Jamais Vu
-348-

第23章
光道の果て
(35)

 まるで黄昏時を迎えたように、周囲から明るさが消えていった。反対に、虹色のカーテンは後ろが暗くなればなるほど輝きを増した。
 カーテンは風にたなびく旗のようにゆらゆらとたゆたいながら後方へと飛び過ぎていく。その様子だけが唯一、自分たちの飛行速度を認識できる手がかりだった。
 耳を澄ましてみる。風切り音さえしない中で、ずっと遠くから雷鳴にも似たとどろきが聞こえてくる。
 鼻を嗅いでみる。かすかにコーヒーを思い出させる香りがした。
 二つの世界をつなぐ通路。ここは宇宙のどこか知らない場所なのだろうか。それとも別の次元なのだろうか。
 判らない。まあ判らなくて当たり前だ。
 ただ判っているのは、自分たちは無重力の中にいるということ。
 進行方向に目をやると、七色の光が静かに渦巻いていた。上下感覚がないので何とも奇妙な気分に襲われる。あの渦巻きは自分たちより〈上〉にあるのか、それとも〈下〉なのか。〈上〉と思えば、自分たちは上昇していることになるが、〈下〉と思えば、地獄の底まで落ちていくような不安感に囚われ、叫び声を漏らしそうになる。
「スゲえっ」
 炎少年は、キラキラと目を輝かせて七色のカーテンに見入っていた。気をつけていないと、つないだ手を振りほどき、そのまま飛んでいってしまいそうなほど興奮している。
「何がスゴいん?」
「ほら、あそこ」
 少年は真っ暗な空間を指さした。カーテンの光が邪魔をして何も見えない。
「もっと近づくんだ」
 少年は萠黄を誘って無重力の中を泳いだ。萠黄が動くと、互いにベルトをロープで結びつけた伊里江も動いた。
「ね?」
 少年が感動したものが何なのか、ようやく判った。それはまるでアニメーション映画の一場面を観るような光景だった。
 色とりどりの光が集合する。ぶつかる。火花が散る。ガスが広がる。しばらくするとガスは個々に集まり出す。集まってくると中心が明るくなる。それぞれが固有の色を放つ。光は大きくなると、互いを引き寄せようとする──。
 一連の流れが何度も繰り返されていた。毎回、光の色も違うし、火花の色も違う。すべてが変化するので、見ていて飽きないし、美しさはたとえようもない。
 だから炎少年がカーテンに手を伸ばした時も、萠黄は危ないとも思わなかった。
 炎少年の手がカーテンの裾に触れた瞬間だった。カーテンが突如生き物のように動き、少年の腕に絡み付いた。
「うわあぁぁぁ!」
 萠黄も伊里江も引きずられてバランスを崩した。ものすごい力だった。つないだ手を離さないのがやっとだった。
(くっ)
 宙返りしながら、萠黄はエアボールを投げた。
 カーテンが激しく波打つ。少年が解放される。萠黄はふたりを連れて、急ぎ後退した。
「何だよ、これーっ」
「わたしに訊かんといてよ。とにかく近づかへんのが一番や」
 飛行はまだまだ続いた。三人は通路の中心から外れないよう、互いに注意を払った。
「寒くなってきたね」
 炎少年が腕をさすった。確かに温度が下がってきた。
「エアボールに潜り込もうか?」
 萠黄は提案し、三人を空気玉で包み込むイメージを浮かべた。ところがエアボールがうまく生成されない。
(パワーが弱くなってる)
 萠黄は直感した。伊里江も同じだったらしく、
「……いよいよ境界線に近づいたようですね」
 言った途端、ウッと顔をしかめた。
 萠黄がなくなった左腕の付け根に激痛を感じたのも同時だった。
「……リアルパワーで傷の痛みを抑制していたのが……効かなくなったのです」
 その通りだった。萠黄は広げた手の平に血が付くのを見て愕然とし、Tシャツの袖をたくし上げた。綺麗に閉じていた傷跡はぱっくりと開き、血があふれ出していた。
 覚悟しておくべきだったのだ。
 萠黄は今さらながら考えの至らなさを後悔した。
(──覚悟してても、おんなじか)
 こうなるからと、光の通路に入るのを拒否することなどできない。
 痛みの度合いがますます強くなっていく。これが本来の痛みなのだ。リアルではなく人間として当然の。
 三人は散り散りに漂った。萠黄は自分の痛みをこらえるのに精一杯だった。いやそれもいつまで続くか。このままでは気を失って、カーテンに巻き付かれかねない。
「……萠黄さん」
 伊里江が呼んだ。どうにか片目だけを開けると、彼は衝撃的な言葉を口にした。
「……ここでお別れです」
「え──?」
「……満身創痍で体力のない私は……これ以上、耐えられそうにありません」
 伊里江の身体がふらふらとカーテンのほうに動いていく。つかまえようと萠黄は右手を伸ばした。しかし伊里江はぎこちなく首を振り、
「……無駄なことです。私の命はリアル世界に着くまで保ちそうにありません。構わず行ってください」
 苦痛に歪む表情とは裏腹に、口調はいつも通りの丁寧さだった。そして、
「……おめおめと死体で帰り着き、人類の敵の弟と罵られて石を投げられるよりは──」
と独り言のようにつぶやくと、震える手を上げて、萠黄に小さく手を振った。
「伊里江……さん!」
「……苦しかったけど……楽しい二週間でしたよ……幸運を祈っています」
 虹色のカーテンが爆発したように膨らみ、さまざまな色が混じり合って、萠黄の目をかく乱した。
 ようやく治まった時に、通路に伊里江の姿はなかった。
 必死に目に凝らすと、カーテンのはるか向こうを、伊里江の身体が飛び去っていくのが見えた。
(伊里江さん──)
 萠黄は目を左肩に戻した。血のせいでモスグリーンのTシャツは、肩から脇腹にかけてどす黒く染まっている。せめて止血しないと。そう思ってTシャツに手をかけた。丸めて傷口に当てれば、少しはマシかと考えたのだ。
 その手が途中で止まった。つかんだ部分から生地がボロボロと砕けていく。
 原因はすぐに思い至った。いま着ている服は、全てヴァーチャル世界で手に入れたものだ。思い出せば、リアル世界からヴァーチャル世界に移った時も、身体ひとつだけだったではないか。
 ふっと意識が遠のいた。マズい、血を流し過ぎた。
 萠黄は服も下着も消えていくのにまかせ、片手で宙を泳ぎ、炎少年に近づいた。少年はぐったりとしていて、もう少しでカーテンに触れるところだった。萠黄は右手で少年の小さな身体を胸に抱くと、頭上の渦巻きに向かって、ひたすら念を飛ばした。
(早く到着して!)
 そうしているうちにも、気が遠くなったり、痛みに目が覚めたりを繰り返した。気づかないうちに何度かカーテンに触れそうになって、危ういところで持ち治った。
 どれくらい時間が経過したろう。三時間か、あるいは三十時間か、萠黄には見当がつかなかった。
 夢うつつの状態の中で、ふいにまぶたの裏に熱を感じた。うっすらと目を開けてみると、胸元に抱いた炎少年のつむじに自分の頭の影が落ちている。
 振り仰げば、渦巻きがあった上空からは、真っ白で温かい光が差していた。
 萠黄はどこか遠くで自分の名を呼ぶ声を聞いた気がした。

     *

 ──ここは、どこ?
 脇腹の下が妙に温かい。指を動してみる。つるつるとした金属かタイルかだ。
 むちゃくちゃに眩しい光が自分に注いでる。
 腕を動かそうとすると、胸の下に炎君がいることに気づいた。まだここにおったんや。生きてるかー。
 ああ、身体がものすごダルい。熱もありそうや。頭をちょっと上げただけでクラクラするやん。
 ガヤガヤと声が寄ってきた。
〈萠黄、萠黄〉。誰かが呼んでくれてる。むん?
〈うわっ、血が出てる、腕がないぞ、なぜだっ〉
 そない驚いてやんと、早よ手当てしてよ。半分は血ィ失うたと思うから、生命維持の限界超えてるかもよ。
〈医師の皆さん、急いでください!〉
 ああよかった。お医者さんが待機してくれてたんや。
〈なぜふたりしか、帰ってこないんだ? 残りは? 計画は失敗なのか!〉
 ああそうか、積み残しのリアルがいると思てはるんやな。そうやないって教えてあげんと。
 ふたりでええんです。他のリアルの人たちは、みんな、みんな──

     *

 次に目が覚めたとき、萠黄は白い壁に囲まれたベッドの上にいた。身体中ぐるぐるに巻かれた包帯と、右腕には点滴。そして布団の下から無数に伸びた線が、そばの機械に伸びている。機械のディスプレイでは白い線が規則正しいグラフを描いていた。
 部屋には萠黄しかいなかった。個室だ。ひとりで使うにはもったいないほどの広さがある。
 テーブル越しの壁に、磨りガラスの窓があった。明るい様子から、時刻はお昼前後と思われた。
 テーブルには花束が置いてあった。首をねじると、他にも床までいっぱいに置かれていることに気がついた。
 萠黄はただ純粋に、綺麗やな、と思った。
 顔を仰向けに戻す。すると、頭の上にデジタル時計を発見した。22、ちょっと空いて、11。二十二時十一分か。
(ん? そんなワケないやろ)
 頭を浮かせてみる。少し目眩がした。
 その時、数字が変わった。と、彼女は自分の間違いに気づいた。
(そうか。反対に見てたんや)
 時刻は十一時二十三分。やはりお昼前。萠黄は納得して、頭を枕に落とした。
 数秒後、目を大きく見開き、今度はガバッと身体を起こした。
 液晶表示の数字は、裏返っていない。
(他に文字は?)
 探そうと頭を振った途端、激しい目眩に襲われ、たまらず萠黄は横になった。
(戻ってこれたんよね? ね?)
 何かで確かめたいが、頭の中が嵐の海の船のように激しく揺れている。
 静かな足音が近づいてきた。看護士さんだろうか。足許にあるドアが開かれる。誰かが部屋に入り、ドアを閉めた。訪問者は荷物をテーブルの前の椅子に置くと、顔を近づけてきた。萠黄はうっすらと目を開いた。
「あっ、むん! おはよう……」
 萠黄がいきなり話しかけると、むんは驚いた顔をして、すぐにぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「よか……よかった! 気がついて」あわてて取り出したハンカチで目頭を拭う。「このまま覚めへんのちゃうかと心配してたんよ……五日も眠ってたんやもん」
(五日も? そんなに長いこと──)
 萠黄は息せき切って訊ねた。
「なあ、ここはホンマにリアルの世界よね?」
「当たり前やないの。元の世界よ。帰ってきたんよ!」
 むんはそう叫ぶと、椅子に置いたバッグの中から新聞を取り出した。
「ほら、文字を見てごらん。ちゃんとなってるやろ?」
 すると、何かを思い出したように手を打って、新聞を萠黄の胸元に置くと、
「待っててな。目が覚めたこと、お医者さんに伝えなあかんから。また後で話、しよな」
 むんは言い残すと、大急ぎでドアの外に駆け出していった。
 萠黄は安堵の息を吐いて、身体から力を抜いた。新聞の文字は確かにここがリアル世界であることを示していた。
(よかった……これで元通りの生活に戻れるんや……。逃げたり隠れたりせんでもええんや。撃たれる心配もないんや。誰かが目の前で砂になったりすることもないんや)
 顔を明るさに満ちた窓に向ける。
(それから、この明るい世界が、爆発してなくなる心配も、二度とせんでええんや。全て解決したんや)
 涙があふれそうになったのて、あわてて我慢した。
(むんがお見舞いにきてくれてんのに、泣くのはやめとこ。積もる話もいっぱいしたいしぃ)
 萠黄はもう一度、新聞に目を落とした。
 一面は隅から隅まで、今回の事件の関連記事で埋め尽くされていた。
『少女と少年、奇跡の生還!』
 それは最も大きな見出しだった。
 少女かあ、と思わずため息が出る。続いて、他の見出しに目を移す。
『日本物理学界の勝利! 首相がエネ研を表敬訪問』
『光嶋博士。愛娘と涙の再会!』
『ブラックホール生成装置は今後平和利用に 野宮助教授大いに語る』
 萠黄の顔から、徐々に笑顔が消えた。


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