて、飼育していたフィリピン産のワニが盗まれているのを発見した。盗まれたワニは体長五尺五寸というからおよそ百六十七センチ、当時の日本人男性の平均身長は百六十センチほどであったから、かなりの大ワニであった。前夜は土砂降りの雨で、犯人は深更に動物園の塀を乗り越えた上、金網の錠前を捩じ切ってワニを盗み出したもので、その手口から複数犯で内部事情に詳しい者の犯行であろうと目されているという。
この事件は、その翌日の朝日新聞朝刊で報道されたが、その後犯人が捕まったのか、ワニは無事だったのかなどを確認できるフォロー記事は掲載されなかったようだ。
面白いのは、この事件に杉山茂丸が関わっていたことである。
このワニは元々、九月の中旬頃に、杉山茂丸から東京市へ寄贈されたものだった。しかし市は、そのワニが弱っているように見えたのでそれを断り、しばらく預かることにしたものの、あまり餌も食べないため、杉山に対して引き取りを交渉している最中の出来事であったという。
折角寄贈するつもりだったワニを引き取れと言われた杉山も困っただろうが、そのワニを盗まれてしまった上野動物園も困ったことであったろう。案外杉山にしてみれば、始末に困るワニがいなくなって、ワニ泥棒に感謝したかったかも知れぬ。
だが、そもそもなぜ、杉山茂丸がワニなどを手に入れたのだろうか。
事情を推察するためのヒントは、朝日新聞の記事の中に記された杉山の肩書にある。そこには「フィリッピン木材輸出会社の杉山茂丸氏」と書かれているのである。
正しくは比律賓木材輸出株式会社というこの会社は、明治末期から大正期にかけて海運業で産をなした中村精七郎が興したもので、フィリピン産のラワン材を日本に輸入する事業を営み、その分野では三井のような大財閥をも凌いだという。中村精七郎は杉山茂丸の門下にあった実業家の一人で、こんにち東証一部上場の山九株式会社の創業者でもあるから、成功した事業家と言えようが、このラワン材の輸入事業は中村の創案に成るものではなかった。中村にこの事業を持ち込んだのは杉山茂丸であり、そこには別の杉山門下生の存在があった。
今村栄吉というその杉山門下生は、明治二十八年九月、鹿児島市郊外の伊敷に出生した。若年にして満洲の大連に渡り、金子雪斎の根東学舎に出入りしてその知遇を得、おそらくはその関係からであろうか、樺山資英や犬塚信太郎といった満鉄関係者の斡旋によって大正四年十一月にフィリピンに渡り、その地でルソン島のカシグラン一帯十八万町歩(約千七百八十五平方キロメートル)の森林伐採権を獲得するに至った。
杉山と今村栄吉との関係がいつごろ生じたのかは分明ではないが、犬塚信太郎や陸軍の田中義一らからの依頼で杉山が面倒を見始めたものらしく、おそらくその時期は今村がフィリピンに渡った大正四年前後のことであろう。今村という人物は杉山によれば「鹿児島の有名な豪家侠客肌者の子にして其家庭の教訓から普通常軌を脱した性質」であるという。犬塚や田中はこの男の扱いに手こずり杉山に面倒を押しつけたようだが、杉山自身も今村によって数千円の金を使い捨てられる始末であったというから、相当に不羈奔放であったのだろう。しかしさすがに杉山は、この荒くれ男を手なづけたものと見え、その後今村がカシグランの森林伐採権を得ながら事業化に行きづまっているのを、中村精七郎に紹介して比律賓木材輸出株式会社の創業に至ったのであった。前述朝日新聞の記事に杉山の肩書きが「フィリッピン木材輸出会社の」とあるからには、あるいは杉山もこの会社の創業に一枚噛んでいたのかも知れぬ。
上野動物園で泥棒に奪われたワニは、想像するに今村栄吉が杉山に贈ったものであろう。今村の「常軌を脱した性質」を考えると、いかにもありそうな話である。だが、贈られた方が困るものを贈るというのは、かつて杉山が台湾総督の児玉源太郎に対して、中古の製糖機械を送りつけた一件を思い出させる。因果は巡るとはよくぞ言ったもの、ワニが贈られて来たのを知ったときの杉山の仰天振りが目に浮かぶようである。
なお、杉山はこの事件があった年、雑誌『黒白』誌上に連載していた『百魔』に、この今村栄吉を採り上げている。『黒白』第百二十五号(昭和三年三月)から第百二十九号(同年七月)までの五回である。『黒白』は第百二十九号以後刊行されていないのではないかと思われるので、おそらく今村栄吉に関する杉山の著述も、その五回で終了したのであろう。
この日の朝、上野動物園の巡視員が、園の一角の金網が破られて、飼育していたフィリピン産のワニが盗まれているのを発見した。盗まれたワニは体長五尺五寸というからおよそ百六十七センチ、当時の日本人男性の平均身長は百六十センチほどであったから、かなりの大ワニであった。前夜は土砂降りの雨で、犯人は深更に動物園の塀を乗り越えた上、金網の錠前を捩じ切ってワニを盗み出したもので、その手口から複数犯で内部事情に詳しい者の犯行であろうと目されているという。
この事件は、その翌日の朝日新聞朝刊で報道されたが、その後犯人が捕まったのか、ワニは無事だったのかなどを確認できるフォロー記事は掲載されなかったようだ。
面白いのは、この事件に杉山茂丸が関わっていたことである。
このワニは元々、九月の中旬頃に、杉山茂丸から東京市へ寄贈されたものだった。しかし市は、そのワニが弱っているように見えたのでそれを断り、しばらく預かることにしたものの、あまり餌も食べないため、杉山に対して引き取りを交渉している最中の出来事であったという。
折角寄贈するつもりだったワニを引き取れと言われた杉山も困っただろうが、そのワニを盗まれてしまった上野動物園も困ったことであったろう。案外杉山にしてみれば、始末に困るワニがいなくなって、ワニ泥棒に感謝したかったかも知れぬ。
だが、そもそもなぜ、杉山茂丸がワニなどを手に入れたのだろうか。
事情を推察するためのヒントは、朝日新聞の記事の中に記された杉山の肩書にある。そこには「フィリッピン木材輸出会社の杉山茂丸氏」と書かれているのである。
正しくは比律賓木材輸出株式会社というこの会社は、明治末期から大正期にかけて海運業で産をなした中村精七郎が興したもので、フィリピン産のラワン材を日本に輸入する事業を営み、その分野では三井のような大財閥をも凌いだという。中村精七郎は杉山茂丸の門下にあった実業家の一人で、こんにち東証一部上場の山九株式会社の創業者でもあるから、成功した事業家と言えようが、このラワン材の輸入事業は中村の創案に成るものではなかった。中村にこの事業を持ち込んだのは杉山茂丸であり、そこには別の杉山門下生の存在があった。
今村栄吉というその杉山門下生は、明治二十八年九月、鹿児島市郊外の伊敷に出生した。若年にして満洲の大連に渡り、金子雪斎の根東学舎に出入りしてその知遇を得、おそらくはその関係からであろうか、樺山資英や犬塚信太郎といった満鉄関係者の斡旋によって大正四年十一月にフィリピンに渡り、その地でルソン島のカシグラン一帯十八万町歩(約千七百八十五平方キロメートル)の森林伐採権を獲得するに至った。
杉山と今村栄吉との関係がいつごろ生じたのかは分明ではないが、犬塚信太郎や陸軍の田中義一らからの依頼で杉山が面倒を見始めたものらしく、おそらくその時期は今村がフィリピンに渡った大正四年前後のことであろう。今村という人物は杉山によれば「鹿児島の有名な豪家侠客肌者の子にして其家庭の教訓から普通常軌を脱した性質」であるという。犬塚や田中はこの男の扱いに手こずり杉山に面倒を押しつけたようだが、杉山自身も今村によって数千円の金を使い捨てられる始末であったというから、相当に不羈奔放であったのだろう。しかしさすがに杉山は、この荒くれ男を手なづけたものと見え、その後今村がカシグランの森林伐採権を得ながら事業化に行きづまっているのを、中村精七郎に紹介して比律賓木材輸出株式会社の創業に至ったのであった。前述朝日新聞の記事に杉山の肩書きが「フィリッピン木材輸出会社の」とあるからには、あるいは杉山もこの会社の創業に一枚噛んでいたのかも知れぬ。
上野動物園で泥棒に奪われたワニは、想像するに今村栄吉が杉山に贈ったものであろう。今村の「常軌を脱した性質」を考えると、いかにもありそうな話である。だが、贈られた方が困るものを贈るというのは、かつて杉山が台湾総督の児玉源太郎に対して、中古の製糖機械を送りつけた一件を思い出させる。因果は巡るとはよくぞ言ったもの、ワニが贈られて来たのを知ったときの杉山の仰天振りが目に浮かぶようである。
なお、杉山はこの事件があった年、雑誌『黒白』誌上に連載していた『百魔』に、この今村栄吉を採り上げている。『黒白』第百二十五号(昭和三年三月)から第百二十九号(同年七月)までの五回である。『黒白』は第百二十九号以後刊行されていないのではないかと思われるので、おそらく今村栄吉に関する杉山の著述も、その五回で終了したのであろう。
※本稿執筆にあたり参照した『中村精七郎伝』を閲読することができたのは、ひとえに山九株式会社のご厚意に拠る。茲に記してお礼申し上げる次第である。
参考文献
●『中村精七郎伝』的場新治郎・山九株式会社・2003●『百魔(連載第113回〜第117回)』杉山茂丸・雑誌『黒白』第125号〜129号連載・1928
●『 朝日新聞戦前紙面データベース』朝日新聞社・朝日新聞社
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