官途に就くを肯んじず
杉山茂丸は生涯を浪人暮らしで送った。尤も、頭山満に扈従して福岡にあったときは石炭の香港貿易に従い、その後東京に定住してからは三興社という会社を興して貿易業に従事していたと思しいし、有名な台華社もその流れを汲むものであったようだから、一口に浪人と呼び捨てるのは正確ではないかも知れぬ。とはいえ、国事に奔走して、懐具合に頓着せず金を蕩尽したから、ささやかな実業が茂丸の収支に何ほどの効果があったかは、甚だ疑わしい。使う金の多くは借金であり、債鬼の取立てに首も回らぬ日々であった点は、浪人の先輩である頭山満や、後輩の内田良平らと変わるところはなかった。
そんな杉山茂丸ではあったが、生涯二度にわたり、明治の元勲から官途への勧誘を受けていた。
最初の機会は、明治三十二年頃のことであったろう。
その数年前から、杉山茂丸は農商務官僚であった金子堅太郎の知遇を得て、工業振興のための資金供給を行う専門銀行の設立運動に奔走していた。金子の他に、貴族院議員の由利公正や、長州出身の政商藤田伝三郎らが茂丸の協力者であった。
茂丸はこの工業銀行設立のため、二度にわたり渡米し、世界の金融王と呼ばれたJ・P・モルガンを相手に、一億ドルもの借款を約定する大成功を収めていた。しかし、第三次伊藤博文内閣の第十三帝国議会に提出された日本興業銀行法案は、政府の地租増徴案が大差で否決され、伊藤が衆議院を解散したため、一旦は葬られることとなった。茂丸はこの間の事情を、「百魔」の第十一話「外資案計画を時の政府に」で、面白おかしく書き残している。
興業銀行法が陽の目を見るのは、第三次伊藤内閣が倒れたのち、いわゆる隈板内閣を挟んで第二次山縣有朋内閣の成立を待たねばならない。山縣は星亨率いる憲政党との提携により、第三次伊藤内閣の崩壊を招いた地租増徴案を成立させるとともに、杉山茂丸の宿願であった日本興業銀行法案をも成立させたのである。しかし、貴族院の反対により外資の導入案は修正され、茂丸の大きな実績であったモルガンからの借款は実現できなかったのであった。
杉山茂丸の前に官途への道が開けたのは、この日本興業銀行法が成立したのちのことであったと推察される。茂丸は首相の山縣有朋と蔵相の松方正義から、相次いで日本興業銀行の総裁に就任するよう要請を受けたのである。無位無官の一浪人に対して、おそらくは奏任官以上の待遇であったろうと推察される高等官の地位を与えようとしたことは、日本興業銀行法案成立に至るまでの茂丸の努力が、山縣や松方といった政界の耆宿に対して、どれほど強い印象を与えていたかを如実に顕している。そしてそれは、明治の政財界において、杉山茂丸という人物が「玄洋社の壮士」というカテゴリーから脱却したことをも意味したのである。
しかしこのとき、杉山茂丸は言下に要請を辞退した。その際の茂丸の言葉には、茂丸一流のホラとともに、精魂を傾けた外資導入を葬った政財界人への怨嗟が読み取れる。
そんな杉山茂丸ではあったが、生涯二度にわたり、明治の元勲から官途への勧誘を受けていた。
最初の機会は、明治三十二年頃のことであったろう。
その数年前から、杉山茂丸は農商務官僚であった金子堅太郎の知遇を得て、工業振興のための資金供給を行う専門銀行の設立運動に奔走していた。金子の他に、貴族院議員の由利公正や、長州出身の政商藤田伝三郎らが茂丸の協力者であった。
茂丸はこの工業銀行設立のため、二度にわたり渡米し、世界の金融王と呼ばれたJ・P・モルガンを相手に、一億ドルもの借款を約定する大成功を収めていた。しかし、第三次伊藤博文内閣の第十三帝国議会に提出された日本興業銀行法案は、政府の地租増徴案が大差で否決され、伊藤が衆議院を解散したため、一旦は葬られることとなった。茂丸はこの間の事情を、「百魔」の第十一話「外資案計画を時の政府に」で、面白おかしく書き残している。
興業銀行法が陽の目を見るのは、第三次伊藤内閣が倒れたのち、いわゆる隈板内閣を挟んで第二次山縣有朋内閣の成立を待たねばならない。山縣は星亨率いる憲政党との提携により、第三次伊藤内閣の崩壊を招いた地租増徴案を成立させるとともに、杉山茂丸の宿願であった日本興業銀行法案をも成立させたのである。しかし、貴族院の反対により外資の導入案は修正され、茂丸の大きな実績であったモルガンからの借款は実現できなかったのであった。
杉山茂丸の前に官途への道が開けたのは、この日本興業銀行法が成立したのちのことであったと推察される。茂丸は首相の山縣有朋と蔵相の松方正義から、相次いで日本興業銀行の総裁に就任するよう要請を受けたのである。無位無官の一浪人に対して、おそらくは奏任官以上の待遇であったろうと推察される高等官の地位を与えようとしたことは、日本興業銀行法案成立に至るまでの茂丸の努力が、山縣や松方といった政界の耆宿に対して、どれほど強い印象を与えていたかを如実に顕している。そしてそれは、明治の政財界において、杉山茂丸という人物が「玄洋社の壮士」というカテゴリーから脱却したことをも意味したのである。
しかしこのとき、杉山茂丸は言下に要請を辞退した。その際の茂丸の言葉には、茂丸一流のホラとともに、精魂を傾けた外資導入を葬った政財界人への怨嗟が読み取れる。
「此興銀創設と云ふ事は國家の爲めにした事で私は何も私自身の爲めに創設しやうとしたのではない、殊に私は興銀に關係して居ても夫れで衣食するには規定の俸給が私所要のものゝ十何分かの一に過ぎぬので、私は銀行から俸給など貰つても到底夫れで立つて行けるものでない、例令《たとへ》夫等《それら》の問題は別としても今度の興銀案は貴族院で修正されたから私の理想として居たものとは全然違つて居る、然し愈《いよいよ》興銀が創設さるゝとすれば私は夫れをも兎や角謂はぬ、然し從来私が此爲めに奔走するに當つて天下の富豪家は一齊に不合理、不道理、不必要、不賛成の聲を放つて庵主に迫害を加へ反對を爲し來つた奴等である、夫れが一朝兩院を通過して 陛下の御裁可となるや、反対派の棟梁共二十三名は手の裏を返すが如く合理、道理、必要、賛成となつて遂に創立委員に任命されたである、其賛意の那邊に在るかは探究する事は出來ぬけれど、少くとも興銀の必要であること又道理に外れたものでないことは判明したものであらうと思はれるが、興銀創立に當つては此二十三名と共に仕事をしなければならぬ、仕事をするには二十三名互《たがひ》に相扶け相倚らねばならぬ之れを相扶け相倚らしむるには絶大の徳望と同化力がなければならぬ亦相當の資力も必要であるのに、由來此杉山は金と徳望に縁が薄い男であるから到底他人を同化さすなどの事は出來さうにもないから此事は平に御斷りする外はない」
山縣や松方は茂丸の辞意を受け、茂丸自身が適任と認める人物を推薦するよう求めた。茂丸は直ちに大阪へ赴くと、興業銀行設立運動に多くの支援を与えた藤田伝三郎を訪問して、総裁就任を勧説した。これ以後の経過は、九州日報に連載された「其日庵過去帳」の藤田伝三郎の項に詳述されていたはずであるが、同紙の掲載号の一部が現存しないため判然としない。推察するに、藤田は伊藤博文や井上馨との間の何らかの差障りを理由に固辞し、茂丸が伊藤に面晤して藤田起用を説いたが結果として藤田の起用は実現せず、のち茂丸が推した添田寿一が初代総裁に就任することとなったものであろう。
日本興業銀行総裁の椅子を蹴った杉山茂丸に、再び官職の途を勧誘したのは、伊藤博文であった。
明治三十三年十月、杉山茂丸は金子堅太郎から招きを受けた。
時に第二次山縣有朋内閣が崩壊し、伊藤博文に四度目の大命が降下したところである。この第四次内閣こそ、元老伊藤博文が自ら創設した政友会を率いて組織する本格的な政党内閣であり、金子堅太郎はその司法大臣に任じる立場であった。
金子が杉山を招いたのは、その数日前、伊藤博文から法制局長官や警視総監人事に関し、相談を受けたことに由来する。伊藤は金子に対し、警視総監に杉山茂丸を登用するという案を示したのである。伊藤は、杉山であれば政党や政府の内情もよく知っており、実業界にも通じていることから最適任者であるとの考えを示し、金子に杉山説得を依頼したのであった。そしておそらく、伊藤が茂丸登用を考慮した背景には、「俗戦国策」で茂丸が語った立憲政友会創設の秘話、すなわち茂丸から伊藤への資金提供も、その動機のひとつとして存在していたのであろう。
金子はこの同郷の素浪人が、大言壮語するばかりの壮士輩とは一線を画す有用の人物であることを知悉していた。そもそも前山縣内閣で成立した日本興行銀行法案は、金子と杉山との合作と呼んでもよいものであった。伊藤も、そうした金子と杉山との交流をよく知っていたからこそ、杉山登用の案を金子に示したのであろう。
金子を往訪して伊藤の内意を聞いた杉山茂丸は、どんな反応を示したのだろうか。
その来歴を振り返るなら、はじめに藩閥政権打倒の志に燃えて郷里福岡を離れ、その藩閥の巨魁と目された伊藤博文の命を狙った青年時代があった。頭山満と邂逅し、玄洋社と交わって以後、政治的力量を身につけた茂丸は、藩閥政権と覇を競うかのごとき政党を、党利党略、私利私欲によって国政を壟断せんとするものと見做し、これを悪《にく》んだ。
そんな閲歴を持つ茂丸に対して、誰あろう藩閥の巨魁にして政党党首たる伊藤博文が、かつて自らの命を狙ったことがある素浪人を、こともあろうに官吏に、それも勅任官である警視総監に登用しようというのである。さすが豪胆な茂丸とて、驚かなかったはずがなかろう。
生涯を通じて名利を求めなかったと言われる杉山茂丸も、このときは迷った。何ゆえに迷ったのかは想像するしかないが、おそらくは伊藤博文からの勧誘であったことが大きな理由であろう。暗殺者とその標的という立場での初対面以来、何度も政治上の意見を対立させてきた伊藤が、警視総監に自らを登用しようという、その伊藤の度量が茂丸の心の琴線に触れたということは十分に考えうることである。
迷った茂丸は、頭山満に相談をした。頭山と茂丸との珍問答は「巨人頭山満翁」に次のように記されている。
日本興業銀行総裁の椅子を蹴った杉山茂丸に、再び官職の途を勧誘したのは、伊藤博文であった。
明治三十三年十月、杉山茂丸は金子堅太郎から招きを受けた。
時に第二次山縣有朋内閣が崩壊し、伊藤博文に四度目の大命が降下したところである。この第四次内閣こそ、元老伊藤博文が自ら創設した政友会を率いて組織する本格的な政党内閣であり、金子堅太郎はその司法大臣に任じる立場であった。
金子が杉山を招いたのは、その数日前、伊藤博文から法制局長官や警視総監人事に関し、相談を受けたことに由来する。伊藤は金子に対し、警視総監に杉山茂丸を登用するという案を示したのである。伊藤は、杉山であれば政党や政府の内情もよく知っており、実業界にも通じていることから最適任者であるとの考えを示し、金子に杉山説得を依頼したのであった。そしておそらく、伊藤が茂丸登用を考慮した背景には、「俗戦国策」で茂丸が語った立憲政友会創設の秘話、すなわち茂丸から伊藤への資金提供も、その動機のひとつとして存在していたのであろう。
金子はこの同郷の素浪人が、大言壮語するばかりの壮士輩とは一線を画す有用の人物であることを知悉していた。そもそも前山縣内閣で成立した日本興行銀行法案は、金子と杉山との合作と呼んでもよいものであった。伊藤も、そうした金子と杉山との交流をよく知っていたからこそ、杉山登用の案を金子に示したのであろう。
金子を往訪して伊藤の内意を聞いた杉山茂丸は、どんな反応を示したのだろうか。
その来歴を振り返るなら、はじめに藩閥政権打倒の志に燃えて郷里福岡を離れ、その藩閥の巨魁と目された伊藤博文の命を狙った青年時代があった。頭山満と邂逅し、玄洋社と交わって以後、政治的力量を身につけた茂丸は、藩閥政権と覇を競うかのごとき政党を、党利党略、私利私欲によって国政を壟断せんとするものと見做し、これを悪《にく》んだ。
そんな閲歴を持つ茂丸に対して、誰あろう藩閥の巨魁にして政党党首たる伊藤博文が、かつて自らの命を狙ったことがある素浪人を、こともあろうに官吏に、それも勅任官である警視総監に登用しようというのである。さすが豪胆な茂丸とて、驚かなかったはずがなかろう。
生涯を通じて名利を求めなかったと言われる杉山茂丸も、このときは迷った。何ゆえに迷ったのかは想像するしかないが、おそらくは伊藤博文からの勧誘であったことが大きな理由であろう。暗殺者とその標的という立場での初対面以来、何度も政治上の意見を対立させてきた伊藤が、警視総監に自らを登用しようという、その伊藤の度量が茂丸の心の琴線に触れたということは十分に考えうることである。
迷った茂丸は、頭山満に相談をした。頭山と茂丸との珍問答は「巨人頭山満翁」に次のように記されている。
頭山「警視総監とは一たい何をするもんかい」
杉山「さうさ、マア内務大臣のつッぱり見た様なものだ」
頭山「あア、さうか、大臣ならまだしも、つッぱりなんざ見ッともない、止しとけ」
杉山「さうさ、マア内務大臣のつッぱり見た様なものだ」
頭山「あア、さうか、大臣ならまだしも、つッぱりなんざ見ッともない、止しとけ」
かくして頭山の反対を受けた茂丸は、警視総監就任要請を固辞することを決意した。金子に対する辞退の口上は以下のようなものであったという。
「私も野に在って浪人して居れば元勲でも何でも助けられる、又元勲に一寸お目にかゝりたいと言へば會って呉れる、私が役人になって警視總監の官服を着てサーベルを着ければ、私は一文の値打もない、私はやはり此の野武士が一番仕事が出來る、警視總監になった日には規則づくめで、迚も私の今までのやうな活動をすることは出來ぬから、それだけは御免蒙る、伊藤さんがそれ程私を信用なさるなら、私は蔭になり日向になり伊藤さんを助けるから、どうか警視總監だけは許して呉れ」
こうして杉山茂丸は、二度にわたり高級官吏に就任する戸口に立ちながら、自らその扉を閉じた。山縣有朋、伊藤博文、松方正義といった明治政界の大立者の勧誘を受けながら、それを受け入れて官途に就くことを肯んじなかったのである。
頭山は後年、このときのことを回想して、「自分が杉山を一喝しなかったら、きっと杉山は警視総監になり、官途について総理大臣でもやっただろう。そうなれば他の者よりも、よほど長く総理大臣をやったのではないだろうか」と語った。
歴史に「もしも」はない。しかし、右の頭山の回想は「もしも」杉山が総理大臣になっていたなら、という愉快な想像を読む者の心にかきたててくれる。
頭山は後年、このときのことを回想して、「自分が杉山を一喝しなかったら、きっと杉山は警視総監になり、官途について総理大臣でもやっただろう。そうなれば他の者よりも、よほど長く総理大臣をやったのではないだろうか」と語った。
歴史に「もしも」はない。しかし、右の頭山の回想は「もしも」杉山が総理大臣になっていたなら、という愉快な想像を読む者の心にかきたててくれる。
参考文献
●「百魔」杉山茂丸・大日本雄辯会・1926●「俗戦国策」杉山茂丸大日本雄辯会講談社・1929
●「其日庵過去帳(藤田伝三郎の項)」杉山茂丸述・「東筑紫短期大学研究紀要」第30号所載(室井廣一「杉山茂丸論ノート(第21回)」により覆刻)・1999
●「杉山茂丸を語る(談話筆記原稿)」金子堅太郎・福岡県立図書館杉山文庫所蔵
●「巨人頭山満翁」藤本尚則・文雅堂書店・1942
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