偽札とラブレター |
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一番電車が走り始めたころ、純平はようやく自宅へと帰り着いた。 図書館では慎一が逃げる時間をかせぐため、最初のうち、警備員相手に、わざと書架の間を鬼ごっこして逃げ回ったが、遠くにパトカーのサイレンが聞こえると、あわてて近くの窓を開けて庭に飛び出した。庭は夜の冷気に充ち満ちていた。 こんなこともあろうかと、侵入する前に建物の周囲を下見しておいたのが役に立った。純平は警備員の怒号を置き去りにしたまま、塀のもっとも低い場所を乗り越えると、駆けつけた警官が非常線を張る前に、余裕を持って現場を離れることができた──。 「ああ、もう起きてられない」 目的の本を手に入れられた安堵感も手伝い、純平は布団の上に倒れると、すぐに寝息をたて始めた。 慎一も無事に帰宅していた。まったく純平のおかげであり、慎一は冷や汗以外の汗をかくこともなく、自宅まで歩いてたどりつくことができた。サイレンの音がしたので純平の身が心配ではあったが。 両親はまだ眠っている。慎一は二階の自分の部屋に入ると、持ってきた本を服の下から取りだした。そのときになって慎一は気づいた。なにも本ごと持ってくる必要はなかったんだと。中にはさんだ書きかけのラブレターだけで良かったのに。 取り出した本を机の上に置いた慎一は、さらに驚きの声を上げそうになって、あわてて口に手を当てた。 『賢いお金の使い方』。 なんてこった! 間違えて純平さんの本を持ってきたんだ。大きさといい厚みといい、同じくらいだったので、これだと思いこんでいたのだ。すると純平さんは自分の本──ラブレターの入った本を持っていってしまった。あああ……。 頭を抱えた慎一は、本の間からはみ出ている紙に気がついた。ページを開いてみると、そこには折り目のない一万円の新札が、まるでしおりのようにはさまれていた。もしかして純平さんのお金? ひょっとして純平さんはこれを取り戻したくて忍び込んだのだろうか。きっとそうだ。大金だもの。返してあげなくちゃ。そしてぼくも純平さんからラブレターを──。 慎一はそこまで考えるのが精一杯だった。無事脱出の安堵感と、取り違えたことの落胆がごちゃ混ぜになった気持ちのまま、猛烈な睡魔に襲われ、布団の上に倒れた。 やがて机の向こうの窓辺に朝陽が差し、カーテンの隙間からもれた陽光が、本と一万円札を照らした。 「あなた、ちょっとこれ見て」 「どうした、ただの一万円札じゃないか」 「慎一を起こしに行ったら、机の上に」 「なんだって?」 慎一の家は、お金の管理に厳しかった。親戚からもらうお年玉なども、両親に全部渡して、慎一名義の銀行口座に振り込まれていた。若いうちに大金を持つのはよろしくないというのがこの家の流儀で、アルバイトも大学に入るまで許さない、貯金を自由に使うのもそれまでのお預けということになっていた。その代わり、こづかいとして月々決まった額だけ千円札で渡している。それもこれも銀行に勤める厳格な父親の決めたことだ。 なのにどうしてこんな新品の一万円札をあの子が。 父親は手に持ったお札をまじまじと見つめた。ふと彼の眉がくもった。 「あなた、どうかされました?」 「うん……慎一はまだ起きてこないか?」 「あ、階段を下りてきましたわ」 一万円札の出どころを訊ねられて、慎一は純平の名前を出さざるを得なかった。それでも深夜に図書館へもぐり込んだことは話さなかった。 「それじゃこのお札は慎一のものじゃなく、図書館でたまたま話をした純平って人のものなんだな?」 「はい」 父親はじーっと慎一の目をのぞきこんだ。慎一は視線をそらさないよう、精一杯肩肘を張って対抗した。 父親は重ねて質問した。 「おまえの考えでは、本を取り違えた相手は困っている、相手もおまえが困っていることを知ってるから、今日にでも図書館でおまえの来るのを待っているはずだと?」 「そう思います。……いい人だから」 「向こうはおまえの本を持って、かい?」 「はい」 父親は立ち上がると、電話をかけに行った。入れ替わりに母親が朝ご飯の用意を整えながら話しかけてくる。 「さあ、おあがりなさい。このところ本に夢中で夜ふかししてるでしょ? たんと食べておかないと学校で倒れるわよ」 なぜかいつも以上に冗舌だ。明らかに父親の電話の声が聞こえないようにしている。それでも耳を澄ましていると、かろうじて言葉の断片が聞こえた。 「ええ──遅れますがお許しください──これから警察の方に」 警察? どうして? 父親は一度受話器を置くと、またすぐに持ち上げて、どこかにかけた。 「──銀行のものです。じつは──一万円札が──」 慎一は、食卓のはしっこにさりげなく乗っているお札に目がいった。折り目のない新札。純平さんのだ。でもどことなくおかしい。何かが違う。 「──偽札が──」 父親の声に、慎一はアッと心の中で叫んだ。 ニ・セ・サ・ツ。にせもの? そして慎一はようやく自分の感じた違和感に気づいた。お札の色がふつうと違うことに。 受話器を戻した父親が、慎一のそばにやってきた。 |
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