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久作関係人物誌




高橋ホトリ(たかはし・ほとり)
その女の人は、若く、美しい女の人で、大きなつややかな丸髷を結うていて、温い背であった。そして、襟足の美しい人であった。博多駅は、博多で、一番大きな煉瓦の建物で、中央に大きな時計塔があって、そこにあがる、花火が美しかった。花火があがる度に、その女の人の丸髷のつややかな髪に、光が、赤や白や、青い色が映えて、美しかった。そして帰るとき、その時計塔の上から、大きな、大きなお月様があがって来た。それは、それは、大きな、大きな、丸い、丸いお月様であった。
 それで、俺が思わず、
『あっ、ぱんぱんしゃん』
というと、その女の人は、突然、びくっと、身をふるわして、むせび泣きを始めた。
上に引用したのは、夢野久作が生前、長男龍丸に語ったという記憶の断片である。久作が二歳のとき、博多駅の開通式に、誰か女性の背におぶわれて連れて行かれた際の記憶であり、龍丸はその女性を、久作の生母、高橋ホトリであったのだろうと推測している。
 久作の生母である高橋ホトリは、旧福岡藩士で馬廻組三百石を領していた大島義賢の長女に生まれた。生年月日は未詳であるが、享年六十五歳であったと推定されることから、茂丸とほぼ同年頃の出生であったのだろう。ホトリは女子師範学校を出て、美術の道に進むことを望んでいたといわれるが、杉山茂丸の継母トモ(友子とも表記される)の懇請により、明治二十年頃、茂丸と結婚した。
 当時の茂丸は頭山満の股肱として、福陵新報の創刊や安場保和の担ぎ出し、炭坑の採掘権の取得などに奔走していた頃であり、その茂丸を落ち着かせる意図を持って、継母のトモが大島家に泊まりがけの談判をしたのだという。
 夫婦仲は睦まじかったといわれ、明治二十二年には長男直樹(のち泰道と改名、夢野久作)が誕生するが、間もなく、茂丸が国事に奔走しているあいだに離縁された。姑であるトモからことづかった書状を、実家の大島家へ届けたところ、その書状は離縁状であったと伝えられる。離縁の理由は、家風に合わないことであったといわれているが、詳細は不明である。杉山龍丸は、女子師範学校を出て漢学の素養もあるホトリと、藩校の助教であった舅の三郎平、その父の薫陶を受けた茂丸の三人には共通の話題があり、ひとり姑のトモのみはさしたる学問もなかったことが、離縁の遠因である可能性を指摘しているが、同時に、後年久作が実母ホトリと再会し、なぜ自分を捨てて家を出て行ったのかと尋ねたとき、ホトリが「それは、あんたのお祖母さんに、ききなさい」とだけ答えたというエピソードをも書き残している。
 杉山家を去ったホトリは、福岡日々新聞社に勤務していた高橋群稲(たかはし・ともね、宗硯と号した)に再嫁し三児をもうけた。高橋群稲は、日清戦争の際には広島大本営に特派されるなど記者として活躍する傍ら、小説をも執筆していた。のち高橋群稲は福岡日々新聞社から安川敬一郎・松本潛兄弟の支配人に転じたが、明治三十一年十一月に早逝した。ホトリは一旦大島家に戻ったが、その後望まれて安川家の寮母となったという。晩年は高橋との間に生まれた長男が勤務する豊国炭坑の社宅で暮らしていた。
 久作は小学校に入学した際、ホトリの実家の大島家に挨拶に行っているし、修猷館中学在学中にはときおりホトリに会っていたといわれる。いつ頃自分の生母の存在を知ったのか、いまでは知るよすがもないが、おそらく母と息子との対面は、父茂丸や、嫉妬深かったと伝えられる継母幾茂らの目を気にしながら、ひっそりと営まれていたのであろう。
 昭和三年九月六日の久作日記には「五番町大嶋ニ行き、大島駿氏の霊を訪ひ、未知の伯母に会ふ。高橋母、中風なりと(六十五才)清一夫婦孝行すると」とある。五番町大島とは、ホトリの生家大島家のことであり、大嶋駿(驍《たけき》の誤りか?)とはホトリの弟であろう。
 その年十二月十九日、香椎の杉山農園に一通の電報が届いた。高橋ホトリの息子、すなわち久作の異父弟からの、ホトリの危篤を伝える電報であった。福岡で謡曲の稽古をつけていた久作のもとへは電話が入る。直ちに久作は帰宅した。その日の日記。
下弦月、青黒の空に冴え雲に入る時利刀の如く、雲を出づる時氷片の如し。寒気、衣を透して慄然。
翌朝、久作は豊国炭坑に向かった。直方までは汽車、そして車を飛ばして豊国第二坑のホトリの住居へ。到着したとき、ホトリに意識はなかった。その時の様子を、杉山龍丸は次のように書き記した。
 夢野久作が高橋家に到着したとき、生母の高橋ホトリは既に昏睡状況になって意識がありませんでした。
 この様子を見た夢野久作は、家人の制止するのも聞かず、その枕頭に座って、謡曲を謡い始めました。
 揮身の力を籠めて、夢野久作の謡う能楽の謡曲は、その社宅のみならず、そのあたりに響き渡りました。
 人々は何事ならんと集まって来ましたが、彼があまりに真剣に謡っているので、皆固唾を呑んで見守っていました。
 その内、ふと高橋ホトリは眼をあけて、あたりを見廻すように、眼球を動かしました。
 その様子を見た夢野久作は、すかさず、ホトリから見えるように座を彼女の胸のところへ顔が見えるように移し、
「お母さん! 直樹ですよっ! 直樹がお傍に来ていますよっ! 分かりますなっ! お母さん!」
と呼びました。
 すると、ホトリはかすかにほほえんで、うなづいたということです。
意識を回復した母の姿に安心したのか、久作のその日の日記には「オモウタホドナシ、モヤウミルと妻に電打つ」と記された。そして、その末尾には次のような記載がある。
(ホトリキトクミマイニユクオユルシヲコフ)
電報の内容を書き留めたこの一文、「ホトリ危篤、見舞いに行く、お許しを請う」であろう。誰に当てて打電されたのかは言うまでもない。東京にいる茂丸と継母幾茂に相違ない。実母の死に際を見舞うのに、許しを請わねばならない相手とは、久作にとってはその時の両親(と呼ばねばならない二人の人物)以外にあり得ない。
 その日は高橋宅に一泊したのであろう。翌朝久作は香椎に帰った。母の容態に安堵したのか、それとも覚悟を決めたのか、その日と翌日の久作の行動は、常と変わるところはない。謡曲の稽古をつけ、碁を打つ。
 そして、ホトリの危篤を知らせる電報を受けてから四日目の十二月二十三日。日記にはこう記された。

 高橋母訃と、父の電、同時に──。鞍山両親へ手紙書く。

   ◇遭ふて又別れし夢の路の霜
     あかつきとほき名残なりけり

父の電とは何だろう。おそらくそれは、二十日に打電した「許しを請う」た電報への返電であろう。その内容は記されていない。「許す」であったのか、それとも──。
 翌二十四日には「安川氏に、母世話になりし事、礼状出す」とあるが、通夜や葬儀への参列の記述は一切ない。淡々とした日常が続くばかりである。おそらく、久作は生母の死を見送ることをしなかった。それは久作の自発的意志によるものなのか。或いは、前日届いた父茂丸からの電報に何らかの理由があると考えるのは邪推であろうか。
 夢野久作と実母ホトリとは、かくも儚い結びつきであった。
 久作の実人生にホトリが与えた影響は、皆無ではなかったであろうが、それは父茂丸や、久作廃嫡の動きがあったと伝えられる継母幾茂のそれとの比ではない。それゆえ、久作の文学作品におけるホトリの影についても、これまで正面から論じられることはなかった。
 しかし、その影は長短の代表作「ドグラ・マグラ」と「押絵の奇蹟」にはっきりと現れている。
「ドグラ・マグラ」においては、私=呉一郎は正木博士の心理遺伝の実験台にされようとしている。そして一郎の母、呉千世子は実の息子を実験材料にしようとする正木から一郎を守るため、人目につかぬよう市中に隠棲する。恐るべき父親である正木の存在は、久作の父茂丸の存在をイメージさせ、そして呉一郎にふりかかった精神病院をめぐる陰謀は、久作の継母幾茂による久作廃嫡の動きという実体験を通じてもたらされたモチーフであると理解されている。だが、呉一郎を久作自身の投影とみなすのであれば、呉千世子は生母高橋ホトリの生涯が投影されたキャラクターとみなさなければならない。夫、子、そして自分自身という三者の間で苦悩し、終には非業の死を遂げる千世子の薄倖の人生は、高橋ホトリが自らの人生をどのように観じていたかは別として、久作にとっての母ホトリの人生そのものであったに違いない。
 一方「押絵の奇蹟」にあっては、書簡の形態を採った物語の語り手は女性であり、久作自身を投影したキャラクターとは直ちにはみなしがたいものの、語り手である井ノ口トシ子の母もまた、不義を疑われ、夫の手にかかって非業の死を遂げる薄倖の女性であった。
「トシ子だけは、おゆるし下さいますように……。それは正《まさ》しくあなた様の……」
 と叫びながら、トシ子を抱きしめたまま刀で突き殺されるその姿は、呉一郎を守ろうとして転居を繰り返す呉千世子を髣髴させる。
 この小説において、不義の子と呼ばれるトシ子は、書簡の名宛人であり、相思相愛の恋人である歌舞伎役者中村半次郎こと菱田新太郎の父、中村珊玉(半太夫)と瓜二つであり、中村半次郎はトシ子の母に瓜二つである。こうした設定がこの作品を、やはり久作の代表作である「瓶詰地獄」と同様、兄妹相姦を主要モチーフにした小説であるとの理解に導いて来た。しかし、生母に瓜二つの中村半次郎に思い焦がれるトシ子とは、薄倖の母を恋うる久作の姿そのものではないか。まして、中村半次郎が女形に擬されている点において、両者の性は転倒しており、トシ子の感性はそのまま久作の感性に直結されるのである。
 久作文学における生母高橋ホトリの存在は、杉山茂丸という巨大な存在の陰に隠れて、その生涯を象徴するように姿を潜めている。しかし、その存在を前提として、久作の諸作品が読み返されなければならない。

参考文献
●「西の幻想作家」杉山龍丸・雑誌「九州文学」通巻396号〜414号に連載・1978〜1979
●「わが父・夢野久作」杉山龍丸・三一書房・1976
●「夢野久作の生涯」西原和海・雑誌「ユリイカ」第21巻1号所載・1989
●「西日本新聞社史」阿部暢太郎・西日本新聞社・1951