茂丸伝記抄タイトル画像




政治的閲歴の原点
杉山茂丸は夢野久作の実父であり、明治から大正、昭和にかけて、政界の裏面で縦横の活躍をした人物である。人は茂丸を「法螺丸」と呼び、「政界の人形遣い」と形容し、「覆面の策士」と評した。その活動は日露戦争や日韓合邦の裏面での推進を頂点とし、主として明治時代の重要な政局の様々な場面に関与したが、現在われわれの目に触れ得る近代史の一般的な文献に、茂丸の名を見出すことは殆どない。
 杉山茂丸は自らを「もぐらもち」と称した。土の中で生き、陽光の下には現れないモグラに、政界の裏面で活動する自分自身を譬喩したものである。杉山茂丸は、まさにモグラの如く、華々しい政治の世界の裏面で、人知れずその渦の中心に存在したのである。
 杉山茂丸は元治元年八月十五日、福岡城下、天神付近の因幡町に生まれた。父は杉山三郎平誠胤(のぶたね)、福岡藩士で知行百三十石を領し、馬廻組と呼ばれる中級の家格であった。四歳乃至五歳の頃、藩主黒田長溥の小姓として出仕し、その際、藩主から賜ったのが茂丸誠一(のぶかず)の名である。幼名は秀雄と称したという。
 しかし維新後、父三郎平は藩主に版籍奉還を直言して勘気を蒙り、謹慎の後、許されて明治三年前後に遠賀郡の芦屋村(現・芦屋町)に帰農した。杉山家の知行地は、筑後にほど近い朝倉郡にあったが、敢えてこの海辺の村へ移ったのは、三郎平の知己である薬問屋の塩田久右衛門を頼ってのことであった。芦屋において、三郎平は私塾を開いて村の子供たちに漢学を講ずる傍ら漁に従事したというが、塩田は杉山家の生計に対して少なからぬ支援を行った。杉山茂丸の著述と考えられる「其日庵過去帳」(九州日報、大正六年十月〜大正七年九月連載・平成十年〜十一年、室井廣一により東筑紫短期大学研究紀要29号、30号に大部分を覆刻)には、塩田の支援の様子が次のように記されている。
「兩親が芦屋に移住してから三ケ年間は、翁(塩田久右衛門、筆者註)の扶持に負ふ所が多かったが、移住後三年父は家具の半を賣却して、金に代へ、之を翁に依托した、翁は素と/\富裕と云ふのでは無かったけれど、其任侠の性質から芦屋町字濱崎の漁民に尠からず金を貸與して居たので、非常の徳望があったが、翁は一日漁民を集めて、
『從來私は諸子に私の金を以て漁業の資に給して居たが、今回杉山先生が祖先傳來の名寶什器を賣却されて、其金を私に依托されたから、今日以後諸子の漁業の資に此金を流用さして戴く所存である、諸子は杉山先生が蘆屋町の青年子弟を教導さるゝ鴻恩に加へて、其祖先傳來の什寶を賣却された大切なる金員を貸與される御心をよく體得して、大に勤勉努力せねばなりませぬぞ』
 と教訓した、そして毎年末には其の金の利子を自ら蒐集精算の上父の許に届けて居た(以下略)」
この芦屋時代、杉山茂丸は大いに悪童ぶりを発揮して、近在の子供連中の内の餓鬼大将となっていた。その悪童仲間のうちに、長じて日本一の大親分と呼ばれる侠客にのし上がった吉田磯吉がいた。吉田は、後年杉山茂丸に再会して以後、茂丸の政財界に対する影響力のバックボーンたる役割を果たしたものと考えられる。
 その後、一時期箱崎宮の近在への転居を経て、明治十年前後には杉山家は旧知行地に近い筑紫郡山家村(現・筑紫野市山家)や朝倉郡夜須村(現・朝倉郡夜須町)に在住していた。
 少年期から青年期へと向かう茂丸は、相変わらずの乱暴者ぶりを発揮しながらも、家計を助け、一方で仏国革命史などの翻訳書を耽読して、新時代の息吹を吸収していた。そして明治十一年十一月乃至明治十二年頃(註1)、茂丸の生涯の最初の転機がやってきた。旧秋月藩出身の勤王家、香月恕経(かつき・ゆきつね)との出会いである。
 香月恕経は医家に生まれ、長じて秋月藩校の訓導などを勤めるが、明治六年の農民蜂起、いわゆる筑前竹槍一揆に連座して投獄され、出獄後民権運動に投じて集志社の結成に参加、のち頭山満の懇請を受けて玄洋社の監督に就任、衆議院が開かれるとその第一回総選挙で当選して代議士も経験した人物であった。
 杉山茂丸が香月恕経と出会った時期は、香月が集志社を結成した時期の前後であろう。そのときの様子を、茂丸は「百魔 続編」に次のように記した。
「時は明治庚辰の秋、所は九州の片田舍、丁度夜の十時頃である、山影は寂寞の間に四方を繞り、藪林は鬱蒼として前後を圍んで居る、其間に薄黒くにゆうつと聳えた茅葺の大きな古びたる家が有る、此は人里離れた山村のお寺である、今宵何事の催しあるか分らぬが、本堂の中央に薄闇き燈を點じ、其前に高き机を一脚置き、其前後左右を取圍んだ一團の壯士は、宵より堂の前に焚き棄てたる篝火を背にして、或は足を投げ出し、或は横に臥たりして、ぐどぐどと私語[ささや]き咄しをして何か物待顔で居る、須臾[しばらく]すると本堂の奧からによつこり一人の先生が現はれ出た、其先生の風采を見れば頭[かしら]は熊の毛のやうに亂れ、眼[まなこ]は猿の如く凹[くぼ]み、顔は蓆の攫み立てたやうに醜く、鬚も髪も火に燬[や]くが如く赭く、身の長け高き大兵肥滿の人で、下に白き衣物を着て上に玄き道服を纏ひ、手に一卷の書物を携へて居る、之を見たる一堂の壯士は遽[にはか]に倉皇[あわたヾ]しく居ずまひを正し、水を打つた樣に靜まつた」
寺の本堂に集まった壮士連の中に、茂丸もいたことは言うまでもない。そしてそこに登場した大男こそ、香月恕経その人であった。この夜の演説会で、香月は薩長藩閥による専制政治を痛烈に批判し、勤王の精神を高唱したのである。
 茂丸自身の言によれば、当時の茂丸は民権論に傾倒していたため、香月の勤王主義とは相容れず、講演の後、香月と議論に及んだという。しかし、おそらくはこの時こそが、茂丸が書物に書かれたものではない、生成のままの政治思想に接した嚆矢であったろうし、その後諸国遊歴を経た茂丸の到達する先が、藩閥の打破、その首魁の暗殺というものであったことを考えると、やはり香月との出会いは茂丸の政治的閲歴の原点であったと評することができよう。そして茂丸は後年、次のように述懐するのである。
「思想上の關係は氏の晩年を除いた以外は一致して居なかつたけれど庵主をして正義の道に引き入れて呉れた人は、實に香月氏であつた」
香月恕経との出会いから一年余の明治十三年、十六歳の茂丸はいよいよ初めての上京を果たす。

《補註1》
 茂丸と香月恕経との出会いの時期については、引用した茂丸の記述では「明治庚辰」とあり、それに従えば明治十三年のことであるが、「其日庵過去帳」の「香月恕経(上)」の項では、明治十一年十一月と記されている。

参考文献
●「俗戰國策」杉山茂丸・大日本雄辨会講談社・1929
●「百魔 続編」杉山茂丸・大日本雄辨会・1927
●「其日庵叢書第一編」杉山茂丸・博文館・1911
●「杉山茂丸 明治大陸政策の源流」一又正雄・原書房・1975
●「杉山茂丸傳 もぐらの記録」野田美鴻・島津書房・1992
●「杉山茂丸論ノート」室井廣一・東筑紫短期大学研究紀要ほかに連載・1981〜
●「福岡県先賢人名辞典(復刻版)」三松荘一・古書肆葦書房・1986
●「人ありて 頭山満と玄洋社」井川聡、小林寛・海鳥社・2003