取引所限月復旧問題
明治三十六年前後のことであったろう。
初代衆議院議長中嶋信行の子息で、後に齊藤實内閣で商工大臣となる中嶋久萬吉は、当時まだ三十歳にも満たぬ青年であり、桂太郎首相の秘書官を務めていた。とはいえ、既に大江卓が理事長の座にあった東京株式取引所勤務を経て朝鮮の京釜鉄道創業にも関わり、後藤猛太郎や高崎安彦らの放蕩の余滴にも与っていたらしいから、後藤猛太郎の親友である杉山茂丸と面識くらいはあったに違いない。
ある日の晩方、中嶋が桂総理のもとを訪うと、そこには桂首相と杉山茂丸とが対座していた。杉山は、この若き秘書官がもと東京株式取引所に勤めていたことを知っていて、顔を見るなり中嶋に声をかけたという。
初代衆議院議長中嶋信行の子息で、後に齊藤實内閣で商工大臣となる中嶋久萬吉は、当時まだ三十歳にも満たぬ青年であり、桂太郎首相の秘書官を務めていた。とはいえ、既に大江卓が理事長の座にあった東京株式取引所勤務を経て朝鮮の京釜鉄道創業にも関わり、後藤猛太郎や高崎安彦らの放蕩の余滴にも与っていたらしいから、後藤猛太郎の親友である杉山茂丸と面識くらいはあったに違いない。
ある日の晩方、中嶋が桂総理のもとを訪うと、そこには桂首相と杉山茂丸とが対座していた。杉山は、この若き秘書官がもと東京株式取引所に勤めていたことを知っていて、顔を見るなり中嶋に声をかけたという。
「いま限月問題について躍起と首相に陳情している処だ。君もかつては取引所の飯を喰った因縁のある身分じゃないか、知らぬ顔の半兵衛では済まされまい、ひとつ助太刀頼む」
中嶋は苦笑するばかりであったというが、このとき桂内閣の頭痛の種のひとつが、この限月問題であった。
株式や米穀などの売買を行う取引所が法制化されたのは、明治二十六年、第二次伊藤博文内閣に後藤象二郎が農商務大臣となったときである。爾後各地に小規模な取引所が濫立し、その数は最盛期に百を超えるほどであった。しかし地方小取引所の実情は、役員の投機や不正が横行して様々な紛議が絶えず、取引所の体をなしていないものが数多く存在した。こうした状況を抜本的に改めんがため、桂内閣は農商務省商工局長の木内重四郎を欧米に派遣し、先進諸国の取引所制度をつぶさに視察させた。その結果として、明治三十五年六月三日、政府は勅令第百五十八号により、取引所制度の一部を改正した。このとき、「株式定期取引の最長期限が従来三ヶ月なりしを二ヶ月に短縮すること」が、勅令の中に盛り込まれていた。株式取引の契約履行期限、即ち限月を三ヶ月から二ヶ月に短縮するという、僅かその一ヶ月の短縮が、経済界の大問題となったのである。
勅令が公けになるや取引所の株価は大暴落し、関係者は連袂して政府に陳情に押しかけた。新聞雑誌などでも、当局を非難する記事が紙面を蔽った。当時東京朝日新聞主筆であった池辺吉太郎(三山)は勅令改正から十日後の六月十三日に、司法大臣であった清浦奎吾を往訪して取引所問題についての意見を叩いたが、この時清浦は「勅令改正失策取返し付かず」と語った。勅令発布から僅か十日の時点で、内閣の一翼を担う司法大臣をしてかかる慨嘆を述べさせるほど、当時の輿論の沸騰は甚だしかったのであろう。
この頃、桂内閣はロシアの満洲撤兵不履行という外憂を抱え、第三期海軍拡張を何としても進めなければならない状況にあった。明治三十六年五月の第十八帝国議会において、桂は政友会との妥協により、この大きな政治課題を乗り切ったのであるが、取引所限月短縮問題に関して大隈重信率いる進歩党が提出した政府の問責決議案は、桂が否決を要請したにもかかわらず、政友会の実力者原敬の腹芸によって農商務大臣平田東助への問責に修正された上で、圧倒的多数の賛成で可決されるに至った。
これに先立ち、農商務省商工局長木内重四郎は責を引いて五月十八日に辞任、平田農商務大臣もまた七月十七日に辞任し、司法大臣から転じた清浦奎吾によって八月十五日に勅令が改正された。限月は旧に復することとなって、一年余の間業界を震盪させた取引所事件は、漸く解決を見たのである。
杉山茂丸は、限月短縮問題で頻繁に桂太郎を訪ね、その解決方法を勧説していたと思しい。それがどのような経緯からであったのか、中嶋久萬吉の回想では判然とするべき材料に乏しいが、この時期、杉山は日本興行銀行の設立という大きな実績によって経済界にも一定の地歩を占めていたであろうし、伊藤博文や桂太郎の委嘱を受けて外債募集のために渡米を重ねていたことも一部には知られていたであろうから、そうした杉山の実力を頼った業界から、桂への陳情を依頼されていたということはたやすく推察できる。ただ、そうしたフィクサーとしての一面からのみ、杉山のこの問題への関与を考えることは妥当ではあるまい。
日露間の摩擦は抜き差しならぬほどとなり、近いうちに干戈を交えざるを得ない状況にある。杉山が児玉源太郎や桂太郎とともに「秘密結社」と自称する盟約を結んだのは、まさにその日露開戦をも辞さずという気概においてであった。元老も政党も信を置くに足らざる政情の下、桂太郎を支えることによってしか日露間の問題を解決することはできないと杉山は考えていたはずである。杉山は後年、自著『桂大将伝』の自序にこう書いた。
株式や米穀などの売買を行う取引所が法制化されたのは、明治二十六年、第二次伊藤博文内閣に後藤象二郎が農商務大臣となったときである。爾後各地に小規模な取引所が濫立し、その数は最盛期に百を超えるほどであった。しかし地方小取引所の実情は、役員の投機や不正が横行して様々な紛議が絶えず、取引所の体をなしていないものが数多く存在した。こうした状況を抜本的に改めんがため、桂内閣は農商務省商工局長の木内重四郎を欧米に派遣し、先進諸国の取引所制度をつぶさに視察させた。その結果として、明治三十五年六月三日、政府は勅令第百五十八号により、取引所制度の一部を改正した。このとき、「株式定期取引の最長期限が従来三ヶ月なりしを二ヶ月に短縮すること」が、勅令の中に盛り込まれていた。株式取引の契約履行期限、即ち限月を三ヶ月から二ヶ月に短縮するという、僅かその一ヶ月の短縮が、経済界の大問題となったのである。
勅令が公けになるや取引所の株価は大暴落し、関係者は連袂して政府に陳情に押しかけた。新聞雑誌などでも、当局を非難する記事が紙面を蔽った。当時東京朝日新聞主筆であった池辺吉太郎(三山)は勅令改正から十日後の六月十三日に、司法大臣であった清浦奎吾を往訪して取引所問題についての意見を叩いたが、この時清浦は「勅令改正失策取返し付かず」と語った。勅令発布から僅か十日の時点で、内閣の一翼を担う司法大臣をしてかかる慨嘆を述べさせるほど、当時の輿論の沸騰は甚だしかったのであろう。
この頃、桂内閣はロシアの満洲撤兵不履行という外憂を抱え、第三期海軍拡張を何としても進めなければならない状況にあった。明治三十六年五月の第十八帝国議会において、桂は政友会との妥協により、この大きな政治課題を乗り切ったのであるが、取引所限月短縮問題に関して大隈重信率いる進歩党が提出した政府の問責決議案は、桂が否決を要請したにもかかわらず、政友会の実力者原敬の腹芸によって農商務大臣平田東助への問責に修正された上で、圧倒的多数の賛成で可決されるに至った。
これに先立ち、農商務省商工局長木内重四郎は責を引いて五月十八日に辞任、平田農商務大臣もまた七月十七日に辞任し、司法大臣から転じた清浦奎吾によって八月十五日に勅令が改正された。限月は旧に復することとなって、一年余の間業界を震盪させた取引所事件は、漸く解決を見たのである。
杉山茂丸は、限月短縮問題で頻繁に桂太郎を訪ね、その解決方法を勧説していたと思しい。それがどのような経緯からであったのか、中嶋久萬吉の回想では判然とするべき材料に乏しいが、この時期、杉山は日本興行銀行の設立という大きな実績によって経済界にも一定の地歩を占めていたであろうし、伊藤博文や桂太郎の委嘱を受けて外債募集のために渡米を重ねていたことも一部には知られていたであろうから、そうした杉山の実力を頼った業界から、桂への陳情を依頼されていたということはたやすく推察できる。ただ、そうしたフィクサーとしての一面からのみ、杉山のこの問題への関与を考えることは妥当ではあるまい。
日露間の摩擦は抜き差しならぬほどとなり、近いうちに干戈を交えざるを得ない状況にある。杉山が児玉源太郎や桂太郎とともに「秘密結社」と自称する盟約を結んだのは、まさにその日露開戦をも辞さずという気概においてであった。元老も政党も信を置くに足らざる政情の下、桂太郎を支えることによってしか日露間の問題を解決することはできないと杉山は考えていたはずである。杉山は後年、自著『桂大将伝』の自序にこう書いた。
「桂公は或る火藥の如く、上と外に強く、下と内とに弱い人であるから、露國と戰爭をする事や、元老の壓迫に耐へるやうな事は、屹度爲し得る人である。故に上手に働かすれば、國家の大事の出來る人である。只だ注意すべき事は、縁族的の問題や、國民騷動などの事には、忽ちにして挫折する人だから、其點に克く支柱せねばならぬ」
この一文には、限月問題に対する杉山の立場がどのようなものであったのかが、如実に示されている。桂太郎が「忽ちにして挫折」しかねない騒動が現実に起こっている。それが限月問題である。そしてそれは、杉山が桂太郎を「克く支柱」すべき問題であって、これを乗り越えさせて桂を国家の大事、すなわち日露開戦に邁進させなければならないと考えたであろう。
この取引所限月問題を解決するために、杉山が桂に対してどのような献策をしたのかは明らかではない。しかし杉山は、のちに桂に向かってこう言った。
この取引所限月問題を解決するために、杉山が桂に対してどのような献策をしたのかは明らかではない。しかし杉山は、のちに桂に向かってこう言った。
「閣下は、株式取引所、限月短縮事件の時、私の申上る通りになされましたら、アノ大問題が即時に片付いたではござりませぬか」(『俗戦国策』)
このひとことが、暗にその内容を物語っているといえよう。
参考文献
●『政界財界五十年』中島久萬吉・まつ出版・2004●『日本取引所論』田中太七郎・有斐閣・1910
●『文学者の日記3 池辺三山(三)』日本近代文学館編・博文館新社・2003
●『取引所事件』宇野俊一・吉川弘文館『国史大辞典第十巻』所収・1989
●『桂太郎 わが生命は政治である』小林道彦・ミネルヴァ書房・2006
●『原敬日記 第二巻続篇』原奎一郎編・幹元社・1951
●『桂大将伝』杉山茂丸・博文館・1920
●『俗戦国策』杉山茂丸・大日本雄辯会講談社・1929
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