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久作関係人物誌




大熊浅次郎(おおくま・あさじろう)
福岡・博多の郷土史家として知られる大熊浅次郎は、慶応二年一月二十九日、福岡藩士の家に生まれた。明治の中期、博多商業学校などで教鞭をとった後、明治二十四年から博多商業会議所の書記となり、さらに書記長となって十九年間の長きにわたり博多商業会議所の運営に努めた。大熊が商業会議所書記長であった明治二十九年には、同会議所は関門海峡の海底に鉄道を敷設する建議を行っており、後年の杉山茂丸による関門トンネル計画に結びつく先駆的な取組みとして注目される。
 明治四十二年に博多商業会議所を退くと、のちに東邦生命社長となる太田清蔵らと九州中央自動車株式会社を設立してバス、タクシー事業の先駆けとなり、実業界に脚を踏み入れた。
 大熊浅次郎と杉山茂丸との交流がいつごろから始まったのかは判然としないが、遅くとも大正元年に茂丸が博多築港計画の具体化に動き出して以後、両者の関係は極めて緊密になる。大熊は河内卯兵衛や進藤喜平太の推輓によって、大正五年に設立された博多湾築港株式会社に加わり、茂丸の片腕としてその壮大な事業の推進に尽くした。
 当時の大熊は、茂丸が福岡にあれば福岡にあり、茂丸が東京にあればそれに随って東京にあるというほどであって、当時を知る松永安左衛門は、「杉山の左右大臣には河内卯兵衛と大熊翁が居た」と評して居る。
 博多築港計画そのものは、杉山茂丸の親友であった中村精七郎の資金提供によって遂行されたが、起工後三年で中村は三百万円の資金を使い果たしてしまい、完成を見ないまま頓挫することとなった。
 こののち大熊浅次郎は、筑紫史談会に拠って郷土史の研究に余生を費やす。会の研究成果たる「筑紫史談」は、大正三年の創刊以来、実に三十二年の長年月にわたって刊行され続けた。
 昭和二十七年二月、脳溢血に倒れ、半年の闘病の後、同年八月二十九日に死去。
 杉山茂丸と大熊とが如上の関係にあったことからであろう、夢野久作の日記にも、折りにふれて大熊浅次郎の名が書き留められている。
 茂丸死後の昭和十年十月八日には「栗野君はたゞ漫然と、大熊君は築港会社に対する不平、株券の事等にて又杉山老夫婦は徳蔵の不始末等にて来り終日を潰さる」とある。探偵文壇に確固たる地位を築きつつあった久作が、原稿執筆と亡父の後始末に多忙な中、大熊らの来訪を受けて時間を潰され、困惑する様子が目に浮かぶ。因みに、株券とは杉山茂丸が所有していたであろう博多湾築港株式会社の株式のことではなかろうか。茂丸は会社設立に際し、四千株を引き受けて筆頭株主の地位にあった。しかし昭和十年当時、その株式の価値がどれほどであったかは、築港計画の頓挫を考え合わせると、甚だ心もとないように思える。

参考文献
●大熊淺次郎君追悼録・高野孤鹿編・大熊淺次郎君追悼録編纂所・1952
●杉山茂丸 明治大陸政策の源流・一又正雄・原書房・1975
●杉山茂丸傳 もぐらの記録・野田美鴻・島津書房・1992
●新聞記事文庫・神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ・http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/