Jamais Vu
-350-

エピローグ
(2)

 一度口が開くと、怒濤のように言葉が流れ出した。
 彼女は言った。人工ブラックホールの平和利用という合意を世界主要国と取り交わしたのが三年前。ところがまたぞろ裏の世界で、新技術の拡散と、兵器利用の懸念が増大しているという。そしてその糸引きをしているのが、平和利用の中心的役割りを果たすはずだった伊椎研究所だというのだ。
「私は当初からこうなることを恐れていました。だからこそ、味方の顔をして彼らの懐に飛び込み、これまで監視してきたんです。すでにいくつかの機密事項が良からぬ団体に流出しています。──世界は悪い方向に進んでいます。このままでは昨年以上の災厄がこの世界を襲うことは確実です。わたしにはそれを阻止する義務があります」
 私はそれは確かなことかと訊ねた。
「はい。関係者のやりとりするメールはすべてモジ2号がチェックしています。明白な証拠をいくつもつかんでいます」
「それで、あなたはどうしようと?」
 彼女はごくりとつばを飲み込むと、他に聞く者もいないのに声のトーンを落とした。馴れた言葉のほうがいいのでは? と助言すると、彼女はホッとしたように、日本語で話し出した。

 彼女の秘めた作戦とは、人工ブラックホール生成に関する全てをこの世から消し去ることだった。
 対象となるのは、コンピュータやネットワークサーバ上に存在する実験データや資料、文献。そして生成装置本体などのハードウェア。さらには開発に携わった研究者たち。
 私は首を振った。あまりにも荒唐無稽なことに思えたからだ。ところが彼女はいたって真剣で、実行するのは同時でないと意味がないと話を先走らせた。
「待ってください、光嶋さん」
「萠黄て呼んでください」
「萠黄さん、まだ私はあなたのご依頼を受けるとは言ってませんよ」
 すると彼女はバッグから重そうな包みを取り出すと、おずおずとテーブルに置いた。
「お仕事の代金として用意しました。足りるとええんですけど」
 中をあらためさせてもらった。かなりの額のドル紙幣が入っていたが、大雑把に見積もっても手付けと準備だけで足が出そうだった。
「エネ研のお給料に、政府からもらったお見舞金を足しました。これでできる範囲で構いませんから」
 どうかお願いしますと膝に両手をつけ、日本流に深々と頭を下げてみせる。
 そんな彼女の頭越しに、背後にあるサイドボードに嵌め込まれたガラスに映る私の顔が見えた。私にはそれが、ヴァーチャル世界の私が「力になってやれよ」と言っているようにも見えた。
「判りました。もう少し具体的なお話を聞かせてくれませんか」

 彼女が自ら立てた作戦のあらましはこうだ。
 第一に、コンピュータやネットワークサーバ上に存在するデータ。これらに対しては、彼女の命を受けたモジ2号が、自らのコピーを大量に作り、データの近くに張りついて、示し合わせた時間に破壊活動を起こす。
 第二に、すでに作られてしまった生成装置の破壊。現在のところ、完成品はエネ研に一台存在するだけだという。しかし近々完成する、より安定度の増した二号機が、伊椎研究所とアメリカ側の取り決めによって、アメリカに移送されることになった。これを日本から出る前に破壊する。当然、彼女にできることではない。だから私に白羽の矢が立ったのだ。
 そして第三に、開発者たち。彼らがいてはデータがなくなろうが試作機が壊れようが関係はない。最も危険な存在である。だからといって暗殺するわけにもいかない。そこで彼女は一計を案じた。その細部の検討と実際におこなうのは私にまかせたいと言った。
 これらの作戦は、彼女が言ったとおり同時に起こす必要があった。さもなければ妨害に遭うことは確実だ。
「困難な作戦になりますが、うまく事が運んだとして、あなたはどうするんですか? ブラックホール技術を欲しがっている国や裏組織を甘く見てはいけませんよ。いずれは勘づかれ、命を狙われる」
「覚悟はできてます。それに責任は取るつもりです」
「責任を?」
 彼女は口を真一文字に結び、両方の拳をぎゅっと握った。その思いつめた様子にいじらしさを感じた私は、思わず言わずにいられなかった。
「事が終わったらどこかに身を隠すといい。私が手配しましょう」
 お世話をおかけしますと彼女は頭を下げた。

 三ヵ月後。
 作戦はほぼ完璧な形で完了した。
 データについては、日本国内はもとより、アメリカや一部の国に散らばったものまで、きれいさっぱりと消えてしまった。もはやネット上で、真佐吉の書いた文献を閲覧することすらできない。
 そこまで徹底してなされたから、一部の機関では思いもよらぬ不具合が発生した。『ブラックホール』というキーワードを含むファイル自体、存在しなくなってしまったのだ。モジ2号は実に容赦ない仕事ぶりを発揮したようだ。
 データや原理、仕組みを脳内に持っている研究者たち。彼らには、装置を輸出禁止国に売ろうとしたという、ありもしない(一部は真実だが)容疑をでっちあげ、警察に架空の情報をリークし、ことごとく逮捕せしめた。これで「ブラックホール生成は危険」と小声で叫んでいた野党の連中や市民団体は息を吹き返すだろうし、山寺総理ら支持派らはことごとく窮地に立たされるだろう。そして、同じことはアメリカ側にも言えた。
 最後に、装置の破壊についてであるが、非常に残念なことに、ここで重大な手違いが生じてしまった。作戦の守備を『ほぼ完璧』と言わざるを得なかった理由はここにある。

 作戦決行の当日、光嶋萠黄はエネ研の地下十階の研究室にいた。光嶋博士の娘であり有能な研究員でもあった彼女は、他の所員たちが筵潟教授の退官記念パーティーで出払ったその日、ひとり居残って、ブラックホール生成装置の調整をおこなう予定をしていた。もちろん内部に不案内な私を手引きするためだった。
 校内敷地への侵入は、私にとってさほど難しいものではなかった。そして、かねてから打ち合わせていたとおり、建物のそばに植わっている木に登って夜を待ち、壁にロープを引っ掛けてよじ登ると、エレベータ室をこじ開け、箱のひとつを選んで天井に降り立った。エレベータは一定時間誰も乗らないと、自動的に一階か、頻繁に乗降のある地下十階に止まるようセットされている。私は誰にも怪しまれることなく、やすやすと目的地に到着した。
 萠黄はエレベータの扉の前で待っているはずだった。ところがそこで私を出迎えたのは、大きな作動音だった。私は使い慣れた銃を腰から抜くと、警戒しながら室内に入った。
 明るい照明に煌煌と照らされた研究室に人の気配はなく、私は音に引き寄せられるように部屋の中央へと進んでいった。
 作動音を発していたのは室内の真ん中に据えられたブラックホール生成装置だった。私が前に立った時、巨大な円錐は、先端の傾いた状態から鉛直向きへと戻るところだった。
「萠黄さん?」
 呼びかけても返答がない。
 装置に爆破装置を仕掛けた後、私は彼女を連れて脱出する手はずだった。ところが肝心の彼女がいないのだ。
 警備員が次に見回りに来るまで二十五分。急がねばならない。私は装置の周囲を巡った。
 その時、異臭が鼻についた。記憶と照合するまでもなく、肉のただれるにおいだと判った。
 装置を覗き込むと、熱で曲がったベッドが倒れており、周囲には、黒く焦げたゴミのような塊がいくつも落ちていた。
 その中に照明を反射して鈍く光る棒状の金属を発見し、私はイヤな予感に襲われた。
 私は手すりを乗り越え、焦げたゴミの中からそれを拾い上げた。左手の義手だった。付け根の部分に皮膚の一部がかろうじて付着していた。
『責任は取るつもりです』
 彼女の言葉がよみがえる。
 私は義手をそっと床に置くと、装置に向き直り、持ってきた爆薬を彼女に教えられた装置のウイークポイントに仕掛けた。続いて、隣接して置かれていた二号機にも同様に仕掛けると、急いでエレベータに戻り、再び屋上へ上がって、外壁を伝い降りた。
 大学の外に出て爆発時間が来るのを待ち、にわかに学内が騒がしくなったのを見届けてから、私は静かにその場を立ち去った。
 こうして任務は終わった。
 非常に後味の悪い気分を引きずりながら──。


[TOP] [ページトップへ]