オレは文字どおり、呆気にとられた。 ついでに呆然とした。 自分の見ているものが信じられなかった。 オレの目の前には和装の女がいる。降りそそぐ明るい陽差しを古びた傘で遮りながら、日本庭園の敷石の上をゆったりとした足取りで移動する女。時折歩き疲れたように足を止め、池の中を遊泳する鯉たちに視線を投げかける。その優雅な佇まい、しとやかな所作は、女が老境にさしかかっていることを雄弁に物語っている。 ──いや、違う。 女は人生の来し方を振り返るように目を細め、遙か山々を遠望する。わずかに曲がった腰には、何人もの子供たちを育て上げた母親の威厳さえ漂っている。女の背中は百万語の台詞以上に、その苦難と波乱に富んだ人生を想起させた。 たかだか三十年へらへら生きてきたオレにさえ、女の生きざまがひしひしと伝わってくるようだ。 ──違う。違うのだ! オレは首をぶるぶると左右に振った。 はっきり言おう。女はまがい物だ。 作り物。贋物。イミテーション。 この女、本当は老女ではない。 しかも和服さえ今日生まれて初めて着たという。オレの後ろで着付けを担当した呉服屋の女主人が息を飲んでいるのがわかる。さっきまで目を吊り上げて和服の着こなしを女に注意していた彼女も、今は信じられないといった顔つきをしているはずだ。妖怪に出会ってもこれほど驚かないだろう。 だいいちさっきからビデオカメラを構えて女を撮影しているオレだって驚きっぱなしなんだから。 女性は化けるとよく言うが、限度ってものがある。彼女は本当に妖怪なのかもしれない。しかも飛びっきりの……。 女はこちらを向いた。そして弱々しく微笑んだ。まるで我が子を慈しむように。オレはぞくりとしながら、ビデオカメラで女の笑顔を撮り続けた。 オレはこの女に出会えたことを、神に感謝……するべきなんだろうか? そもそもオレが女と出会ったシチュエーションからして、とんでもないものだった。 その話をする前に自己紹介をしておこう。 オレの名前は菊池俊郎。大阪出身。つい数ヶ月前に誕生日を迎えて三十路の大台に乗った。だからって特別な感慨はない。たんたんとした波風のない三十年だった。 自分で言うのも何だが、オレは取り柄のない人間だと思っている。一応何にでも興味を示すが、身に付くということがない。結局中途半端で終わるのだ。そんなオレが大学受験の際、選んだのが芸大の映像学科だった。友人はオレにこう言った。 「おまえって映画観てる時だけは別人やな」 そうなのだ。普段は平々凡々としたオレが、こと映画のことになると目の色が変わる。血相が変わる。しかも自覚がないから始末に負えない。 デートで映画を観に行ったとき、上映中のオレの過剰な反応に、女の子は引きっぱなしだった。大声出して笑うわ、椅子を騒々しく軋ませて毒つくわ、服がぐしょぐしょになるほど号泣するわ。場内が明るくなるまで女の子がいたためしがない。そのうち関西のめぼしい映画館のブラックリスト(そんなものがあるのか)に載せられてしまい、ひとり寂しく自宅でビデオを観るしかなくなった。 それほどオレは映画を観ていると、映像の中の世界に没入してしまう。誰しも少しはそんな経験はあるだろうが、オレの場合は半端じゃないのだ。 そんなわけで、高三の進路を決めるとき担任教師が言い放った「勉強して頭を冷やせ!」という言葉に従って芸大に進学したわけだ。単純極まりない話だが、芸大でオレは水を得た魚になった。 |