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久作関係人物誌




竹本素女(たけもと・もとめ)
女流義太夫(女義)の太夫。本名は正井のぶ。明治十八年八月十二日大阪市南区(現中央区)に出生した。生家は唐傘の製造業を営んでいて、素女はその長女であった。芸事に熱心な母きくの勧めにより、九歳の頃から近所に住まいしていた女義の梅吉の稽古を受け、三味線弾きの鶴沢錦絲の内弟子を経て、当時大阪の女義界で豊竹呂昇と並び称された竹本長広(のち旭嬢と改名)に入門、広枝の名を貰った。長広門下で玄人の女義として舞台に上がるようになった広枝は、その後三味線の鶴沢友松や義太夫界の大立者三代目越路太夫などの稽古を受けて才能を伸ばし、三十歳にして単身上京を決意するに至る。広枝が素女と改名したのは、その少し前、明治四十五年のことであったが、素女の名を授けたのは杉山茂丸の盟友で鶴沢友松と親しかった小美田隆義である。
 女義は、もと娘義太夫とも呼ばれ、明治二十一年に初代竹本綾之助が十四歳で真打となって以来、社会現象ともいうべき絶大なブームを巻き起こし、当時の大衆娯楽の首座を占めたが、その人気が女義の醸し出す色艶に依存するところ大であったことや、伝統芸能であるにも拘わらず人気に乗じた粗製濫造が行われたこと、そしてその背後に演芸場である寄席の席亭、五厘と呼ばれたプロデューサー的な職能、そして女義自身の確執などがあり、また映画が徐々に大衆娯楽の第一線に浮上してきたこともあって、明治末期から大正にかけて、徐々に衰退の途を辿った。竹本素女は、そんな衰退期にある東京の女義の世界に、大正三年に初めて登場した。
 およそ、東京において娘義太夫が一大ブームとなったとしても、義太夫の本拠は文楽発祥の地である大阪であって、初期の大スターである竹本綾之助も大阪から東京の女義界に進出したものであったし、木下杢太郎の詩「街頭初夏」に唱われて有名な豊竹昇菊・昇之助の姉妹も大阪からの上京組である。素女は、越路太夫らに仕込まれた芸の確かさでめきめきと頭角を現し、当時の女義の大スターであった豊竹呂昇と同様に、寄席という狭い世界に止まらず、有楽座や歌舞伎座などの劇場にも進出し、呂昇が大正十四年に引退して以後、女義の第一人者として昭和の斯界を先導する役割を担った。昭和十一年には男だけの組織であった日本帝都義太夫因会に女子部が新設され、素女が理事長となる。また戦後の昭和二十五年には、素女や二代竹本綾之助を中心に女流義太夫連盟が結成されている。昭和三十八年には紫綬褒章を受章した。昭和四十一年五月九日没。
 竹本素女と夢野久作との接点は、久作の父、杉山茂丸にある。茂丸の死後、久作は茂丸生前の女性関係の始末に奔走したが、素女はその三人の女性の一人であった。久作の日記の昭和十年八月十二日の項には、茂丸の葬儀の数日後に広田弘毅や東邦電力の松永安左衛門ら政財界の要人が集まって開催された茂丸の債権債務の整理に関する委員会の報告事項が書き残されているが、その第六項目として「河原花本素女等の件」とあり、この「素女」が竹本素女である。そこには続いて「素女のことは福島、下郷、千葉等ご相談下さる」とも書かれている。因みに、「福島」は福島行信、「下郷」は下郷伝平、「千葉」は千葉亀之介、いずれも茂丸債権債務の整理委員会のメンバーである。
 また九月四日の日記には、「河原、花本、素女は余片付ける事に話決定」とある。推察するに、茂丸の女性関係の整理だけは、唯一の男子の肉親であった久作が引き受けざるを得なかったのであろう。現存する久作日記に、素女をはじめとする茂丸の女性関係の始末に関する具体的な行動は一切書かれていないが、九月二十三日の日記には渡米した親友奈良原牛之介に宛てた手紙の内容が書き留められており、そこに「父の生前に関係して居りました三人の女性が皆僕を信頼して、つまらぬ事を云はずに我慢して呉れて居ります為に、一切の醜態を未然に防ぎ、些くとも母と瑞枝の生涯を保証するだけのお金は、大した侮辱を受けずに父の故友から貰ひ受ける見込が立ちましたから、何卒僕の成功を賞めて下さい」と記されている。おそらくは、茂丸生前からその没後の始末のつけかたに腐心していたであろう久作にとっても、この女性関係の始末は気の重い、かつ多難な事業であったのであろう。奈良原牛之助宛ての手紙の文章から、その久作の感慨が滲み出ているように思える。
 茂丸と素女との関係は、茂丸が大の義太夫贔屓であったことから生じたものであった。茂丸は自らも浄瑠璃を書いたほか、「義太夫論」や「浄瑠璃素人講釈」の著作を遺しており、特に後者は、茂丸が三代竹本大隅太夫や竹本摂津大掾ら名人から聞いた語りの神髄を書き綴ったもので、浄瑠璃語りの技術書として現代に至るも斯界において名著に数えられるものである。それほどに義太夫に肩入れしていた茂丸であるから、芸人に対する庇護も厚かったが、茂丸の場合は技術論においても玄人を凌駕するものを身につけていたことから、自ずと単なる庇護者、いわゆる「旦那」とは一線を画していた。
 素女が上京し、名付け親の小美田隆義の邸に挨拶に出向いた際、偶々来訪中の茂丸に紹介されたのが、茂丸と素女との初対面である。素女は元来無口で愛想の出来ない質であったといい、茂丸との初対面も素っ気ないものであったが、その後素女の舞台を聴いた茂丸から小美田邸に招かれ、「貴様の義太夫に見所がないではない、直してやるから毎日来い」と言われて多額の祝儀を貰ったという。素女は素性の知れぬ茂丸を警戒し、また素人から芸の上の指導を受けることを肯んじなかったが、やがて茂丸の人物を理解し、その芸論にも傾倒してゆくこととなる。
 ただ、久作の日記に記されたような、茂丸の女性関係の一人として素女を位置づけることについては、素女の伝記である「素女物語」を著した守美雄は異論を唱えている。「素女物語」には次のような記述がある。
 世間では杉山が素女に特に力を入れて贔屓にすることから、「杉山先生と素女の間は普通ではない」と蔭口を叩く者もいた。
 だが杉山はそんな小さな男ではなかった。妾宅も数軒あったが、自分の義侠的な気持で世話をする者と、それとは、はっきり区別していた。
 世話をしたり、贔屓にしたりすることに代償を求めようとするような昨今の名士連とは器がまるで違うのである。
この一文に示された守美雄の茂丸に対する人物観を、筆者は正しいと信じる。杉山茂丸はその生涯において、自己の名利を一顧だにしなかった人物である。警視総監の座を蹴り、日本興業銀行総裁の座を歯牙にもかけなかった人物である。そうした茂丸の人物を考えるとき、守美雄のこの見解には説得力がある。ただ、「素女物語」が素女存命中の伝記という性格上、極めてプライベートでデリケートな問題が美化される可能性は無論否定できない。もとより男女関係の穿鑿なぞ卑俗なことではあるが、敢えて今少し筆を進める。
 昭和十年十一月十九日に、素女は歌舞伎座において杉山茂丸の追善義太夫会を開いている。開催に際して、素女は事前に夢野久作に相談し、久作も「是非やって下さい。親爺もどんなに喜ぶでしょう」と快諾したという。
 繰り返すまでもなく茂丸は政財界に隠然たる影響力を持った人物であり、それゆえ前述の如き政財界の要人が茂丸の債権債務の整理のために委員会を発足させたのであった。そこには、茂丸生前には表面化しなかったネガティヴな側面を未然に処理するという意図があったに相違ない。それは久作が奈良原牛之介に宛てた書簡からも明白であろう。とすれば、女性関係という、少なくともポジティヴとは言い難い側面の当事者たる素女が、茂丸追善の義太夫会を開催するということに対し、久作はもとより茂丸周辺の政財界要人(彼らは同時に、濃淡はあっただろうが素女の後援者でもあった筈である)が、易々とそれを許すとは考えられないし、またそれらの反対を押し切ってまで素女が義太夫会を強行できよう筈もない。
 まして、会場となった歌舞伎座は舞台芸能の最高峰であり、かつ歌舞伎座において女義の興業がかけられたのは、このときが嚆矢であった。素女がいかに実力ある女義であったとしても、実力だけで、また茂丸追悼という名目だけで歌舞伎座の舞台に上がれよう筈がない。そこには「素女物語」に記されたような、歌舞伎座を経営する松竹の大谷竹次郎の好意は勿論のこと、茂丸周辺の了解が当然に存在する筈である。
 さらに当日は、久作もこの義太夫会に出席をしているのである。茂丸危篤の報を受けた久作は、七月十八日に上京し、九月二十五日まで東京に滞在したのだが、宛ら素女の義太夫会に合わせたように十一月十六日に再び上京して義太夫会に出席したのである。久作が素女の存在を亡父の「負」の側面と認識していたのなら、果たしてこのような行動を取り得たであろうか。
 また、久作の現存する日記の最後の記述は昭和十年十二月十四日であるが、そこには「残っている俗用は、河原花本の始末」云々と記されており、八月から九月の日記には書き記されていた素女の名はない。この時点において、素女の問題は既に解決済みと見るべきであろう。
 素女が久作に対し、茂丸追善の義太夫会を相談したという記述は、久作の日記には遺されていない。茂丸死後の久作の日記は記述のない部分が多々あるから、おそらくはその記載されざるときにあった出来事であろう。

参考文献
●「素女物語」守美雄・蒼林社・1954
●「知られざる芸能史 娘義太夫」水野悠子・中央公論社・1998
●「俗戦国策」杉山茂丸・大日本雄辨会講談社・1929
●「杉山茂丸 明治大陸政策の源流」一又正雄・原書房・1975