偽札とラブレター
その1


 ついに偽札が完成した。
 それは文句なく会心のできばえだった。印刷機から出てきた一万円札を両手で持ち、ランプの前にかざしてみる。精巧に偽造された透かしの福沢諭吉が、完成までの苦労をねぎらうように微笑んでいるような気がする。
 ながめる純平も明治の思想家に笑い返した。

 純平は子供の頃から模写が得意だった。最初は人気漫画を描き写して、友だちの喝采を浴びているだけだった。それが年齢を重ねるに連れ、技は研ぎ澄まされ、誰かの筆跡を真似て手紙を書いたり、絵のタッチを盗んで本物と見分けのつかない作品をつくるに及んで、周囲から気味悪がられるまでになってしまった。以降、贋作つくりは純平のひそやかな楽しみとなった。
 いつごろだろう、偽札を作ろうなどと思い立ったのは。純平は大学を卒業してすぐに銀行に就職した。わずか三年間の勤めだったが、そこで彼はお金をめぐる人間たちの一喜一憂、喜怒哀楽をまざまざと見せつけられた。
 誰もが喉から手が出るほど欲しい、お金、お金。
 それなら俺が作ってやろう、単純にそう思い立った純平は、銀行を辞めると印刷会社に転職した。現在の印刷技術の粋を身につけ、最高の偽札を作ってやろうと一念発起したのである。
 彼の給料のすべては印刷機器の部品やインク、紙幣となる紙の原料などに消えた。彼は東西を問わずあらゆる文献を読み、実験を重ねた。新しい印刷機が開発されたと聞くと、その仕組みを徹底的に研究した。
 そして苦節五年。純平は現代最高水準の印刷技術を会得した。
 機は熟した。いよいよ最終段階。ゴールは目の前だ。
 彼は偽札をつくるため、この春、会社を辞めた。彼の腕を認めていた社長は熱心にひきとめたが、偽札完成を目の前にした彼に、もはや収入源は必要なかった。
 純平は、これまでにため込んだ貯金を全額投入して、必要な道具、薬品や原料などを揃えると、自宅に引きこもって最後の挑戦へと取りかかった。食料も大量に買い置きした。
 こうして七ヶ月。さまざまな失敗と改良を重ね、ついに今日、最高傑作と胸を張れる偽札が完成した。見た目だけでなく、におい、指触りとも本物に瓜二つの一万円札。まだ最終チェックがいくつか残っているものの、彼には絶対の自信があった。

 じつに長いトンネルだった。来る日も来る日もパソコン画面とにらめっこする日々。特殊な磁気インクジェットプリンタの調整に余念のない毎日。いつか指はかさかさに乾き、身体じゅうにインクのにおいがしみついてしまった。
 事が事だけに純平が一人で住む一軒家の窓はすべて雨戸が閉じられていた。誰とも話さず、ひたすら研究と実験の繰り返し。そうやって過ごした数ヶ月は、まだ二十代の若さとはいえ、さすがにこたえた。今朝ひさしぶりに玄関を出て、伸びをしたら、秋の日差しに目を射られて、のけぞるようにその場に倒れてしまった。

 完成の翌日、サングラスをかけて街に出た。まだ足取りはおぼつかなかったが、この数ヶ月テレビや新聞を見ていなかったので、とりあえず世の中の出来事に目を通そうと、電車に乗って、二駅向こうの図書館に出かけた。
 その図書館は、地方都市にしてはたいそう充実していた。純平は一通り新聞に目を通した。彼にとってめぼしいニュースは、来年の2004年、紙幣が一斉に切り替わるということぐらいだった。彼は動じなかった。刷った紙幣と交換すればいいだけのことだ。
 気まぐれに一冊の薄いハードカバー本を借りて帰った。タイトルは『賢いお金の使い方』。
 偽札づくりに青春を捧げた純平にとって、使い道など考えている暇はなかった。完成したらとりあえず十億ぐらい刷り上げて、どこか離島でも買って余生を過ごそうぐらいしか頭になかった。彼にとっては偽札つくりの過程こそが最高の娯楽だったのだ。
 また翌日。昨日の本を返却するために再び図書館を訪れた。借りた本は、とくに彼の欲求を満たす内容ではなかったので、さっき入った喫茶店で斜め読みしただけで返すことにした。

 純平は図書の返却を済ませると表に出た。最寄りの駅は横断歩道を渡ってすぐのところだ。彼は切符を買うべく胸ポケットから財布を取り出し、中を開いた。
 その瞬間、純平の顔から血の気がサーッと引いた。
 ……な、ない!
 純平は何度も財布の中を確認した。しかし入っているのは本物の千円札が数枚だけである。
 彼はよろよろと柱にもたれると、目を閉じた。
 家を出るとき、彼は一枚だけ偽一万円札を財布に入れた。使ってみる気などさらさらなかった。彼お得意の気まぐれである。
 それがいま、見あたらないのだ。
 一応、入手できる限りの偽札識別機をすべてクリアした紙幣だ。大丈夫とは思うが、使い方だけは念には念を入れて慎重に選ばなければならない。大っぴらに使うのはまだ先だ。なのに……彼は服のポケットをさぐってみた。しかしどこからも偽札は出てこなかった。
 冷静になって思い出せ。どこかで使ったりしなかったか。たとえばさっき入った喫茶店。コーヒー一杯の支払いには千円札を出した。間違いない。それ以外で紙幣を出すようなことは……。
「あっ!」
 純平は、弾かれたように図書館に向かって駆けだした。
 思い出したのだ。喫茶店で図書館の本を読んでいたとき、本にはしおりがなかったので、おもしろ半分に財布から一万円札を取り出し、しおりの代わりにはさんだことを。人の目に触れさせたいというやんちゃ心がなかったとはいわない。しかし、はさんだまま返却したなんてことは……ほかに考えつかない。
 彼は赤信号を無視して横断歩道を渡ると、図書館の入口に通じる階段を駆け上がった。
 キンコーン。閉館を告げる鐘の音が鳴った。かまわずロビーを駆け抜ける。開架室の入口をくぐり抜けたところで、前からきた中学生くらいの男の子と肩口がぶつかった。
「すまん!」
 ロビーにへたり込んだ男の子を振り向きもせず、純平は貸し出しカウンターへと一直線に駆け寄った。

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