久作関係人物誌
黒木政太郎(くろき・せいたろう)
黒木政太郎は、夢野久作が慶應義塾中退後、福岡に戻って香椎に農園を開くに際し、ともに農園経営に従事した人物である。元相撲取りであったと言われ、杉山茂丸が大相撲界に縁が深かったことから、茂丸の指図によって久作を助けたものであるらしい。
夢野久作の生涯を記し続けた長男龍丸の著述には、農園時代の久作に関する記述に際し必ずと言ってよいほど黒木政太郎の名も記されるが、そこに書き残された黒木の人物像は、極めてネガティヴである。例えば昭和四十一年に「思想の科学」に発表された「夢野久作の生涯」から、黒木に関する記述を拾い出して見ると、
しかし、久作にとって黒木政太郎とは、杉山龍丸が言うようなネガティヴなだけの存在ではなかった。
久作がその筆名を用いるようになったのは、周知の如く「新青年」の懸賞に応募した「あやかしの鼓」を嚆矢とするが、それ以前から久作の文学活動は始まっていた。その文学的遍歴のひとつに、短歌結社への参加がある。久作が拠った短歌結社は、福岡を活動拠点とした浅香会であった。
浅香会は九州日報の記者で後に「博多風土記」を著した小田部博美や、玄洋社社員であった新開竹雨らが拠った結社であったが、その浅香会に、鎌倉から寄稿する黒木九二という歌人があり、小田部らは如何なる人物であるかと想像を逞しくしていたのだが、やがてその黒木本人が例会に参加するようになり、そしてその黒木九二が杉山茂丸の書生で、夢野久作とともに農園の経営に従事していることなどが明らかになった。
黒木九二とは黒木政太郎の筆名であった。黒木は浅香会の例会に度々顔を出すようになり、深更まで歌論を闘わせて、それから香椎の杉山農園まで三里の道を徒歩で帰ったという。その黒木の行動を、夢野久作ははじめ、女遊びでもしているのだろうと思っていたらしいが、やがて短歌結社の例会に参加していることを知り、黒木に伴われて久作も浅香会に参加したのであった。
夢野久作はこうして、黒木政太郎によって短歌へと導かれ、その文学的遍歴の一章を刻むこととなったのである。久作の定型詩への傾倒は、「夢野久作著作集」第一巻に「赤泥社詠草」として纏められているほか、夢野久作名義を使うようになってからも、著名な「猟奇歌」に結実している。
久作にとって、黒木がポジティヴな存在でもあった所以である。
夢野久作の生涯を記し続けた長男龍丸の著述には、農園時代の久作に関する記述に際し必ずと言ってよいほど黒木政太郎の名も記されるが、そこに書き残された黒木の人物像は、極めてネガティヴである。例えば昭和四十一年に「思想の科学」に発表された「夢野久作の生涯」から、黒木に関する記述を拾い出して見ると、
「大正六年、泰道は、法名のまま還俗し、鎌倉の実家に帰り、次いで、福岡県粕屋郡香椎村唐原の農園に戻って行った。しかし、そこには、継母幾茂から派遣された相撲取り上りの黒木某という人が、管理人として一切の采配を振っていた。」
「しかし、農園は、経営的に破局に向っていた。その原因は、黒木が、泰道と同等の生活をすることを考えて、勝手な振舞いをするようになり、もともと教養のなかった人であり、又相撲取りの社会にあった人で、当時の相撲の社会に、バクチと、女出入と、けんかはつきものであった。
泰道は、黒木の身持ちを心配して、泰道より先に妻をとらせ、身を固めさせたのであったが、無駄であったようである。それは、黒木が継母幾茂から頼まれて来ていることを笠に着て、泰道を馬鹿扱いし、それを公然と、泰道に向っていうようになったからである。」
「大正十二年の春、香椎の杉山農園は、破局に瀕した。それは、管理人の黒木が、杉山の名であちこちに借金をし、中には、バクチの上の悪質な借金もあった。
そのため、泰道が整理してやらねばならぬこととなり、泰道は、家族を連れて、香椎の杉山農園に帰り、黒木の始末をつけてやったが、黒木は、どこまでも、泰道の下に従うことを不服に思って、いうことを聞かなかったので、遂に別れることにした。」
久作の日記によれば、大正十五年八月二十七日に黒木宛絶交状を書き、九月二日に黒木からの書簡に返事を書き、十二月十九日に再度黒木宛絶交状、翌日黒木の訪問があり、詫びを受けている。従って、黒木に何らかの不始末があり、その事を理由として農園開設以来の関係に終止符を打ったことは事実であろうと推測できるが、その不始末が何であったのかは、日記には書き残されていない。「しかし、農園は、経営的に破局に向っていた。その原因は、黒木が、泰道と同等の生活をすることを考えて、勝手な振舞いをするようになり、もともと教養のなかった人であり、又相撲取りの社会にあった人で、当時の相撲の社会に、バクチと、女出入と、けんかはつきものであった。
泰道は、黒木の身持ちを心配して、泰道より先に妻をとらせ、身を固めさせたのであったが、無駄であったようである。それは、黒木が継母幾茂から頼まれて来ていることを笠に着て、泰道を馬鹿扱いし、それを公然と、泰道に向っていうようになったからである。」
「大正十二年の春、香椎の杉山農園は、破局に瀕した。それは、管理人の黒木が、杉山の名であちこちに借金をし、中には、バクチの上の悪質な借金もあった。
そのため、泰道が整理してやらねばならぬこととなり、泰道は、家族を連れて、香椎の杉山農園に帰り、黒木の始末をつけてやったが、黒木は、どこまでも、泰道の下に従うことを不服に思って、いうことを聞かなかったので、遂に別れることにした。」
しかし、久作にとって黒木政太郎とは、杉山龍丸が言うようなネガティヴなだけの存在ではなかった。
久作がその筆名を用いるようになったのは、周知の如く「新青年」の懸賞に応募した「あやかしの鼓」を嚆矢とするが、それ以前から久作の文学活動は始まっていた。その文学的遍歴のひとつに、短歌結社への参加がある。久作が拠った短歌結社は、福岡を活動拠点とした浅香会であった。
浅香会は九州日報の記者で後に「博多風土記」を著した小田部博美や、玄洋社社員であった新開竹雨らが拠った結社であったが、その浅香会に、鎌倉から寄稿する黒木九二という歌人があり、小田部らは如何なる人物であるかと想像を逞しくしていたのだが、やがてその黒木本人が例会に参加するようになり、そしてその黒木九二が杉山茂丸の書生で、夢野久作とともに農園の経営に従事していることなどが明らかになった。
黒木九二とは黒木政太郎の筆名であった。黒木は浅香会の例会に度々顔を出すようになり、深更まで歌論を闘わせて、それから香椎の杉山農園まで三里の道を徒歩で帰ったという。その黒木の行動を、夢野久作ははじめ、女遊びでもしているのだろうと思っていたらしいが、やがて短歌結社の例会に参加していることを知り、黒木に伴われて久作も浅香会に参加したのであった。
夢野久作はこうして、黒木政太郎によって短歌へと導かれ、その文学的遍歴の一章を刻むこととなったのである。久作の定型詩への傾倒は、「夢野久作著作集」第一巻に「赤泥社詠草」として纏められているほか、夢野久作名義を使うようになってからも、著名な「猟奇歌」に結実している。
久作にとって、黒木がポジティヴな存在でもあった所以である。
参考文献
●「夢野久作を憶ふ」小田部博美・雜誌「暗河」21号・葦書房・1978所収●「農園の頃の杉山君」武田信次郎・同上
●「夢野久作の生涯」杉山龍丸・平河出版「夢野久作の世界」・1975所収
●「わが父・夢野久作」杉山龍丸・三一書房・1976
●「外人の見たる日本及日本青年」夢野久作・葦書房・1996
●「西日本文壇史」原田種夫・文画堂・1958
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