偽札とラブレター |
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思い出したのだ。喫茶店で図書館の本を読んでいたとき、本にはしおりがなかったので、おもしろ半分に財布から一万円札を取り出し、しおりの代わりにはさんだことを。人の目に触れさせたいというやんちゃ心がなかったとはいわない。しかし、はさんだまま返却したなんてことは……ほかに考えつかない。 彼は赤信号を無視して横断歩道を渡ると、図書館の入口に通じる階段を駆け上がった。 キンコーン。閉館を告げる鐘の音が鳴った。かまわずロビーを駆け抜ける。開架室の入口をくぐり抜けたところで、前からきた中学生くらいの男の子と肩口がぶつかった。 「すまん!」 ロビーにへたり込んだ男の子を振り向きもせず、純平は貸し出しカウンターへと一直線に駆け寄った。 カウンターにはまだ四五人の男女が、おのおの希望する図書をかかえたまま手続きを待っていた。純平は荒い息を整えながら、列の後部に並んだ。 一分が一時間にも感じられた。もしあの万札が誰かの目に触れたら。もし偽札だと見破られたら──。いやそんなことはありえない。 ようやく純平の順番になった。彼は眼鏡をかけた若い女性職員に、 「さっき返却した図書をもう一度貸してください」 と噛みつくように頼み込んだ。職員は驚いたように身を引いたが、すぐ事務的な態度を取り戻すと、 「お名前をお教えください」 「た、竹内純平です」 「竹内さん──」 女性職員は脇に置かれたパソコンをしばらく操作していたが、書名を確認したのだろう、今度は机の反対側に積まれた本に目をやった。 「借りられたのは『賢いお金の使い方』ですね」 「そうです」 職員はしばらく本の背中を目で追っていたが、 「すみません。係りの者がすでに書架の方へ戻すべく、持っていったようです」 「じゃあ、今すぐ取ってきます」 職員は何か声をかけたが、純平は後も見ずにカウンターを離れ、林立する書架の間に猛然とすべり込んだ。帰ろうとする人々が何ごとかという顔で純平を見やる。 「ここだ」 彼は該当する棚にたどりついた。しかしその本は影も形もなかった。 純平は再びカウンターにとって返した。 「おそらく戻す作業に手間取ってるものと思われます。お取り置きしておきますので、あさってにもう一度お越しください」 「あさって? 明日はダメなんですか」 「月曜日ですので休館になります」 純平は思わず目を閉じた。 彼はわかりましたと女性職員に告げると、がっくりと肩を落としてカウンターをあとにした。 深夜の図書館。 トイレのサッシ窓がカタッと揺れた。しばらくすると窓が静かに開いて黒い影がぬっと現れた。影は桟に両手をつくと、内側へと身体をすべり込ませた。 純平である。彼は床の上を音もなく進み、扉を少し開けて、館内の様子をうかがった。 開館中の偽札奪取が不可能だと知るや、純平はすぐさまトイレに入って窓の鍵を開けておいた。警備員がいるはずだが、どうやら怠慢だったらしい。おかげでやすやすと侵入することができた。 古い図書館だからセキュリティも設置されていない。純平は廊下に出た。カーペットが足音を吸収する。さいわい窓から差す街灯のおかげで中は明るかった。彼は迷うことなく貸し出しカウンターに近づくことができた。 「さて、どこから探せばいいのやら」 ひとまず、さっきも見た棚に行ってみたが、残念ながらまだ戻されてはいない。彼は舌打ちするとカウンターに帰ってきて、横の半扉を開けて中に入った。念のため、手には薄い白手袋をはめてある。 奥に簡易テーブルが並んでいて、その上にいろんな書物が一緒くたに置かれていた。この中にあるかもしれない。それにしてもかなりの量だ。純平はため息をついた。 やるしかないな。彼はポケットから小型懐中電灯を取り出して点灯した。そして手近なところから積み置かれた本の書名を一冊一冊確認していった。 一時間が経過した。まだ発見できない。純平はいささか疲れを感じた。無理もない。薄暗い中を懐中電灯の弱い光だけを頼りに背文字を追っているから目がしょぼついてくる。本はどれも平積みだから自然と顔も横向きになり、首への負担も馬鹿にならない。ぶつくさ文句を言いながらも捜索作業を続行した。 途中で一度、警備員が巡回にやってきた。純平は本と本の間に身体を沈め、警備員をやり過ごした。ここで見つかってはたまらない。警察に通報され、やってきた警官になぜ侵入したかと問われ、本を探すためと白状しなければならなくなる。そして本にはさまった一万円札が注目を浴び、万が一偽物であると発覚したら──。 いかん。早く探して帰ろう。それが一番だ。 そう思って本の山から這い出そうとしたとき、奇妙な物音に気がついた。身体をひそめたまま様子をうかがっていると、廊下や天井を懐中電灯の丸い明かりがヒラヒラ動いている。警備員にしては不自然な動作だ。純平が固唾を飲んで見ていると、懐中電灯の主はカウンターを乗り越え、純平のいる場所へと近づいてくるではないか。そして懐中電灯の光が純平に向けられた瞬間──彼は風にように動き、懐中電灯の主の口をふさいだまま、その頸に腕を巻き付けて捕まえた。 |
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