久作関係人物誌
浪越康夫(なみこし・やすお)
浪越康夫は高知県出身の医師である。専門は整形外科。明治三十四年二月十五日、同県香美郡田村(現・高知県南国市田村)に出生。岡山の旧制第六高等学校から、大正十年九州帝国大学医学部に進んだ。同十四年に医学部を卒業、整形外科学教室の助手に任じられ、昭和五年二月、医学博士の学位を授与された。脊椎に関する多くの研究論文を著し、いくつかは近年でも論文への引用が確認できる。学位取得後福岡県内の病院に勤務し、昭和六年に帰郷して高知市帯屋町に浪越病院を開業した。
旧制六高時代から柔道に親しみ、大日本武徳会五段・講道館五段まで進んでいる。また謡曲・能楽を趣味とし、雑誌『土佐史談』に「土佐の能楽に就て」という随筆を発表したこともある。
一方、政治的活動にも熱心であったとみられ、橋本欣五郎の大日本赤誠会や出口王仁三郎の昭和神聖会に関係するとともに、大政翼賛運動を推進していた。昭和十七年の旧 制六高同窓会名簿には「応召中」とあり、軍医に召集されたものとみられる。国立国会図書館デジタルコレクションを調査した限りでは、これ以後の消息は不明である。
夢野久作と浪越康夫の関係は、おそらく能楽が端緒であっただろう。夢野の日記には「浪越、栗野、其他稽固」という記述(昭和4年10月7日条)などがあり、夢野が浪越に謡曲の指導をしていたことがうかがえるが、むしろ杉山龍丸による日記の註解にあるように、友人として親しく交際していたことが、「浪越でマージャン」「浪越にゆき、マージャン」といった記述が昭和4年の日記に10回以上繰り返されていることから知られよう。
一方で、大鷹涼子氏の学位論文「夢野久作『ドグラ・マグラ』生成論」で指摘されているように、浪越康夫は夢野が代表作『ドグラ・マグラ』を執筆するに際し、さまざまな助言を与えていた。大鷹氏は『夢野久作の日記』から昭和3年11月〜12月の記述を引用しているが、両者のそうした関係は大正15年6月に遡ることができる。引いてみよう。
旧制六高時代から柔道に親しみ、大日本武徳会五段・講道館五段まで進んでいる。また謡曲・能楽を趣味とし、雑誌『土佐史談』に「土佐の能楽に就て」という随筆を発表したこともある。
一方、政治的活動にも熱心であったとみられ、橋本欣五郎の大日本赤誠会や出口王仁三郎の昭和神聖会に関係するとともに、大政翼賛運動を推進していた。昭和十七年の旧 制六高同窓会名簿には「応召中」とあり、軍医に召集されたものとみられる。国立国会図書館デジタルコレクションを調査した限りでは、これ以後の消息は不明である。
夢野久作と浪越康夫の関係は、おそらく能楽が端緒であっただろう。夢野の日記には「浪越、栗野、其他稽固」という記述(昭和4年10月7日条)などがあり、夢野が浪越に謡曲の指導をしていたことがうかがえるが、むしろ杉山龍丸による日記の註解にあるように、友人として親しく交際していたことが、「浪越でマージャン」「浪越にゆき、マージャン」といった記述が昭和4年の日記に10回以上繰り返されていることから知られよう。
一方で、大鷹涼子氏の学位論文「夢野久作『ドグラ・マグラ』生成論」で指摘されているように、浪越康夫は夢野が代表作『ドグラ・マグラ』を執筆するに際し、さまざまな助言を与えていた。大鷹氏は『夢野久作の日記』から昭和3年11月〜12月の記述を引用しているが、両者のそうした関係は大正15年6月に遡ることができる。引いてみよう。
「直越君のところへゆき、狂人の話をきゝ、三角にとまる」(大正15年6月4日条)
この記述の「直越君」が浪越の誤りであることは、同年8月8日の「浪越君の処にゆき話し、三角に帰りねる」という記述が、日記原本において「直」を塗り消して「浪越」と書き直されていることから明らかであろう。夢野久作の日記において、最も早く『ドグラ・マグラ』執筆に関する記述が見られるのは大正15年5月11日条の「終日、精神生理学の原稿を書く」というものであるから、浪越康夫は極めて早い時期から、夢野への助言者の一人だったとみられるのである。
夢野は昭和3年12月9日に浪越を訪ねて解剖について教えを受け、同26日には浪越とともに九州帝大の法医学部(正しくは医学部法医学教室であろう)を見学した。おそらくは浪越の紹介で見学を許されたのだろう。この日の夢野の日記には、末尾に括弧書きで「頭蓋裁断器、固定器、附図、壁枕、白大理石、舟型、出張用トランク」と書かれている。解剖室の見学で印象に残った品々を書き留めたのだろうが、これが『ドグラ・マグラ』におけるグロテスク趣味が最も横溢した若林博士の死体解剖シーンに結びついていることに疑いはない。このとき、夢野は死体解剖を実見したのだろうか。いや、このときに限らず、夢野は死体解剖を実見したことがあったのだろうか。
たとえば夢野の同時代人で探偵小説作家の小酒井不木は、東京帝大医科大学出身の医学者であったから、死体解剖は実見どころか実践してきた人物であった。その小酒井は短篇小説「三つの痣」で死体解剖のシーンを描写しており、その中で、頭皮を切開して頭蓋骨を露出させる手順は、次のように語られている。曰く、「私は女の黒髪を掻き分けて、耳から耳に、頭上を横断してメスを入れました」と。一方、夢野は『ドグラ・マグラ』で、これとは異なる手順を描写した──「屍体の眉間のところをブスリと一突き…それからしだいに後頭部に到る頭の皮を、一直線にキリキリと截り開いて行きました」と。
小酒井の描写はいわゆる冠状線に沿って頭皮を切開し、夢野の描写は正中線に沿って頭皮を切開したことになる。これは解剖の手順としてどちらも誤りではない(もちろん、小酒井が誤った描写をするということはおよそ考えられないが)が、これに続く『ドグラ・マグラ』の記述には、いささか気になる点がある。すなわち「少女の頭の皮は巧みにクルリと裏返しにされまして、髪毛と一緒に靴下を脱ぐように両眼の下まで引卸されました」という記述である。
小酒井の描写のように冠状線に沿って切開した場合は、頭皮は前後方向にめくり返され、顔面の下半分は裏返った頭皮に覆われることになる。しかし正中線に沿って切開された頭皮は人体の左右方向にめくり返されるから、「両眼の下まで引卸され」た状態にはならないはずだ。私は過去に二度人体解剖を実見したことがあるが、いずれの場合も小酒井の描写のように、頭皮の切開は冠状線に沿って行われていた。
「両眼の下」云々を夢野の勇み足とみるなら、小酒井との叙述の相違は、解剖の目的の違いに理由を求めることはできそうだ。小酒井が描いたのは司法解剖の場面であるが、司法解剖にせよ私が見た行政解剖にせよ、死因が究明されれば遺体は速やかに遺族に返される。その際、正中線に沿って頭皮を切開していたら眉間の縫合痕は隠しようもなく、遺族はいたたまれない感情に襲われるに違いない。それを未然に防ぐため、毛髪で縫合痕を隠せる冠状切開が選ばれるのであろう。しかし『ドグラ・マグラ』で若林博士が行ったのは──彼が法医学者であるにもかかわらず──まともな解剖などではなく、死体の、特に顔貌の意図的な損壊であった。そう考えれば、この解剖手順の違いも納得がいくが、果たして夢野がそこまで考えていたのかどうかはわからないし、彼が死体解剖を実見したことがあるのかどうかの答えにもならないのだが。
夢野は昭和3年12月9日に浪越を訪ねて解剖について教えを受け、同26日には浪越とともに九州帝大の法医学部(正しくは医学部法医学教室であろう)を見学した。おそらくは浪越の紹介で見学を許されたのだろう。この日の夢野の日記には、末尾に括弧書きで「頭蓋裁断器、固定器、附図、壁枕、白大理石、舟型、出張用トランク」と書かれている。解剖室の見学で印象に残った品々を書き留めたのだろうが、これが『ドグラ・マグラ』におけるグロテスク趣味が最も横溢した若林博士の死体解剖シーンに結びついていることに疑いはない。このとき、夢野は死体解剖を実見したのだろうか。いや、このときに限らず、夢野は死体解剖を実見したことがあったのだろうか。
たとえば夢野の同時代人で探偵小説作家の小酒井不木は、東京帝大医科大学出身の医学者であったから、死体解剖は実見どころか実践してきた人物であった。その小酒井は短篇小説「三つの痣」で死体解剖のシーンを描写しており、その中で、頭皮を切開して頭蓋骨を露出させる手順は、次のように語られている。曰く、「私は女の黒髪を掻き分けて、耳から耳に、頭上を横断してメスを入れました」と。一方、夢野は『ドグラ・マグラ』で、これとは異なる手順を描写した──「屍体の眉間のところをブスリと一突き…それからしだいに後頭部に到る頭の皮を、一直線にキリキリと截り開いて行きました」と。
小酒井の描写はいわゆる冠状線に沿って頭皮を切開し、夢野の描写は正中線に沿って頭皮を切開したことになる。これは解剖の手順としてどちらも誤りではない(もちろん、小酒井が誤った描写をするということはおよそ考えられないが)が、これに続く『ドグラ・マグラ』の記述には、いささか気になる点がある。すなわち「少女の頭の皮は巧みにクルリと裏返しにされまして、髪毛と一緒に靴下を脱ぐように両眼の下まで引卸されました」という記述である。
小酒井の描写のように冠状線に沿って切開した場合は、頭皮は前後方向にめくり返され、顔面の下半分は裏返った頭皮に覆われることになる。しかし正中線に沿って切開された頭皮は人体の左右方向にめくり返されるから、「両眼の下まで引卸され」た状態にはならないはずだ。私は過去に二度人体解剖を実見したことがあるが、いずれの場合も小酒井の描写のように、頭皮の切開は冠状線に沿って行われていた。
「両眼の下」云々を夢野の勇み足とみるなら、小酒井との叙述の相違は、解剖の目的の違いに理由を求めることはできそうだ。小酒井が描いたのは司法解剖の場面であるが、司法解剖にせよ私が見た行政解剖にせよ、死因が究明されれば遺体は速やかに遺族に返される。その際、正中線に沿って頭皮を切開していたら眉間の縫合痕は隠しようもなく、遺族はいたたまれない感情に襲われるに違いない。それを未然に防ぐため、毛髪で縫合痕を隠せる冠状切開が選ばれるのであろう。しかし『ドグラ・マグラ』で若林博士が行ったのは──彼が法医学者であるにもかかわらず──まともな解剖などではなく、死体の、特に顔貌の意図的な損壊であった。そう考えれば、この解剖手順の違いも納得がいくが、果たして夢野がそこまで考えていたのかどうかはわからないし、彼が死体解剖を実見したことがあるのかどうかの答えにもならないのだが。
参考文献
●宮田晴治編『近代土佐人』高知尚文社・1938年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1054096)●津村久茂編『高知縣名鑑 : 紀元二千六百年記念』土陽新聞社・1940年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1079926)
●井関九郎編『学位大系博士録』昭和15-16年版』発展社出版部・1940年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1460729)
●石津稟三編『昭和17年度 会員名簿』六高同窓会・1942年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1910593)
●湯本修治『闘魂 : 高専柔道の回顧』読売新聞社・1967年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2512140)
●『高知県名士録 昭和10年度』南人社・1935年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1234205)
●赤沢史郎他編『資料日本現代史 12』大月書店・1984年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12284023)
●『土佐史談』57号・土佐史談会・1936年(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7913033)
●杉山龍丸編『夢野久作の日記』葦書房・1976年
●大鷹涼子「夢野久作『ドグラ・マグラ』生成論」博士論文(岡山大学)・2009年
●福岡県立図書館デジタルライブラリ(https://adeac.jp/fukuoka-pref-lib/catalog-list/list0009)
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