久作関係人物誌
坂元雪鳥(さかもと・せっちょう)
坂元雪鳥は大正から昭和初期の代表的な能楽評論家である。
本名は三郎、明治十二年四月二十五日、旧筑後柳川藩士であった白仁成功(しらに・なりこと)の三男として出生した。伝習館中学から旧制五高へ進み、ここで当時五高の英語教師であった夏目漱石の教えを受ける。
五高から東京帝大法学部に進んだ坂元雪鳥は、その後文学部へと転じ、明治四十年に卒業すると東京朝日新聞に入社、同じ時期に旧師夏目漱石もまた朝日に入社し、かつての五高の師弟は俳句の門において師弟の関係を再び築くこととなった。
この頃から、坂元雪鳥は「天邪鬼」と号して能評を朝日新聞紙上に掲載し始めた。坂元の能評は、坂元自身が急逝するまで、実に三十余年にわたって朝日新聞紙上に連載されることとなった。
坂元姓となったのは、朝日入社後の明治四十一年である。薩摩藩の藩医であった坂元常彦の養子となり改姓したものであった。
明治四十二年、朝日を退社し、能楽評論家として独立。雑誌「能楽」を主要な舞台として活躍した。昭和三年には日本大学の教授に迎えられている。
昭和十三年二月五日に急逝。昭和十一年七月から刊行されていた「大成喜多流謡曲定本」の解説を書き上げた翌日の急死であったという。没後「坂元雪鳥能評全集」が刊行されている。
坂元雪鳥は、幼少の頃から父によって喜多流の謡を教えられていた。その故であろうか、それとも当時の能楽界を代表する名人と謳われていたのが喜多六平多であったからであろうか、喜多流との関わりが深かったようで、喜多実や後藤得三とともに福岡を訪れ、久作とも面識があったことが、久作の日記から知られる。久作日記によれば坂元雪鳥が喜多実に同行して福岡を訪れたのは何度かあるようだが、大正十五年十月の来福は、後年久作没後に同行者であった松野奏風が書き残した回想に、その道中の樣子が記されている。このとき松野奏風は、大牟田から郷里柳川に向かう雪鳥に同行を求められたのだが、喜多実と後藤得三と雪鳥との交渉の結果、雪鳥と別れて香椎の久作宅を訪れ一夜を過ごしたのだという。
雪鳥は俳句の師である夏目漱石以外にも、泉鏡花や北原白秋、鈴木三重吉ら文人との交流も深かったらしく、これらの面々からの書簡が元九州工業大学教授の許斐慧二氏によってウェブ上に公開されている。
このサイトには久作からの書簡も二通紹介されており、うち一通には「僕の十年かヾりの力作が神田氏のお蔭で出版されます」と記されており、この「力作」が「ドグラ・マグラ」であろうことは容易く推測できる。許斐氏はこの書簡の執筆時期を昭和十年一月頃と推定しているが、初版発行日が昭和十年一月十五日であること、書簡の冒頭に「否でも應でも四十七になる日が近づきました」との記載があることから、昭和九年の暮れに書かれた書簡であろう。
久作の書簡は二十余年の歳月を経て完結した「夢野久作著作集」第6巻によって、その一部が公開された。しかし許斐氏のサイトで紹介されている書簡は、同書には収録されていないものである。許斐氏のサイトでは、この書簡が、スキャン画像とともに公開されており、その意義は極めて大きい。
本名は三郎、明治十二年四月二十五日、旧筑後柳川藩士であった白仁成功(しらに・なりこと)の三男として出生した。伝習館中学から旧制五高へ進み、ここで当時五高の英語教師であった夏目漱石の教えを受ける。
五高から東京帝大法学部に進んだ坂元雪鳥は、その後文学部へと転じ、明治四十年に卒業すると東京朝日新聞に入社、同じ時期に旧師夏目漱石もまた朝日に入社し、かつての五高の師弟は俳句の門において師弟の関係を再び築くこととなった。
この頃から、坂元雪鳥は「天邪鬼」と号して能評を朝日新聞紙上に掲載し始めた。坂元の能評は、坂元自身が急逝するまで、実に三十余年にわたって朝日新聞紙上に連載されることとなった。
坂元姓となったのは、朝日入社後の明治四十一年である。薩摩藩の藩医であった坂元常彦の養子となり改姓したものであった。
明治四十二年、朝日を退社し、能楽評論家として独立。雑誌「能楽」を主要な舞台として活躍した。昭和三年には日本大学の教授に迎えられている。
昭和十三年二月五日に急逝。昭和十一年七月から刊行されていた「大成喜多流謡曲定本」の解説を書き上げた翌日の急死であったという。没後「坂元雪鳥能評全集」が刊行されている。
坂元雪鳥は、幼少の頃から父によって喜多流の謡を教えられていた。その故であろうか、それとも当時の能楽界を代表する名人と謳われていたのが喜多六平多であったからであろうか、喜多流との関わりが深かったようで、喜多実や後藤得三とともに福岡を訪れ、久作とも面識があったことが、久作の日記から知られる。久作日記によれば坂元雪鳥が喜多実に同行して福岡を訪れたのは何度かあるようだが、大正十五年十月の来福は、後年久作没後に同行者であった松野奏風が書き残した回想に、その道中の樣子が記されている。このとき松野奏風は、大牟田から郷里柳川に向かう雪鳥に同行を求められたのだが、喜多実と後藤得三と雪鳥との交渉の結果、雪鳥と別れて香椎の久作宅を訪れ一夜を過ごしたのだという。
雪鳥は俳句の師である夏目漱石以外にも、泉鏡花や北原白秋、鈴木三重吉ら文人との交流も深かったらしく、これらの面々からの書簡が元九州工業大学教授の許斐慧二氏によってウェブ上に公開されている。
このサイトには久作からの書簡も二通紹介されており、うち一通には「僕の十年かヾりの力作が神田氏のお蔭で出版されます」と記されており、この「力作」が「ドグラ・マグラ」であろうことは容易く推測できる。許斐氏はこの書簡の執筆時期を昭和十年一月頃と推定しているが、初版発行日が昭和十年一月十五日であること、書簡の冒頭に「否でも應でも四十七になる日が近づきました」との記載があることから、昭和九年の暮れに書かれた書簡であろう。
久作の書簡は二十余年の歳月を経て完結した「夢野久作著作集」第6巻によって、その一部が公開された。しかし許斐氏のサイトで紹介されている書簡は、同書には収録されていないものである。許斐氏のサイトでは、この書簡が、スキャン画像とともに公開されており、その意義は極めて大きい。
参考文献
●「近代文学資料紹介」許斐慧二・http://www.h4.dion.ne.jp/~konomi/(このサイトは現在閉鎖されている。)
●「日本近代文学大事典」日本近代文学館編・講談社・1977
●「夢野氏」松野奏風・雑誌「暗河」第21号・1978に再録(初出は「謡曲界」1936年4月号)
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