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久作関係人物誌




喜多文子(きた・ふみこ)
喜多文子は能楽喜多流十四世家元であった喜多六平太の夫人で、囲碁の女流棋士でもあった。
 明治八年十一月十六日、東京の下谷に出生、父は佐渡出身の医師で教育者の司馬凌海である。
 司馬凌海は幼時より漢学に図抜けた才を見せ、十二歳の時に祖父に伴われて江戸へ出、松本良甫の塾に入って医学の道へ進んだ人物で、ドイツ語に長け、維新後は私塾春風社を開いて英才の指導に当たった。後に内務大臣や外務大臣を歴任する後藤新平も、春風社に学んだ一人である。一方、凌海は官吏としても維新以後順風の出世を遂げ、明治八年五月に元老院少書記官となったが、同年十二月に辞職、やがて結核を患い明治十二年三月に四十一歳で死去した。
 凌海の遺児は一男二女、喜多文子はその末子である。凌海の死後、落魄した司馬家は佐渡へ帰ることとなるが、その際、虚弱であった文子は、碁所四家のひとつ林家に繋がる女流棋士林佐野の養女に貰われることになった。
 江戸時代、囲碁も将棋も、家元を構成する諸家は幕府の扶持を受けていた。それ故、幕府瓦解後は生計上の苦心を強いられる環境に投げ込まれることとなり、林家もまた、生計と家門の維持に辛酸をなめるのだが、それを支えたのは三井や安田などの富豪への出稽古であった。そして林佐野の稽古先のひとつに司馬凌海がいたことから、文子が林佐野の養女となったのであるが、「お上げになるのなら相当のお家へ」と固辞する佐野に、凌海未亡人の春江が頼み込んで貰い受けさせたとのことである。その時、文子は三歳であった。
 文子は不羈とでも評すべき性格であったようで、長ずるに至り学校に馴染まず、養父米山が絵師であったことから絵を習わせようとしたがそれにも飽き、やむなく佐野が稽古回りに同行させるようになったのだが、それがきっかけとなって自然に碁を憶え、佐野に奨められて十一歳の時から村瀬秀甫らが結成していた方圓社で碁を学び始めた。
 十五歳で初段となった文子は、十八歳で二段、二十一歳で三段と順調に昇段を重ね、三段となった明治二十八年、能楽師の喜多六平太に嫁した。
 能楽と囲碁の、ともに若き家元同士を結びつけたのは、旧福岡藩主の黒田長知である。両名とも黒田家に出入りを許され、ともに芸をもって黒田侯の無聊を慰めていたところへ、侯の斡旋を受けて結婚に至ったという。生粋の江戸っ子の喜多六平太と東京生まれの文子の結婚に、久作と由縁のある黒田長知が関わったというのも、なにやら暗合じみた話ではある。
 結婚して喜多姓を名乗ることとなった文子は、しばらくはまだ三井家や安田家などの稽古回りに出ていたが、「喜多はうまい嫁をもらった、あれなら貧乏の喜多も立つに違いない」といった陰口を耳にしたことがきっかけとなって、間もなく棋界を去った。
 爾来十三年間、喜多文子は喜多流の家元夫人として、衰退していた喜多流の再興を陰で支え続けた後、六平太の奨めもあって棋界に復帰することとなる。しかし、伸び盛りの二十歳台を碁から離れていたことは、棋士としての喜多文子にとっては、致命的であったといえよう。
 その長年のブランクを埋めるにあたり、喜多文子は本因坊秀哉(補註1)と五十二局に及ぶ対局の機会に恵まれた。斡旋したのは碁を道楽としていた頭山満である。頭山の碁好きは、かつて所有していた夕張炭坑を売却した際に、転がり込んだ七十五万円の大金を、仲介者への礼や借金の倍返し、その他困窮する仲間達に惜しげもなく分け与えて、結局頭山が自らのために使ったのは霊南坂の古家一軒だけだったというエピソードの中の、古家一軒という部分が碁盤ひとつだったと変じて伝えられたほどであった。
 喜多文子にとって本因坊秀哉は方圓社の先輩であったが、しかしその時には棋界最高の実力者であった。十三年のブランクを持つ者が教えを請うにはあまりに遠い存在であったものを、その文子の願いを聞きつけた頭山が秀哉を動かし、霊南坂の私邸を対局場所に提供したものである。
 本因坊と喜多文子の毎週水曜日の対局は、やがて人の知るところとなって観戦を願う者が増えてきたため、五十二番のうち最後の二十番ほどは古島一雄宅に場所を移したという。更に文子は、三井家の温情によって、三井家に指南に出入りしていた中川亀三郎七段と二十番の対局の機会を与えられている。こうした好意に支えられて文子は見るみる棋力を回復し、明治四十四年、萬朝報と時事新報の双方の勝抜戦で、それぞれ五人抜きの快挙を成し遂げるというめざましい復活を遂げた。この成績により、喜多文子は三十六歳で女流初の四段に昇段、更に大正十年には五段に昇段し、棋界の重鎭としての存在感も強めていった。
 大正十三年、日本棋院が設立された。現役のプロ棋士としてはその晩年にさしかかっていた喜多文子であったが、日本棋院という棋界の統一組織設立に際しては、大きな役割を果たしたと伝えられる。
 明治維新によって家元制度に大きな打撃を受けた棋界は、明治十二年に村瀬秀甫、中川亀三郎(初代)を中心とした方圓社が、家元制度の枠組みを超えた新しい組織として勢力を伸ばした。方圓社には井上馨や山田顕義、山縣有朋、岩崎弥太郎など、貴顕名士が数多く後援者として名を連ね、塾生には石井千治(のちの二世中川亀三郎)、田村保寿(のちの本因坊秀哉)、田村嘉平など、後年の棋界を牽引する逸材を抱えていた。まさにこの全盛期の方圓社において、喜多文子は棋士への道を歩み始めたのである。
 方圓社は免状発行などで本因坊家と対立するといった事態を引き起こすものの、実力者村瀬秀甫の存在が柱石となって、明治十九年の村瀬死去に至るまで、棋界を席巻したのであった。
 村瀬の死後、棋界の中心となったのは本因坊家を継いだ秀栄である。本因坊秀栄はもと林家を継いでいたが、方圓社の興隆に対し宗家再興を図るため実家に戻っていた。秀栄の門には、方圓社を脱退していた田村保寿が拠り(補註2)、犬養毅、渋沢栄一、岩崎久弥、朝吹英二などが後援者に名を連ねていた。
 日本棋院設立前の棋界は、この本因坊一門(坊門)と方圓社との対立を軸に、離合集散の歴史を重ねていた。
 本因坊秀栄が明治四十年に死去すると、その後継を巡って坊門の田村保寿と雁金準一とが対立し、翌年に田村保寿が本因坊家を継ぐ(本因坊秀哉)と、雁金は坊門を去った。一方の方圓社では明治四十年に当時の社長巌崎建造と中川亀三郎(二世、旧名石井千治)が対立して中川が脱退し囲碁同志会を開いた。喜多文子はこのとき、中川とともに同志会に拠るのであるが、この同志会は関西の井上因碩(家元四家の一)や新鋭の瀬越憲作らも参加することとなり、たちまち方圓社を凌駕する勢力となった。
 大正元年には、巌崎建造の引退により同志会の中川亀三郎が方圓社に返り咲いて社長となるが、やがて運営に行きづまり、社長の座を広瀬平治郎に譲る。しかしその広瀬も、大正十一年に方圓社の丸ビルへの移転計画をめぐる資金調達の失敗から病に倒れ、それを契機に中堅の瀬越憲作や鈴木為次郎、雁金準一、高部道平らが裨聖会を設立することとなった。
 実力派の棋士を失った方圓社は、永年にわたり対立してきた坊門と合同して中央棋院を設立する。喜多文子はこのとき、中央棋院に属することとなったが、その中央棋院も金銭上のトラブルからわずか半年で坊門と方圓社側との対立が起こり、方圓社側が本因坊を中心とする中央棋院を追い出す形で、再び分裂した。この際、どのような経緯からか、喜多文子は中央棋院に残った。かくして、棋界は中央棋院、方圓社、裨聖会の三派が鼎立することとなった。時に大正十二年五月である。
 棋界の統一の機運は、その四ヶ月後に起こった関東大震災が契機となった。元来経済的に豊かではなかった中央棋院と裨聖会にとって、震災による打撃は致命的であり、このことから棋界の大同団結の必要性が叫ばれ、方圓社をも巻き込んだ棋界統一の機運が湧き起こった。これを経済的に支えたのが、大倉財閥の大倉喜七郎である。大倉は日本棋院発足に際し、土地建物一切を提供したほかその設立資金を負担し、かつ棋院の副総裁に就任(総裁は牧野伸顕)して棋界統一の最大の功労者となった。
 この日本棋院設立に際し、中央棋院に残った喜多文子は、方圓社の中川亀三郎らをはじめ、裨聖会の瀬越憲らとの人的つながりを活かして、大同団結に至る接着剤としての役割を果たしたという。また、大倉喜七郎が喜多文子を贔屓にしていたことも大きな要素であったといわれる。昭和の碁聖と呼ばれる天才棋士呉清源は、日本棋院設立に当たっての喜多文子の功績を高く評価し、日本棋院に大倉喜七郎と本因坊秀哉の胸像はあっても喜多文子の胸像がないことを、「日本棋院の怠慢」とまで言い切っている。
 日本棋院創立後、喜多文子は現役を退き、後進の女流棋士育成に努めた。門下に、女流の現役最高段の杉内寿子八段がいるほか、退役棋士に鈴木津奈五段、大山寿子五段、神林春子四段がいる。また、現役の楠光子七段、菅野尚美三段は杉内寿子八段門下であり、喜多文子にとっての孫弟子に当たる。さらに、物故棋士の伊藤友惠七段は喜多文子の愛弟子であったが、その伊藤の孫弟子には現役タイトルホルダーの依田紀基碁聖(平成十七年十一月現在)がおり、喜多一門の勢力の重みを感じさせる。
 昭和十三年、六段。昭和二十五年五月十日逝去、七十六歳。日本棋院から七段を追贈された。昭和四十八年には名誉八段を追贈されている。
 夢野久作の著作に、未完の伝記「喜多文子」がある。現存する久作日記の最後の日付は昭和十年十二月十四日、そこには「残つてゐる俗用は、川原花本の始末、白骨標本、喜多文子訪問」と書かれている。おそらくは、伝記執筆のための訪問予定だったのであろう。

《補註1》
 この対局が始まったときには、本因坊秀哉はまだ本因坊家を継いでおらず、田村保寿七段であった。
《補註2》
 田村保寿を本因坊秀栄に結びつけたのは、朝鮮から亡命していた革命運動家金玉均である。李氏朝鮮のエリート官僚であった金玉均は、清の属領であった祖国の独立を目指し、明治十七年、日本公使館の援助のもと、清の後押しで政権を握る閔氏を倒して政権を奪取したが、閔氏の残党の要請を受けた清国軍の反撃に敗走し、日本に亡命していた。日本滞在中は頭山満や来島恒喜、的野半介ら玄洋社員、福沢諭吉、犬養毅などの庇護を受けた。亡命は十年にも及んだが、明治二十七年三月、頭山らの反対を押し切って上海に渡った金玉均は、その地で刺客によって射殺された。

参考文献
●「明治の女性たち」島本久恵・みすず書房・1967
●「囲碁界の母・喜多文子」中山典之・日本棋院・2000
●「囲碁百年」安永一・時事通信社・1989
●「囲碁の日本棋院公式ホームページ」http://www.nihonkiin.or.jp/