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久作関係人物誌




林駒生(はやし・こまお)
杉山茂丸の末弟、夢野久作の叔父。明治三年一月五日生。青年期より長兄茂丸の影響であろうか、大隈重信の条約改正案等に反対する政治活動に参加していたというが、兵役後水産事業に従事し、とりわけ朝鮮半島近海の漁業資源開発に力を注いだ。明治三十六年六月、釜山に朝鮮海通漁組合連合会が設立されるとその理事となり、当時未開の地であったという元山に赴任。のち釜山の本部において要職を歴任する。海上生活が長く、その豊富な経験から、国内においても各地で朝鮮海域の水産業の実情などを講演して回った。明治三十八年十二月に韓国統監府が設置されるや、その官制に水産業に関する事項が殆ど閑却されていることから、初代統監伊藤博文をはじめ、統監府要人に対して水産業振興の重要性を説いて回ったというが、おそらくは、兄茂丸の周旋によるものであろうことは想像に難くない。その結果、同四十年、林駒生は韓国統監府の水産技師に登用され、在任中に従五位勲四等に叙せられている。水産のプロフェッショナルとして実地指導の傍ら水産新聞の発行に携わるなど、その生涯を水産業振興に捧げたが、昭和六年十月二十六日に韓国慶尚南道で病死した。享年六十二歳。
 杉山家の三男として生まれた駒生が林姓を名乗ることとなった経緯は、長兄杉山茂丸の「百魔」に触れられている。
 玄洋社機関紙として発足した福陵新報の経営が安定し始めた頃というから、おそらくは明治二十年代の前半かと思われる。玄洋社にあって杉山茂丸とともに頭山満の二股肱といわれた結城虎五郎(寅五郎とも)が、ある日茂丸を訪れて、日本の大陸政策のため、韓国内での工作活動に従事しようと考えているとの趣旨のことを打ち明け、まず金鰲島に渡り漁業に従事するための費用五百円の工面を依頼されたという。
 茂丸はその金策に東奔西走したが万策尽き、結城との約束の日も目前に迫って、途方に暮れて博多の中洲界隈を彷徨していたところ、叔父である林又吉の住居に行き着いた。空腹を覚えた茂丸は、家に上がり込み叔母を呼んで飯を馳走になろうとしたところが、家の中から返事をしたのは叔父の又吉であった。茂丸はその一年前にこの叔父から百円の大金を借用しながら、そのままに放置していたので、飯を喰わせて貰ったあとは説教をも喰らうこととなった。
「馬鹿者が百円と云ふ大金を、小店を出して一家の生計を營む資本になる大金であるぞ、夫を塵か芥のやうに遣ひ捨てゝ、現在の叔父の處に一ヶ年も寄り付かぬと云ふは、何と云ふ心得か、夫と云ふも貴樣が玄洋社とか、頭山とか金の貴い事も知らぬ、梁山泊のやうな豪傑などと交際するからの事である。武士たる者は先祖──鎗先の御遺勳で、子孫安穩に立行く事を忘却してはならぬ。聖人も静以て身を修め、儉以て徳を養ふとの教訓を垂れ玉うた。國家とか、國民とか、身分不相應な事斗りを言ひ、出來もせぬ大膽を口癖にし、一身一家の始末も付かぬ不行跡で、何で大世間の事が出來るか、貴樣が少なくも人間並になるなら、可愛い甥の事であるから、俺は金を返せなどとは云はぬ、向後心を改めて、取止めもなき惡友と交際を絶ち、一身を立て一家を營み、父母親戚に安堵させる事を心掛けよ」
しかし、叔父の説教を畏まって聞いていた茂丸は、その間に計略を捻り出していた。茂丸は殊勝を装って不行跡を詫び、さらに浪人の身を脱し独立を図るために友人と朝鮮沿岸での漁業に従事しようと考えており、今日は暇乞いに参上したのだと言った。林又吉が茂丸の漁業従事を喜びながらも、失敗するような事業ではないのかと心配すると、茂丸は資本もなくボロ舟一艘で荒海に乗り出すのであるからどんな危険があるやも知れないと言い、そのため暇乞いに来たのだと、叔父の親切心につけ込んだのである。案の定、林又吉は茂丸の入用の額を聞くと、七百円の金禄公債証書を差し出したのであったが、それには条件があった。
「夫なら俺は貴樣が一生の生業に有付く事であるから、其資本を出して遣らぬ事もないが、俺は茲に親身になって貴樣に咄さねばならぬ事がある。夫は俺も未熟ながら養子の身分で、先祖の家を受繼ぎ、兔や角今日までは來たが、貴樣の知る通り男の子を三人まで持ったが、皆早世夭折して、今では娘二人より外ない、即ち此林家を相續する嗣子がないのである。夫で二人の娘が少しでも困らぬやうに、第一儉素を旨とし、蓄財をして切めても多少の金なりと殘して置いて遣りたいと思うて今已に多少の金を持って居る、夫を今貴樣に貸す譯になるから貴樣は能く此の道理を考へねばならぬ。萬一貴樣が其金を返せぬ時は、貴樣の末弟駒生が、今東京に留學して居るのを、俺の家に養嗣子として呉れる事を、屹度承諾せねばならぬ。其上ならば今貴樣の入用の金を貸す事は何でもない、俺も今日まで貴樣の親父にも屡々其事を相談はして見たが、兎角捗々敷要領を得ぬから、今貴樣に心底打明けて屹度咄すのじゃ」
この条件を安請け合いした結果が、駒生の林家への養子入りとなったのである。
 後年夢野久作は、「父杉山茂丸を語る」の中で、茂丸が祖父三郎平に鉄の煙管で激しく頭を打擲される光景を描いた。茂丸が打擲された理由について、多田茂治は「夢野一族 杉山家三代の軌跡」の中で、上述した駒生の養子縁組に至る経緯を概説した上で「この一件も父三郎平を激怒させ、あの総鉄張の煙管事件の一因になったとも見られている」と書き記した。筆者は「夢野一族」を、近年の久作研究書中の白眉であると信じているが、この一文に関しては、多田の筆がやや奔りすぎた嫌いがあると感じている。おそらく多田は、杉山龍丸の「夢野久作の生涯」におけるこの茂丸打擲事件の記述から、駒生の養子の件を有力な理由と解したのであろうが、龍丸はそれを有力視するような記述はしていない。龍丸は次のように述べたのである。
「この事件は、茂丸が、頭山満ら、玄洋社の人々と、交わることを、極端に嫌っていた三郎平が、朱子学、水戸学派の人として、暴をもって、ことに反するのでなく、どこまでも、道に従って、文王、敢えて討たず、自らの修道の徳に、よるべきであるという主張から、このようなことが起ったのか? または、茂丸が、頭山と別れ、荒尾精らと東亜同文書院の設立や、石炭の香港貿易で、香港に渡航し、中国の実情と、孫文らがまだ広東の学生時代に、視察すると共に、産業革命や、銀行法、その他欧州の進んだ産業・経済などのことを学んで、帰国したことがあったが、その香港行きのことであったか。はたまた、末弟の駒生を、無断で、林家の養子にやることを、勝手に決め、林家からもらった士族の禄の補償であった、金禄公債を、七百円で叩き売って、結城虎五郎、武田範之らが、筑前新宮の漁師達と共に、朝鮮に渡り、南朝鮮の漁業開発から、天佑侠となり、東学党の乱と、朝鮮独立運動の出発を作ったことが、ばれたのか、良く判らない。」
いずれにせよ、結城虎五郎が韓国で漁業に従事するための金策によって林家の養子となった駒生が、長じて韓国で水産振興に生涯を費やしたことは、なにやら因縁めいてはいる。
 その林駒生の風貌が、龍丸の「わが父・夢野久作」に書き残されている。駒生は大酒のみで「アルコール中毒を超えていた」といい、その容貌は「頭の天辺から眼のところまで、全く毛というものがなく、ツルツルに禿て、眼の上に墨で眉を描いてい」たという。龍丸は父の不在の時に訪れたこの大叔父の自慢話を、朝から夕方まで聞かされたというが、駒生の弁舌に関しては久作の「近世快人伝」の篠崎仁三郎の項においても、その一端が窺える。
 夢野久作の代表作である「押絵の奇蹟」は、この叔父が婿養子となった林家の娘が創った物語を、久作が書き直したものであると、龍丸は、その著「わが父・夢野久作」の中で述べている。林家の娘とは即ち、久作の叔母ということになる。また、「爆弾太平記」も林駒生から聞いた話をもとに創作されたと、杉山龍丸の同著に記されている。
 「爆弾太平記」は昭和八年に発表された久作円熟期の作であり、杉山茂丸の嫡男として産まれ育った久作の、その環境が色濃く投影された一篇であるといえよう。例によって一人称で語られる主人公轟雷雄は朝鮮総督府の水産技師、禿頭で斗酒なお辞さずという大酒呑みであり、朝鮮沿岸の水産資源を遍く踏査して内地でその振興の重要性を説いて回り、後には釜山で「東洋水産組合」を設立したという経歴や、「演説の方なら十時間でも一気呵成」というのも林駒生そのものである。その主人公が世話になった朝鮮総督の名は山内正俊、ビリケン頭で、後に内地へ帰還して組閣するというから、寺内正毅その人がモデルであることは歴然としている。さらに脇役として登場するのが林友吉と友太郎の父子、ご丁寧に来島なぞという登場人物もいる。
 林駒生は久作にとって、単なる叔父と甥という関係を超えて、その創作活動に大きな影響を与えた人物であったのだ。

参考文献
●「東亜先覚志士記傳」黒龍会編・原書房・1966
●「わが父・夢野久作」杉山龍丸・三一書房・1976
●「百魔」杉山茂丸・大日本雄辨会・1926
●「夢野久作の生涯」杉山龍丸・平河出版社「夢野久作の世界」西原和海編・1975所収
●「夢野一族 杉山家三代の軌跡」多田茂治・三一書房・1997