茂丸伝記抄タイトル画像




茶道告訴状の顚末
三井物産の創立者で鈍翁と号した益田孝は、明治の半ばから本格的に茶の湯を嗜むようになった。それは益田自身の人生を決定づけたとも言える、三池炭鉱の落札に成功した時期にあたる。明治22年に初めて御殿山の邸内に炉を設けて以降、益田はその周辺にある人々を次々と茶の湯に誘い込んでいった。根津嘉一郎や原富太郎などの実業家に加え、三井における益田の後継者たる団琢磨、日本のビール王と呼ばれた馬越恭平、王子製紙社長を務めた藤原銀次郎、芝浦電機社長となった岩原謙三などは、さしずめ三井グループと呼べよう。
 杉山茂丸がいつ頃から茶の湯を嗜むようになったのかは判然としないが、遅くとも大正の始めには益田鈍翁らに混じって茶席に列していたことが、高橋箒庵の「東都茶会記」から知られる。夢野久作が「近世快人伝」に書き記した有名な茂丸評、「いつも右のポケットに二三人の百万長者を忍ばせていた。そうして左のポケットにはその時代時代の政界の大立者を二三人か四五人忍ばせつつ、彼一流の活躍を続けて来た」という、その二三人の百万長者の中に、茂丸が茶の湯を共にした財界人の何人かがリストアップされることはまず間違いないし、むしろ筆者はそうした財界とのパイプとして、茂丸にとっての茶の湯があったのではないかと推察しているのであるが、そうした茂丸の財界との繋がりを考察することは他日に譲り、本稿では茂丸とそれら茶友との交流に焦点を合わせよう。
 茂丸の茶友の中でも、三井物産から芝浦電機に移った岩原謙三ほど、茶の湯に関して滑稽譚を数多く残した人物もいまい。自ら雅号を持とうとしなかった岩原は、いつか茶友から謙庵と呼ばれるようになったが、茶事におけるあまりの逸事椿事の多さに、椿庵、珍庵、狆庵などと渾名され、挙げ句に益田鈍翁から素骨庵の号を進呈されるに至った。素骨は言うまでもなく粗忽に通じる。
 岩原の逸事の中でも、筆者が抱腹絶倒の一大椿事と考えるのは、大正十一年十二月一日、芝葺手町の新居に磯野良吉を招いた茶会である。この新居における茶会の口切りは、同月五日に予定されていたところ、偶々大阪から上京していた磯野に乞われて、初日を急遽繰り上げたものであった。磯野は戸田某と同行して正午岩原邸を訪れ、茶席に通って岩原と挨拶を交わす、その刹那である。茶道口から様子を窺っていた岩原夫人の傍らを擦り抜けて茶室に飛び込んだのは、当の夫人が愛玩する一頭の狆であった。折しも互いに平伏する岩原と磯野、狆は何を思ったか岩原の横をも駆け抜けて、正客の磯野の頭に飛び付いたのである。高橋箒庵はこのあとの騷動を記録していないが、飛び付かれた磯野の驚きも相当なものであったろうが、亭主役の岩原や、その夫人の周章狼狽は想像に余りある。侘び寂びを事とする茶事の席で、正客の頭に狆が飛びかかった様を想像しても見よ。岩原が狆庵の綽名を頂戴する原因となったこの逸事を読み返す度に、筆者は腰を抜かした亭主役の岩原の姿を想像して、吹き出してしまうのを禁じ得ないのである。
 そして、杉山茂丸が関わった「茶道告訴状」一件も、この日に端を発する。
 岩原はこの日、自ら足を運んで同月四日の茶会に、五名の客を招いた。一名は不祥であるが残りの四名は、正客が東京市長の後藤新平、加えて杉山茂丸、東京慈恵会医科大学長の金杉英五郎、日本郵船副社長の加藤正義という面々であった。
 その茶会当日は、ハプニングの連続であった。まず、五名の客のうち四名は定刻の正午に参集したが、一名が不参である。何ゆえか、その一名を正客の後藤新平であると勘違いした岩原は、正客が来ぬ間に他の客を茶室に通すわけにも行かず、小一時間も四名を待合に待たせたままにしていたのだが、実は遅参者は金杉英五郎であった。
 後藤宅に問い合わせて勘違いを知った岩原は、早速四名の客を茶室に通し、懐石膳を正客の後藤の前に運んだのだが、次の膳を運び出そうとしたとき、第二のハプニングが出来した。遅参した金杉英五郎が到着したのはよいが、書生が誤って待合に案内せず、屋敷内の応接間に通してしまったのである。岩原は大慌てで金杉を茶室に案内したのだが、その間、茶室では後藤新平の前にだけ膳が出されたのみで、他の三名分は亭主が行方不明になってしまって様子もわからず、うっちゃられたままである。そのうち後藤は、腹が減ったからと、作法も何もあったものではない、さっさと膳に箸をつけてしまうという始末であった。
 ようやくのことで客が揃い、懐石を済ませて濃茶手前に移ろうとすると、今度は後藤、杉山、金杉が揃って「満腹になった上に茶席は面倒」と、早や暇乞いをする。岩原にしてみればこれからが茶会の本番、いま帰られては何の茶会か知れたものではないと、ようように引き止めて何とか無事に茶会を終えたのであった。
 しかし、このハプニングだらけの茶会が、事件の発端にすぎなかったとは岩原謙三も思っても見なかったに違いない。
 年改まって松の内の十一日である。杉山茂丸の本拠築地台華社から発された書状が届いた先は、高橋箒庵宅であった。高橋箒庵は本名義雄、もと三井財閥系の実業家で、王子製紙を明治末に引退して以後、大正から昭和初期にかけての政財界を中心とした茶会の記録を丹念に記録し続けた人物である。
 書状は後藤新平、杉山茂丸、金杉英五郎、加藤正義の連名で、高橋箒庵を裁判長に見立て、岩原謙三を被告とした告訴状であった。曰く、旧臘(前年十二月のこと、客臘ともいう)岩原謙庵に招かれた際の不手際を縷々申し述べ、それらは悪意によるものではないから不問に付すが、後日岩原が原告らをして、あれは茶客に非ず餓鬼を招いて午餐を供したのみ、と嘯いた事実は名誉毀損で聞き捨てにできぬと、以下の五ヶ条を求めたものであった。
一、岩原謙庵は本事件の前提として、最初原告等を茶客と看做し茶礼に依つて案内状を送りたる事を確認する事。
二、然るに謙庵が第三者に対して、アレは茶事の案内に非ず、餓鬼共に午餐を振舞ふた迄だと言はれたるは、明かに原告等に対する侮辱たるを確認する事。
三、謙庵は原告等に対して右の如き侮辱を加へたる事を自覚する以上、原告等の名誉を回復すべく今一回改めて茶会を催し、正式に原告等を招待して其茶道上の一分を相立たしむべき事。
四、若し謙庵にして右の要求に応ぜざるに於ては、原告等は一同結束して岩原邸に押寄せ、同邸の茶席を借用して、反対に謙庵を招待し、茲に厳正なる茶会を開くべき事。
五、右茶会開会に際し、悪意に非ざる過失に依り、自然に生じたる道具の損傷又は露地庵室の踏荒し等に就ては、謙庵は大雅量を以て之を不問に付すべき事。
この五ヶ条の、とりわけ第五条なぞは、この告訴状なるものがいかなる性格のものであるのかを如実に物語っているが、大のおとなの戯れであるにしても、このような事態がなぜ生じたのであろうか。その真相は、高橋箒庵宛の書状と前後して、岩原謙三自身に送りつけられた後藤らの書状に記されている。
新年早々宣戦布告仕り候。昨冬三十日小田原益孝老人よりの報告に拠れば、客臘四日御寵招を蒙り候御茶は「御茶としてお招きに無之たゞ五月蝿き喰しん坊の餓鬼共を呼んで喰はせるまで」との御宣言に候由。今や世間一パイの取沙汰にて御座候。吾々不肖ながら聊か茶道の末席末輩に遊ぶ身分として、斯道上の名誉にも相関し候間、何卒真正の御茶として是非共今一回御招待被り度、強て御願申上候、若し其儘に打捨相成候はゞ、当方打揃ひ随意に参上、御茶席拝借致し貴下御一人を尊宅御席にてお招き致度、其節は自然御庭先等踏荒しの儀御勘弁相願申度、此儀一同以連署御願申入候勿々不宣。
   大正癸亥正月三日
ここには問題となった岩原の放言が、どこから後藤や杉山の耳に入ったのかが明白に語られている。「小田原益孝老人」とは、すなわち鈍翁益田孝その人である。
 実は岩原の放言は、出入りの茶道具屋に対して発せられたものであった。時制はやや曖昧だが、岩原はその道具屋に対し、十二月五日を茶会の口切りにするつもりであると言い、それに対して道具屋が四日に後藤市長らを招いたのではないかと聞き返したところ、岩原の口から跳びだしたのが「五月蝿き喰しん坊の餓鬼共を呼んで喰はせるまで」という言であったという。この道具屋は益田鈍翁のもとにも出入りしていたから、岩原の放言はたちまち鈍翁の耳にするところとなった。三井物産の創始者にして大財閥三井の大番頭と呼ばれたこの大財界人は、こと茶の湯に関しては、児戯に等しいような悪戯を好んで企む一面を持っていた。それが岩原の不運であったのか、それとも幸運であったのかは、おそらく本人にしかわからないだろう。
 十二月三十日に至り、益田鈍翁と後藤新平とは偶然汽車の中で邂逅したという。そのとき、益田の口から後藤に対し、岩原の放言が伝えられた。否、伝えられたのではない、鈍翁は挑発したのである。鈍翁の言いぐさも、高橋箒庵は書き記している。曰く、
謙庵が閣下等を初より茶客と見做さざる事最早一点の疑を容る可らず。斯くては自分は閣下等に対し、同好者の殖えたと悦んだのは全く空想に帰する次第であるが、閣下等は彼が如き謙庵の取扱を甘受せらるゝや、夫れとも彼に対して大に抗議せらるゝ思召なるや如何。
これを読むと、高橋箒庵が「茶道告訴状」と命名したこの騒動が、益田鈍翁のプロデュースになるものであることは明白である。あるいは、鈍翁はシナリオまで描いていたのではないかとも思うが、存外それも穿ち過ぎとは言えないかも知れぬ。
 その挑発に乗ったのか乗せられたのか、少なくとも杉山茂丸、後藤新平、加藤正義といえば、明治の中葉、朝比奈知泉の暢気倶楽部以来の仲間であるから、悪ふざけはお手の物であったに違いない。かくて大正十二年の正月早々、右に記したが如き私設裁判沙汰となったのである。裁判長に擬された高橋箒庵の判決が「謙庵は原告等を茶客扱にせざりし事を遺憾とし、来る三月三十一日までの期間に於て更に一茶会を催し、茶客として正式に原告四人を招待すべき事」であったのも、見る聞くなしの当然至極の結論であろう。
 後年、高橋箒庵は別の稿でこの騒動を採り上げて「普通の茶人の告訴状ならば、さほど驚く事ではないが、其背後には暴力団を控えて居る杉山氏等の申出であるから、如何なる事件が湧き起るやも知れず。事によっては茶席へ穢物を撒き散らさんず風説さへ耳に入って来たので、流石の謙庵君も閉口の外なく、一切申出の条件を承諾して茲に謝罪の茶会を催す事となった」と書き残している。「暴力団を控えて」云々は、当時杉山茂丸の周辺にあった財界人が、茂丸をどう見ていたのかを考える上で興味深い表現であり、別の機会に考察してみたいと考えているが、それを除外しても全般に面白おかしく言挙げしたものと見るのが妥当であろう。こうした文章に接すると、存外高橋箒庵もまた、鈍翁と同様にこの騒動の隠れた演出者の一人ではなかったかとも勘繰ってしまう。
 岩原の謝罪の茶会は、判決にやや遅れて四月十一日、原告のうち後藤、杉山、加藤のほか、益田鈍翁、高橋箒庵、山本条太郎らを招いて開かれた。この茶会で岩原謙庵は、掛物や道具に軽妙洒脱な演出をして参会者を唸らせた。すなわち、寄付には狩野探幽の三猿図(見ざる聞かざる言わざる)を掛物として口禍を象徴させ、茶室には芭蕉翁の「物いへば唇寒し秋の空」の一句が入った書状の掛軸をかけ、香合には仁清作の鷽《うそ》撮み香合を用いるといった具合であった。箒庵は「先方の名誉回復の為の茶会が、謙庵の茶誉を高むる機縁と為った」と評したが、蓋し至言である。

参考文献
●「東都茶会記」高橋箒庵・淡交社・1989
●「大正茶道記」高橋箒庵・淡交社・1991
●「昭和茶道記」高橋箒庵・淡交社・2002
●「老記者の思ひ出」朝比奈知泉・中央公論社・1938
●「鈍翁・益田孝」白崎秀雄・中央公論社・1998