茂丸伝記抄タイトル画像




山縣有朋と相識る
杉山茂丸の政治活動を支えたのが、政界に深く張り巡らせた人脈であったことは言うまでもない。そしてその人脈の中で茂丸が大いに利用したのが、桂太郎、児玉源太郎ら、山縣有朋を頂点とする長州軍閥であったことは、藩閥政府打倒を目指して政界に関わることになった茂丸にとっては皮肉なことであったろうが、しかしそうした変わり身に対する潔さこそ、現実主義者杉山茂丸の面目躍如たるところである。
 とりわけ茂丸にとって、山縣有朋の存在は極めて大きい。同じ長州藩閥の元勲であっても、伊藤博文と茂丸とは、さまざまに親密な関係を築きながらも、時として短刀を突きつけて自刃を迫るような緊張をも伴ったものであった。
 一方山縣との関係においては、生死を分かつが如き対立はない。茂丸はこの老獪な軍人政治家に対し、時に頭越しに怒鳴りつけられながらも、それを擦り抜け、やり過ごして、持ちつ持たれつの極めて親密な関係を結んだのである。
 その山縣有朋と杉山茂丸とが相識ったのは、明治二十六年のことであった。茂丸が初めて上京したのが明治十三年であるから、既にそれから十三年の歳月を閲している。この頃既に、茂丸の政界人脈には、伊藤博文をはじめ後藤象二郎、黒田清隆、井上毅らがあった筈であるから、山縣の知遇を得た時期は茂丸にしては遅かったというべきであろう。
 前年二月の選挙干渉事件の後始末の金策に上京した茂丸は、旧知の川上操六参謀次長を訪ねた際に、清国の情勢を訊かれると、明治二十四年の北洋水師提督丁汝昌の長崎来航をも引き合いに出しながら、清国の暴戻倨傲を憤り、政府の無為を詰り、川上に対して清国との決戦を促した。
 川上は茂丸に対して同じ話を外務大臣の陸奥宗光にもするよう指示し、翌々日茂丸を引見した陸奥は、川上に手紙を出しておくから再度川上に会えと勧めた。
 その、陸奥から川上に当てた手紙に何が書かれていたのかはわからないが、再度茂丸の訪問を受けた川上は、陸奥も清との開戦に賛成であると告げ、「併し始めるとが中々六ヶ敷いと思ひ升、只で清國ばドヤス譯にも行ませんからナア」とぼやいて見せると、話を転じて茂丸と朝鮮との関わりを問うたのであった。茂丸が朝鮮の改革派勢力との交渉があると答えると、川上は山縣有朋に会って話をしろと言った。
 茂丸はかねてより山縣に知遇を得るべく、佐々友房と井上毅から紹介状を貰っていたところでもあったので、この機会に初めて、当時枢密院議長の職にあった山縣を訪ねることとなったのである。
 初対面の山縣に、茂丸は川上に話したと同様の清国膺懲論を展開したのであろう。それに対する山縣の反応は、議論としては興味を持つものの、現実問題としての開戦は、伊藤博文が総理大臣の座にあることも踏まえて、なかなか困難であろうとの見解を示したにとどまった。その上で山縣は、以後は川上操六を仲介者として面会に応ずることを約したのであった。
 しかるに後日、茂丸に紹介状を与えた佐々友房の元に山縣から来信があり、そこには茂丸(当時は偽名の「林矩一」で通っていた)の如き人物を紹介されては迷惑であるとの趣旨がしたためられていた。自分まで信用を落とすとぼやく佐々に、茂丸は自ら山縣に向後面会はせぬとの書状を送ると約して別れるしかなかった。
 しかし、このあたりの虚実が山縣流なのであろうか、それから数日、川上操六を通じて山縣から招請があった。指定された時刻に茂丸が訪問すると、山縣は上機嫌で打ち解けた様子であったという。
 山縣は茂丸に対し、伊藤博文や井上馨と、清との問題について相談したがはかばかしくないとの趣旨のことを述べた上で、朝鮮の情況はどうかと水を向けた。茂丸が鋭く「日清の關係は、朝鮮からでも起すお考へですか」と糺すと、山縣は「朝鮮人に不平黨でもあつて、馬鹿な事をされると大變な事が起りはせぬかと、私は心配して居る」と躱す。茂丸がここぞとばかりに朝鮮から事を起こすべしと迫ると、山縣は「賛成は出來ませぬ」と言いながらも、茂丸に対して朝鮮がどんな様子か遊びに行って見てはどうかと謎掛けをするのであった。
 実に虚々実々の駆け引きの挙げ句に、茂丸が「朝鮮人から事を起させて、日本が坐視する事の出來ぬやうな動機さへ得れば、閣下は御異存ないのでせう」と決めつけると、山縣は「貴下は山縣有朋を謀叛人に仕やうと思ひ升か、私はソンナ人とお咄をする事は出來ませぬ、ドウカ直にお歸り下さい」と言い捨てて席を蹴った。
 しかしこれもまた山縣の駆け引きであった。翌朝、茂丸は川上操六に呼ばれた。行って見ると、山縣の書生が川上を訪問し、茂丸の忘れ物だと称して明治日報の古新聞に包んだ金を預けていたのである。
 茂丸は直ちに配下の者六人ばかりを集め、山縣からの資金を使って朝鮮に潛入させたのである。その後茂丸が帰郷すると郷里でも同じような計画が進行していて、大勢の者が朝鮮に渡ったと言う。これらの動きは、更に翌二十七年に至って朝鮮に東学党の叛乱が起こると、武田範之、鈴木天眼、内田良平らによる天佑侠の活動に結びついて行くのである。
 この山縣有朋と杉山茂丸との初対面のエピソードが興味深いのは、川上操六と山縣有朋とが、どちらも清国と干戈を交える端緒として、朝鮮での騒乱を意識している点にある。川上は、明治二十七年に朝鮮改革派の金玉均が上海に暗殺された後、訪ねてきた玄洋社の的野半介に対し、「君は玄洋社中の一人だといふことであるが、元來同社は多士濟々たる遠征黨の淵叢と聞いてゐる。時局を急速に解決しようと思ふのなら誰か一人附け火をする者はないか。火の手が擧がりさへすれば火消しは我々の任務だから」と、玄洋社から事を起こすことを暗に促したという。これが天佑侠の発端であるが、茂丸が配下の者を山縣の資金によって朝鮮に送り込んだのは、その前年であったから、山縣や川上は、二重に火附け役を確保していたことになろう。
 その頃、朝鮮には釜山総領事に室田義文、領事官補に山座圓次郎があった。いずれも杉山茂丸とは関係が深い人物である。また民間壮士連には、前述した武田範之らが山座から様々に便宜を受けて活動していた。武田は久留米出身、それ以前結城虎五郎が杉山茂丸から資金調達を得て金鰲島に渡った際(林駒生の項を参照)、結城と行動を共にした人物であり、後年杉山茂丸、内田良平とともに、日韓合邦を推進することとなる。
 茂丸が山縣の資金によって為したことが、果たして日清戦争の導火線になったのかどうかはともかく、その工作の濫觴であったには違いない。そしてそのとき、既に朝鮮には役者が揃っていたのである。

参考文献
●「山縣元帥」杉山茂丸・博文館・1925
●「東亜先覚志士記傳」黒龍会編・原書房・1966
●「杉山茂丸 明治大陸政策の源流」一又正雄・原書房・1975