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久作関係人物誌




星一(ほし・はじめ)
星一は明治末から大正期にかけて製薬王と称された実業家であり、杉山茂丸の門下生とでもいうべき人物であった。明治六年十二月二十五日、福島県磐城郡に出生。幼名を佐吉という。父親は喜三太、村長や郡議会議長などを務めた知識人であった。
 授業生養成所を卒業後、しばらく県下で教員を勤めた後、渡米の志を胸に上京して東京商業学校に入学。この頃、ともに英語を学んでいた友人に杉山茂丸の甥であるという安田作也がいたことから、茂丸の知遇を得たものと考えられるが、杉山茂丸の「百魔」には星の父親とも面識があった旨の記載があるから、或いは父親と茂丸との関係からの知遇であったのかも知れない。
 明治二十七年に東京商業学校を卒業した星は、渡米前に古書の行商などをしながら、三ヶ月にわたり関西から九州を遊行し、遂には沖縄にまで足を伸ばした。この時、元東京商業学校校長で当時大阪朝日新聞主筆であった高橋健三夫妻に世話になっている。
 帰京後、星は渡米し、サンフランシスコで安田作也と再会。杉山茂丸の表現を借りると「安田と共に二人連で夜逃げをして米国に渡航し」たということであるが、大山恵佐の伝記では星の渡米は計画的であり、高橋健三からサンフランシスコ総領事の珍田捨巳に宛てた紹介状も携えていたし、また安田作也とは別行動であったようだ。その安田は、星がコロンビア大学入学のためニューヨークへ行くに当たり、それまで星が働いていたアペンジャー家のボーイの後任となったが、間もなくガス中毒事故で死去したという。安田作也と杉山茂丸との関係は、大山恵佐の伝記に甥とある以外、茂丸の「百魔」に「庵主が曾て八九歳の頃より育てた」と記されているだけで、詳細は判らない。安田姓で甥というのなら、茂丸の異母妹、薫の子であろうか。
 この安田との再会のとき、鹿児島県人の安楽栄治と知り合う。後年、米国にあっては「ジャパン・アンド・アメリカ」誌の経営に、帰国後は星製薬の経営にと、三十年にわたり星と苦楽をともにすることとなる人物である。
 さて、渡米した星一は、サンフランシスコで職を転々としながら英語の勉強をし、前述アペンジャー家のボーイを一年余勤めた後、ニューヨークへ移りコロンビア大学に入学した。星は苦学しながら統計学を学び、在学中に新聞「日米週報」、雑誌「ジャパン・アンド・アメリカ」を創刊する。この頃、後に微生物学者として名を馳せることとなる同郷人、野口英世と知り合っている。また同じ頃、新渡戸稲造とも知遇を得ている。
 コロンビア大学卒業の年、すなわち明治三十四年、星一は折から渡米した杉山茂丸をニューヨークのフィフス・アベニュー・ホテルに訪ね、再会を果たした。茂丸の滞在中、なにくれとなく面倒を見た星を、茂丸は同時期に米国に滞在していた元老伊藤博文に紹介している。なお、明治三十四年の杉山茂丸、伊藤博文の渡米とは、前者は桂太郎首相の内意を受けた外債引受交渉のための渡米であり、そこには来るべき日露戦への布石が意識されている。後者は日露戦回避のため、日露同盟を締結すべく渡欧の前の米国滞在であった。すなわち茂丸がその著書「俗戦国策」に書き残した日英同盟の裏面秘話、伊藤をして日露戦の戦死者第一号に仕立て上げる謀略の最中であったのだ。この後、伊藤はロシアとの間に同盟交渉を開始するが、伊藤不在の間隙を縫って桂内閣は電光石火日英同盟を締結、伊藤は面目を潰し、政局は日露開戦に向けて大きな一歩を踏み出したのである。
 明治三十五年、星一は雑誌経営に苦心し、資金調達のために一時帰国。杉山茂丸に相談を持ちかけ、その紹介で台湾総督府民政長官の地位にあった後藤新平を知る。後藤の好意によって五千円の資金を得た星は、米国に戻る前に後藤に伴われて台湾へ渡った。星一と後藤新平、そして台湾。星の人生を語る上で欠くことのできない転機であった。
 星一が滞米生活を打ち切って帰国したのは明治三十七年、日露戦争の年であった。翌年末、第二次日韓協約締結、韓国統監府が設置され、その初代統監に就任した伊藤博文の誘いを受け、星一は韓国に渡る。しかし官吏になることを欲しなかった星は、三ヶ月で帰国した。このとき、後に首相となる広田弘毅と知己となった。
 韓国から帰国した星は、自ら事業を始めることを決心し、その対象として製薬業を選んだ。偶々湿布薬のイヒチオールの研究をしていた友人から、研究資金四百円と引き替えに研究成果を譲るとの話がまとまったことがきっかけとなったという。
 星一が製薬会社を創業し、イヒチオールの製造によって実業界に成功を得るに際しては、痛快無比の逸話がある。ある日、向島の杉山茂丸邸を星が訪れ、イヒチオールの製造を事業として始めたいが資本調達に難渋しており、杉山にその支援を乞うたという。茂丸は幼年時より面倒を見てきたこの門弟を、冷たく突き放した。曰く「薬の研究は自分でして、資本の工夫は自分ではせぬのか」、曰く「人間の依頼心は、自殺以上の罪悪である」、曰く「そんな筋違の事をして君は尚ほそれを事業と思ひ、かつその事の成立を成功と思ふか」。星は一言もなく、自身の不明を詫びて退出しようとしたのだが、そこに居合わせたのが、当時杉山邸に居候をしていた伯爵後藤猛太郎である。
 この零落した維新の元勲の嫡男は、星に対する茂丸の冷淡な態度に苦言を呈するとともに、星の事業に対して資本を提供することを申し出る。もとより、茂丸の屋敷に居候を決め込んでいるくらいだから、後藤猛太郎伯に金があるわけがない。それどころかこの伯爵は、借金三十六万円と妾一人を抱えて、茂丸のところに転がり込んで来たのであった。星が資本提供を約束されて喜色満面で帰ったあと、後藤伯は徐ろに茂丸に切り出した。以下は「百魔」から、二人の問答を抜き書きしたものである。
「おい君、君の印判はどこに有るか」と云ふから、
「その笊の中に有が何にするか」
「いや借るのぢゃない盗むのぢゃ。星のイヒチョールの資本に、此家を抵当に入れるのぢゃ。君は平生泥棒の逃げ込んで来たのまで引受けて世話を焼いた揚句の果に、其奴に泥棒をされても悔ゆる事を知らぬ男である。あれ程可愛い星が成業を助くるに、此家が惜い訳はない。殊に僕も事業に就くのぢゃ。況んや名乗掛けて泥棒をするのぢゃ。世の中に承諾を得た泥棒程安心なものはない。さあさっさと印判を出して呉れ」
この奇想天外な問答が功を奏したか、星はイヒチオールの事業化に成功する。それが明治三十九年頃のこと、明治四十一年には郷里福島県の有力者に推されて衆議院議員選挙に立候補し、見事に当選している。星一、弱冠三十六歳であった。
 国会に議席を得たことで、星はやはり議席を保持していた北浜銀行頭取の岩下清周や、後に大蔵大臣を務める片岡直温らの知遇を得、それらの人々の支援を得て事業を拡大した。即ち明治四十四年、星製薬株式会社の誕生である。星製薬は、社長である星一のアメリカ仕込みの独特な経営感覚で、我国初のチェーンストア方式を生み出し、全国に特約店を網羅してめざましい飛躍を遂げた。また星自身が陣頭に立って特約店教育を実施し、それは後に星製薬商業学校という教育機関に発展し、更に現在の星薬科大学として結実したのである。
 星製薬の本社は、大正四年から京橋に建築された鉄筋コンクリート造四階建てのビルにあった。当時、銀座日本橋界隈で最も高層の建築物であったという。更に大崎に建築された工場は、その時代の最新鋭の自動化装置が設置され、また現在の製薬業界では当然のことであるが、工場内の空気洗浄をいちはやく取り入れるなど、衛生対策にも万全を期した模範的な工場であった。一方、星は従業員の福利厚生においても先駆者であった。大崎の工場内には診療所を設けて從業員の健康管理に当たらしめ、女性従業員のためには幼稚園を設置して女性の就業を易からしめ、更には從業員のための保養所の建設、社宅の建設と、大正年間という時代を考慮すれば実に途方もない福利厚生制度を実現している。
 それだけのことができるほど、星製薬の業績は順風満帆であったと言えよう。しかし星自身は、自らの利欲を顧みなかった。事業の発展とそれによってもたらされる社会への貢献ということに、星の全精力が費やされていた。後述する阿片事件の際、警察が家宅捜索のため星の住まいを訪れたとき、小さな古家の星の住居をそれと気付かずに、偶々隣家であった星光(明治期の代議士で憲政党の領袖であった星亨の嫡子。星亨は衆議院議長や逓信大臣などを歴任した当時の政界の実力者であり、杉山茂丸とも親しかった人物であるが、明治三十四年に刺殺された。)の屋敷を星一の屋敷と誤ったというエピソードが残されているように、自分自身の財産形成などということは歯牙にもかけていなかった。五十歳を過ぎるまで妻帯もせず、ひたすら事業に打ち込んでいたのである。その社会貢献という思想は、第一次世界大戦後、荒廃したドイツの科学研究に対し、莫大な額の寄付を行い、その後星の事業が凋落の途を辿った際にも、ドイツ科学界に対する援助は継続したことからも実証されている。
 星製薬が、その命運を決することとなったアルカロイド製品の研究に着手したのは大正3年のことであった。その背景には、我国の台湾統治と、台湾における民政を司った後藤新平の存在があった。
 後藤新平は明治三十一年に台湾総督府民政長官(就任当時の官名は民政局長)に就任した。日清戦争後の下関講和条約を受けて台湾が日本に帰属して以来三年、台湾島内ではまだ頻繁に反乱が起こり政情が安定しない時期の就任であった。知将の名をほしいままにした児玉源太郎台湾総督の下で、後藤新平が打ち出した様々な政策のひとつに、阿片漸禁政策があった。当時約十七万人もの阿片常用者を如何するかは、台湾統治上の大きな課題であったが、後藤はこれに対し、新たな中毒者の発生を予防する傍ら、常用者に対しては総督府の管理下において阿片の販売と購入を認める政策を打ち出したのである。当時日本において阿片を製造する事業者はなく、専らインドやペルシャなどから輸入するのみであった。折から欧州において第一次世界大戦が始まり、阿片の輸入に支障を来し始めたとき、星はモルヒネの抽出に成功し、台湾の阿片専売局から粗製モルヒネの払い下げを一手に引き受けることとなった。前述した星と台湾、そして後藤新平というトライアングルが動き出す嚆矢である。
 星は続いて、キニーネやコカインの製造にも成功し、アルカロイド薬品の製造に関して、国内の製薬業界を主導する地位を得ることになる。更に星は、台湾の専売局への生阿片納入についても、大財閥の中核企業である三井物産と争ってこれに勝利するなど、製薬のみならず我国実業界の風雲児たる地歩を確立し始めていたのである。
 そのとき、謀略が始まった。阿片事件である。
 大正十年夏という。その二年前に国際的な阿片相場が下落していたとき、星が台湾総督府の阿片専売局長とも相談の上、大量に買い付けて横浜の保税倉庫に保管していた原料阿片に対し、税関から即時処分の通知があった。星は官庁を駆けめぐり、買い付けの経過は役所とも十分相談の上のことであったことを説いて回ったが、命令は撤回されなかった。やむなくロシアの商社に売却することとしたのだが、現物をロシアに運搬する際、小樽水上警察によって阿片が差し押さえされるという事態になった。これが新聞で報道される事態に至り、企業家としての星の名声、企業としての星製薬の信用に、まず最初の傷が負わされることとなった。
 この一件が火を噴くのは大正十四年である。官庁と相談の上で原料阿片を買い付けて、官庁の指示によりやむなくロシアの商社に売却したというその行為が、阿片令に違反するとの理由で、星が起訴されたのである。前述した星に対する家宅捜索は、この起訴の前提として星が台湾の捜査当局に出頭を命ぜられて不在の間隙を縫っておこなわれたものであった。
 これ以降、金融機関は波が引くように星製薬に対する融資の途を閉ざした。企業の生命線たる金融が閉ざされたとき、その企業が生き残る術がないことは言うまでもない。さらに星は、芝義太郎という乗っ取り屋と関わることとなり、芝の陰謀によって破産宣告を受ける。続いて事実無根の贈賄容疑による収監、さらに労働争議と、星一は立て続けに困難な問題に吹き曝されることとなる。この激動の間に、米国在住時以来の盟友で星の片腕であった安楽栄治が病死するという衝撃もあった。
 阿片事件による裁判は二年後に最高裁で星の無罪が確定したが、その後の事態を強制和議という形で星が収拾し得たのは、結局昭和八年九月のことであった。失われた名声と衰退した事業が恢復するには、あまりにも永い歳月が過ぎていた。
 星はなぜ、このような事態に陥ったのか。そこには政権を巡る謀略が存在したと言われる。既述のように、星は明治三十五年以来、後藤新平と昵懇であった。当時台湾総督府民政長官であった後藤は、その後初代の満鉄総裁となり、明治四十一年に第二次桂太郎内閣で逓信大臣として入閣、鉄道院総裁を兼任した。大正元年十二月の第三次桂内閣にも同ポストで二度目の入閣、大正五年には寺内正毅内閣の内務大臣、同七年には外務大臣と、政府の枢要なポストを歴任して将来は自ら内閣を率いることが確実視されていた。この後藤の政敵が、大正十三年に内閣首班となった加藤高明である。後藤と加藤は、もとは桂太郎が結成した立憲同志会に集った関係であったが、後藤は官僚出身の政治家、加藤は政党政治を目指すものとあって、自ずと肌合いは相違していた。桂の死後、後藤は政党の目指すところを批判して脱党、政党政治家を排除した寺内超然内閣の内相として、立憲同志会が発展して加藤高明が総裁となっていた憲政会を叩くべく辣腕を発揮するに至っては、後藤と加藤との対立は抜き差しならぬ局面まで至ったのも道理であったろう。しかし寺内内閣が倒れ原敬率いる政友会が政党内閣を実現して以来、後藤新平の如き官僚系政治家が政権を担う時代は既に落日を迎えていた。時代の流れは大正末に至り、後藤ではなく政党人の加藤高明をして内閣首班の地位を掴ましめたのである。
 そこに星一の悲劇があった。加藤が率いる官憲は、星製薬をその政敵たる後藤新平の有力な資金源と見なし、後藤の外堀を埋めるべく、無辜の星製薬に様々な迫害を加えたと言われる。その成果が上々のものであったことは言うまでもない。後藤は大正十五年に病を得て再起能わず、星は壮年期から寝食も忘れて育て上げた事業を再興できなかったのである。
 この阿片事件の渦中にあった大正十四年に、星一は妻帯する。妻は東京帝大で解剖学の教授であった小金井良精の次女、せいである。小金井良精の妻は喜美子、森鴎外の妹であったから、星一の妻は森鴎外の姪にあたる。星一、そのとき五十二歳。、翌年出生した第一子の長男親一(星製薬のモットーが『親切第一』であったことからの命名である)は、長じて星新一の名でSFショートショートという分野を開拓することとなる小説家となった。
 星新一が著した父の伝記ともいうべき「人民は弱し 官吏は強し」の新潮文庫版には、鶴見俊輔が解説を書いている。ここで鶴見は、「あきらかに星一氏は、兄貴分をまちがってえらんだのだ。そのために、加藤高明ひきいる官僚閥と財閥にさんざんいためつけられた」と述べている。兄貴分とは即ち後藤新平である。後藤新平の娘は鶴見祐輔に嫁ぎ、その子が鶴見俊輔である。ここで鶴見がいう間違って選んだ「兄貴分」とは、当の鶴見の母方の祖父にあたる。諧謔的な味わいのあるこの解説は、鶴見の「負け犬」となった祖父に対するオマージュとしての意味合いもあったのかも知れない。因みに、後藤新平の岳父は安場保和であり、安場が福岡県知事となるに際しては杉山茂丸の尽力があった。さらには、一探偵小説作家に過ぎず、しかも太平洋戦争とともに忘却の彼方に埋もれそうになっていた夢野久作が再評価され、かつ日本文学史においても重要視されるほどの再評価を得るきっかけになったのが、鶴見俊輔が「思想の科学」1962年10月号に発表した「ドグラ・マグラの世界」であったことは感慨深い。
 星一は、昭和十二年に再び衆議院に議席を得、また戦後の昭和二十一年にも当選、翌年の第一回参議院議員選挙全国区に立候補して最高得票で当選している。その間、星製薬の事業が活発であった時代に台湾に植林したキナが、自らの身に降りかかった災厄に忙殺されている内に立派に育っていたことから、キニーネを初めとするアルカロイド事業の再興に希望を燃やし、ペルーに所有していた広大な土地への日本人移民とコカの栽培を目指していたが、その準備のために渡米していた昭和二十六年一月十九日、ロサンゼルスで客死した。

参考文献
●「努力と信念の世界人 星一評伝」大山恵佐・大空社・1997
●「人民は弱し 官吏は強し」星新一・新潮社・1992
●「明治の人物誌」星新一・新潮社・1998
●「祖父・小金井良精の記」星新一・新潮社・1975
●「百魔」杉山茂丸・大日本雄辨会・1926
●「俗戦国策」杉山茂丸・大日本雄辨会講談社・1929
●「杉山茂丸 明治大陸政策の源流」一又正雄・原書房・1975
●「大東亞科学奇譚」荒俣宏・筑摩書房・1999
●「後藤新平」北岡伸一・中央公論社・1997