茂丸伝記抄タイトル画像




板垣伯病気の由、天聴に達し…
明治四十四年頃のことである。
 年の暮れの或る日、芝の桜川町で医院を開いている谷という医師が、杉山茂丸を訪れた。谷は一振りの刀を示し、値段は茂丸の言い値に任せて買い取って欲しいという。刀剣の鑑定に関しては玄人はだしの茂丸が鞘から引き抜いて見ると、備前大宮の盛重の手になる稀代の銘刀であった。
 持ち主を聞いてみると、谷は伯爵板垣退助の刀であると答えた。訝しく思った茂丸が、売却の理由を問うと、谷は板垣が病臥中であり、肺炎を起こす恐れがあることを告げ、さらに板垣が金銭に困窮している樣子を仔細に述べて、医薬の手当てにも事欠く状況であると言った。谷は板垣から「此刀を持って、杉山に行って、何程にか買うて呉れよ、と云うて呉れ給へ、アノ男なら刀も分るし、我輩がと云うたら、何とかして心配して呉れるかも知れぬ」と言われて、その刀を託されたものであった。
 しかし茂丸は、その刀を買い取ることを拒んだ。
「此刀は伯が壯年の時維新大變革の國事に奔走し、夙に大名を天下に馳せ、勤王志士の頭領として、滿天下の崇敬を受けて居られる時、藩主山内候より拜領した物と思ふ、左すれば伯にとっては、光彩ある意氣が、此一口の刀に覃められて居る物である、即ち伯が魂魄の宿る貴重なる名刀である、夫を後進黄雀の僕等が、其貧に乘じ、玩具として買ふことは到底出來ぬ」
そう理由を述べた茂丸は、谷を帰すと直ちに愛宕下の板垣邸を訪れた。板垣の貧窮振りは谷から聞いていた通りで、天井も襖も畳も破れ放題で、そんな家の中に天下の志士、伯爵板垣退助は、汚い蒲団に仰臥していたのである。
 茂丸が容態を尋ね、かつての門弟は見舞いに来るかと訊くと、板垣は「知らせも仕ませぬ、……又アレ共は、昨今山縣や桂共に、夫是と引付けられて、元の通り頑固な事斗りも云へぬと見えて、狼狽へ廻って居るらしいで、……此頃は滅多に來ませぬよ」と、悲痛な境遇を語った。
 茂丸は持ち合わせの金を包み、見舞いとして板垣邸を辞去すると、その足で小石川の山縣有朋の屋敷を訪ねた。
 山縣は松方正義と那須へ紅葉を見に赴くところであった。
 茂丸は紅葉見物なら板垣の屋敷がよいと言って、「紅葉と申者は、富貴權勢身に餘る者では、照輝きませぬ、又紅葉の色合も見えるものでは厶(ござ)りませぬ」と痛烈に皮肉ってから、板垣が病臥していること、赤貧洗うが如き窮乏の樣子などを述べ、板垣がその困窮から旧主下賜の銘刀を売らねばならぬ状況にあることまでをも山縣に伝えた。そして茂丸自身と板垣とは、長年にわたり政治的信条の違いから対立した関係にあったが、それは単に国家に対する意見の相違に過ぎない、板垣は国家に対し私心なき高潔誠忠の士であると言って、「今日太平の時に至って、家に憺石の貯へなく、身に弊袍の蔽ふべきなく、高齡病を以て、窮廬に枯死せんとして居られ升、此を此儘に殺しては、我々憂國の士たる者の、由々敷一大事で厶い升」と、那須行を取り止めて板垣を見舞うことを慫慂した。暫し沈默していた山縣は、松方に電話をして同行を断ると、「君のお陰で、山縣の善行が、一つ出來るわい」と言って、直ちに桂太郎首相を訪問したのであった。
 茂丸が山縣に招かれたのは翌夕である。夕食を共にした後、山縣は紙包みを茂丸の前に差し出した。聞くと、昨日桂首相に会ったあと、井上馨、伊藤博文とも語らったところ、いずれも板垣の境遇が気の毒であるとの心から、それぞれ千五百円ずつを出し合い、都合六千円の金が出来たので、いずれ見舞いには行くが、取りあえず茂丸から板垣に届けてくれとのことであった。
 茂丸は男泣きに泣きながら「私は此品をお取次することが出來ませぬ」と言い、理由を問う山縣にこう答えた。
「閣下、金と云ふ物は、一錢銅貨を投げて遣れば、乞食で厶い升ぞ。六千圓を人に托して遣れば、乞食ではないと云ふ、金に印が厶い升か、閣下方が、月給か恩賜金かを、儉約して食ひ溜めて居られる全くの私財を、謡を聞く片手に、切錢をして、割前で出して、人もあらうに、板垣伯に、名もなき私に托して、與へられたら、板垣伯の最後は、閣下方の行為によりて、トウトウ乞食になります。即ちこれは、御厚意でも何でも厶いませんぞえ」
そして茂丸は、自ら抱懷する板垣救済の秘策を実現するよう山縣に懇請した。
「若し現総理大臣桂公が『我々は日本の、維新鴻業に對しては、板垣伯から見れば、如何にしても後輩である。山縣、伊藤、井上の諸公は、板垣伯と全く同列の、維新の元勲である』との理解が、明白に付く丈けの識量があるなら、ナゼ倉皇として、宮中に駈け付け、天皇陛下に拜謁し、『陛下の維新以來の御寵臣、……維新元勳の一人たる板垣伯が、病氣に厶りまする、此寒中、餘程衰弱を致して居まするから、御慰問を仰付けられたう厶りまする』と、申上げ、一方宮内大臣に向っては、「相當御慰問の御下賜金を願升」と申されぬので厶り升か、若し天皇陛下が『板垣の爺が、病氣をして居るそうじゃ、寒中攝養に注意せよ』と仰せられて、恩賜がありましたら、此を拜承した、全國幾千萬の、後進の板垣は、皆死を以て 陛下の前にご奉公を申上升、此が総理大臣のする事で厶い升」
山縣は茂丸の弁を顔色を変えて聞いていたが、やがて表情を和らげて「成程長年板垣と反對の位置に立ち、反對の生活をして來て居る我輩共が、俄然金を惠與しては、良くないとは、尤も至極の事である」と答えた。
 それから三日後、桂首相から板垣邸に使者があり、「板垣伯御病氣の由、天聴に達し、御傳達申度儀がある」と伝え、板垣の代理人を官邸に呼んで御下賜金二万円を下されたのであった。
 後日、板垣夫人は茂丸を訪ね、「今回退助の病氣に付き、宮中より、思いも寄らぬ、恩賜を忝う致しました事に就いては、貴下が、非常にお世話下さったとの事を、逐一に承はりました」と礼を述べるのを、茂丸は、山縣とはそのような話は全くしていないと答えたという。

参考文献
●「俗戦国策」杉山茂丸・大日本雄辨会講談社・1929