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久作関係人物誌



金杉英五郎(かなすぎ・えいごろう)
金杉英五郎は、久作の異母妹瑞枝の夫であった金杉進の叔父に当たる人物である。
 慶応元年(1865)七月十三日千葉県に出生、帝国大学医科大学を卒業後ドイツに留学した。同じ時期にドイツに留学していた人物に八歳年長の後藤新平がいる。明治二十五年に帰朝して高木兼寛が経営していた東京病院に耳鼻咽喉科医として勤務、併せて現在の東京慈恵会医科大学の前身である東京慈恵医院医学校で耳鼻咽喉科の講座を受け持った。同年十二月、日本橋久松町に東京耳鼻咽喉科医院を開業、翌年二月には日本耳鼻咽喉科学会の前身である東京耳鼻咽喉科会を設立し、「耳鼻咽喉科雑誌」を刊行するなど、本邦における耳鼻咽喉科医の草分け的存在であった。
 東京慈恵会医科大学は、海軍軍医であった高木兼寛が設立した成医会講習所がその基礎となっているが、高木の死後大正十年十月に財団法人東京慈恵会医科大学の設立が許可された際に、金杉英五郎が初代学長に就任している。
 また日本消化器学会は明治三十一年に創設された「胃腸病研究会」が発展したものであるが、金杉はこの研究会発足の際にも名を連ねているほか、大正三年に東京で開催された第三回日本医学会総会には準備委員長として、大正七年の同総会には副会頭として運営に関わっているなど、明治大正期の医学界の重鎮の一人であった。
 政治との関わりも深く、明治三十五年に設立された同仁会の発足にも関わっている。同仁会とは、近衛篤麿や岸田吟香らが運営していた大陸政策の拠点である東亜同文会の医学版といった性格を持ち、我が国が東洋の盟主として隣邦に対し医学的援助を行うことを目的とし設立されたものであり、会長に東亜同文会副会長の長岡護美を据え、東大教授や財界人、官吏などがその役員に就任している。官吏の中には、杉山茂丸と親交の深かった山座円次郎(当時外務省政務局長)の名も見られる。金杉自身も、大正十四年から十年間にわたり理事を勤めている。
 一方で、大正六年に東京市から衆議院議員に当選、大正十一年には貴族院議員に勅撰されるなど、政界にも進出した。政治家としての金杉英五郎は、議会において繰り返し衛生行政の立ち遅れを指摘し、その推進を求める趣旨の質問を行っている。
 明治四十二年一月二十日の東京朝日新聞には、当時の宮内大臣田中光顕が、齢六十七歳にして二十一歳の小林孝子と結婚する予定と報じ、この縁談を取り持った人物として金杉英五郎の名が登場している。然るに、その記事から一週間も経たぬ一月二十五日の記事では、小林孝子が金杉英五郎の情婦であると報道し、金杉を「貴顕紳士の高等幇間にて病院はほんの飾り看板のみ彼は従来車夫馬丁の徒も尚能くせざる醜事を敢てして憚らざりし男」と罵倒して、さらに「孝子と密通するや忽ち一策を案出し田中宮相が女と見れば目のなきに附け込み昨年十一月初旬孝子に策を授けて病院内の一室にて巧に宮相を手に入れしめたるなりされど其後とても両人の醜交は依然継続せられ旧臘本郷座に家庭学校慈善演芸会の催されし時の如きは両醜相携へて見物に出掛けたることありかくて英五郎は己れのお古を宮相に献納し且多大の成功金をせしめんとの魂胆なるは金杉医院の医員薬局一人として知らざる者なく何れも金杉に対して美人局院長の尊号を上つり居れり」と痛烈に続けている。ことの真偽はともかく、この報道の結果として田中光顕は宮内大臣罷免の憂き目を見た。この一件については、後に金杉自身が、随想「田中青山伯と拙者」において「雑輩の虚構捏造にかゝる小説的記事を不徳なる新聞紙上に記載せられ」云々と書き記している。
 金杉英五郎の甥と杉山茂丸の娘が結婚するに至った経過は未詳であるが、一又正雄の研究によれば、金杉と杉山は刀剣愛好の趣味を一にしていることや、茂丸自身が医学界に対しては援助を惜しまなかったことからの縁であろう。また、茂丸の次女たみ子が嫁いだ石井俊次もまた耳鼻咽喉科医であり、その結婚の際には金杉が媒酌人となったというが、石井と金杉の関係は不明である。杉山茂丸が、死後その遺体を医学向上のため献体し、骨格が東大に現存することは有名だが、献体を斡旋したのも金杉英五郎である。
 金杉英五郎が書き残したものを読むと、その思想は国家主義に近しいものがあったと思われる。性格は剛直にして義侠心に富むといわれ、いかにも杉山茂丸と肝胆相照らすべき人物であったろう。
 その杉山、金杉に加え、後藤新平と実業家の加藤正義の四名が茶の湯を巡って一騒動起こしたエピソードが白崎秀雄の「鈍翁・益田孝」に紹介されている。大正十二年の一月という。その前年師走に岩原謙三(三井物産常務から東京芝浦電機社長、益田孝の部下であり茶の湯の門下でもあった)の茶会に招かれたこの四名が、岩原の接遇に不調法ありと称して、やはり茶人で益田門下の高橋箒庵に書状を送りつけて岩原の贖罪の判事役を要請した。もとはと言えば誤解に基づく不手際であったものを、益田孝の茶目っ気によって、岩原が茂丸らを茶客とは扱っておらず単に昼飯を供するに過ぎないと発言したことが四名の耳に達し、騒動が大きくなった挙げ句の書状であって、白崎によれば「大人の遊び」に過ぎない戯れごとであるが、その書状中の一項がふるっている。曰く「もし謙庵(岩原の雅号。筆者注)にして右の要求に応じないならば、原告一同は謙庵邸に押しよせ、茶席を借用して逆に謙庵を招待する。その際悪意によらざる過失により、道具の損傷または露地庵室の踏み荒し等については、謙庵は不問に付すること」。箒庵の斡旋によって岩原謙三が茂丸ら四名をあらためて茶席に招いたことは言うまでもない。
 なお、金杉英五郎は本邦の資本主義の父とも呼ばれる渋澤栄一の閨閥の一角を構成している。渋澤栄一の三女ふみが東洋生命社長の尾高次郎に嫁いでもうけた娘雪子が、金杉の次男台三に嫁したものである。
 漢詩に長け、また書を能くした。国史にも造詣が深く「赤穂事件の検討」という著作も遺している。昭和十七年一月二十六日、肺炎により世を去った。

参考文献
●「極到余音」西山信光編・大空社・1998
●「杉山茂丸 明治大陸政策の源流」一又正雄・原書房・1975
●「朝日新聞の記事に見る恋愛と結婚 [明治・大正]」朝日新聞社編・朝日新聞社・1997
●「鈍翁・益田孝」白崎秀雄・中央公論社・1998
●「東京慈恵会医科大学ホームページ」http://www.jikei.ac.jp/
●「同仁会研究」丁蕾・http://www.hum.ibaraki.ac.jp/hum/chubun/mayanagi/students/98ding1.htm
    (このサイトは現在閉鎖されている。)
●「週間医学界新聞」http://www.so-net.ne.jp/medipro/igak/04nws/index.html
    (このサイトは現在閉鎖されている。)
●「日本医学会の概要」http://square.umin.ac.jp/isoukai/text/gakkai.html
●「日本耳鼻咽喉科学会史」http://www.jibika.or.jp/njbhistory.html
    (このサイトは現在閉鎖されている。)
●「門閥 旧華族階層の復権」佐藤朝泰・立風書房・1994