Jamais Vu
-347-

第23章
光道の果て
(34)

 三十分。
 それが、ヴァーチャルとリアル、ふたつの世界をつないでいられる時間。
 携帯を通じて語りかけてくる、リアル世界のむんは、あらかじめ必要事項を紙にでも書き留めておいたのだろう、最初こそはつっかえ気味だったが、徐々に冷静な口調を取り戻した。
 むん曰く、ヴァーチャル世界が誕生したことは、諸々の観測によって、リアル世界の側でも初日のうちにつかんでいたのだという。
〈このまま世界が滅亡するのを、指をくわえて見ているわけにはいかない。事態を打開するには、ヴァーチャル世界に取り込まれたリアルたちを奪還する以外に方法はない〉。
 エネ研に結集した世界的頭脳は、すぐさまヴァーチャル世界へのアクセス方法の発見に全精力を注いだ。
 結果、リアルの発するエネルギーを特殊レーダーが捕捉したのが数日前。
《それが萠黄でした。萠黄はすでにリアル候補者にリストアップされていたので、すぐに彼女のご家族が呼ばれ、開発中のプラズマ装置を通じてコミュニケーションが試みられました。ですが……》
 実験はうまくいかなかった。ところがダメ元で話しかけたむんの声に萠黄は反応した。残念なことに、通話状態を安定させることができなかったので、ろくに話ができないうちに切れてしまった。
 しかしこれに気をよくした科学者連はさらに実験を重ね、ついにヴァーチャル世界に通じる道を開くことに成功した。それは同時に、伊里江真佐吉以外にはなし得なかった〈人工ブラックホール生成の謎〉を解明することにもつながったという。
 今朝方、萠黄とハジメが見た〈光の塔〉。エネ研に天から注いだ光は、この通路の前触れだったのだ。
《このようにして道は完成しました。でも三十分すると道は閉じてしまいます。その理由は、単に通路を維持する電力が莫大であるということだけではなく、わたしたちリアル世界における太陽系が、銀河の中でもとりわけ特殊な位置に移動しつつあるからだそうです。だからこの機会を逃すと、次に道を作れるのは、千年後だろうと言われています。もっともその前に世界は消滅することになりますが》
 説明を聞き終えた一同は、一斉に息を吐いた。互いに顔を見合わせたりしているが、どの顔にもそれほどの驚きはない。すでにこの二週間、誰もが驚くべき経験を積んでいた。いま彼らの心を支配しているのは、突然現れた、事態の終焉に対する戸惑いだけだった。
 萠黄は「三十分」と聞いた時から熱に浮かされたような気分に陥り、その後の話は、右から左へと通り過ぎていた。
(たったの半時間で、この世界にお別れ……)
「──ハジメ君は?」
 シュウが沈黙を破った。ハジメがいない。全員がどこだ? と首をめぐらせた時、おーいと声を上げながら、久保田が小走りで戻ってきた。両手にハジメを抱えている。
 腕をだらりと下げたハジメは、地面に横たえられても、なかなか声を発しなかった。
「おい、喜べ」久保田が優しい声で語りかけた。「元の世界に戻れる道ができたんだぞ」
「──まさか」
 ハジメは荒い息の下で、唇を少しだけ開けた。
「嘘じゃないぞ。ほら、あのオーロラのカーテンみたいなのが見えるだろ? あれで帰れるんだと」
「──へえ」
 しかしハジメはウッとうなると、苦しげに身体を折り曲げた。
「ハジメさん!」
 あわてて駆け寄った萠黄は、右手を後頭部に添えて持ち上げてやった。
「萠黄さん……本当に帰れるのか?」
「ホンマにホンマよ。リアルのむんが添乗員になって、連れにきてくれたんやから」
 シュウが携帯の画面を示す。
「へえ……俺の知ってるむんさんにそっくりだ」
 せいいっぱいの軽口に、萠黄は笑ってみせた。
「そやから、あと少しがんばって、一緒に帰ろ」
「OK……」
 ハジメは答えて、少し顔を傾けると、誰もいない空中に向かって話しかけた。
「ジイさん……アンタも一緒にな……」
 ハジメの双眸から、スーッと光が消えた。
 萠黄は彼の頭を地面に置くと、頭を垂れて黙祷した。
 皆もそれにならった。
「──あの」小さなむんが耳に手をかざして呼びかけてきた。「そちらの状況が判らないんですが──」
「残りは何分ですか?」
 シュウが問うと、二十一分という答えが返ってきた。
「萠黄さん、行け」
「──はい」
 ゆっくりと立ち上がる。そして目を炎少年に向け、そばの木にもたれた伊里江に向けた。
 生き残ったリアルはこの三人だけになってしまった。
「世話になったな」
 照れくさそうに頭を掻きながら、揣摩が前に出た。当代きっての人気アイドル、揣摩太郎。本来なら一生口を利くこともないはずの彼と知り合い、危ないところを助けたり助けられたりしながら、ここまでやってきた。
 揣摩は萠黄の手を取ると、強く握りしめ、もう一方の手で肩を叩いた。
「向こうに帰っても、俺のファンでいてくれよ」
「今まで、本当にありがとう」
 そう言って下げた頭を、揣摩は軽く抱いた。
「元気でね」
 柳瀬も目を真っ赤にして手を振った。
 久保田が洟をすすりながら前に出た。
「これっきりなのか……これが永遠のお別れってやつなんだな?」
 言うなり、ガバッと萠黄を太い腕で抱きしめた。
「わたし、絶対に忘れへんから」
「当たり前だぁーっ」
 力こぶが頬を締めつける。萠黄が腕をバタつかせたので、彼もようやく気づいて腕を解いた。
「……でもみんなに悪い気がする。この世界でこれから生きていくのって大変そうやし」
「魚が食えないんじゃ、漁師にも戻れないしな。しょうがないから農家にでもなるよ。……俺、考えてたんだ。この世界で唯一食えるものは野菜だけになるだろ。人類全員がベジタリアンの世界って想像できるかい? ハハハ、きっとみんな穏やかな顔になるんじゃないかな」
 萠黄はこくりと頷いた。
 争って相手を傷つければ、即、命に関わる世界。おいそれと喧嘩もできないだろう。もしかしたら、戦争だってなくなるかもしれない。
「空の彼方から、応援してるね」
「おう」
 さようなら。初キスのひと──。
「さあ、早く来なさい」
 雛田が清香を引っ張るようにして萠黄の前に立った。
 清香は顔を手で覆って泣いていた。萠黄は彼女に対して、どんな顔をしていいのか判らなかった。
「萠黄さん」雛田は身体の前で丁寧に腕を重ねると、お辞儀した。「いろいろとお世話になったね」
「とんでもない。こちらこそ」
 外交辞令のようなやりとり。萠黄は横に立つ不憫な清香に、同情の視線を送るしかなかった。
 本来なら一緒に帰れるはずだった。なのにリアルの清香は無惨にも殺され、同時にヴァーチャルの清香が誕生してしまった。彼女はいまだに自分がヴァーチャルであることを受け入れられないでいるのだ。
「わたしのほうが年下やけど」萠黄は思い切って話しかけた。「生意気なことを言わせてもらいますね。……この世界で、雛田さんは大切な相方さんを失いはった。だから……その、雛田さんには支えてあげる人が必要やと思います。それが長年、名乗り合えなかった親子やったらなおさら──」
「間違いなく、正真正銘のお父さんなの?」
 清香が涙目を雛田に向けた。
「ちゃんと言うてよ、お父さんならお父さんだって!」
 その時、背後のシュウの手の上でカバ松が怒鳴った。
《いい加減にしろよ。まだ父親の資格だなんだと、ウジウジしてんのかい。これを見ろってんだ》
 雛田が携帯を受け取ると、清香の映像が隠れ、代わりに白い立方体が飛び出してきた。萠黄にも見覚えのあるそれは〈衛星証明書〉と呼ばれるものだった。
 情報機器の進歩と普及によって、世の中には複製物、つまりコピーやまがい物が氾濫している。この問題に対して、ひとつの答えとして登場したのが〈衛星証明書〉である。信頼のおける機関が発行した証明書を、絶対にコピーできない場所──人工衛星──に収め、その信頼性を確保、保証しようというものだ。非常に高価だが、契約する企業が引きも切らないという。
《ボタンを押してみな》
 雛田は言われるまま、立方体の上面にあるボタンらしきものに触れた。
 花が咲いたような動きと共に立方体は展開し、一枚の証明書が広がった。萠黄もふたりに合わせて覗き込む。
「……DNA鑑定……上記のふたりは、間違いなく親子であることを……証明する!」
 所定の欄には雛田、清香のふたりの名前、写真、そして指紋が掲載されていた。清香は指を持ち上げ、そこに当てた。ポンと音が鳴り、「ご本人様です」の機械音声。
 雛田も震える指を伸ばした。ポン。「ご本人様です」。
 すでにカバ松は引っ込んでいた。あとは知らんというつもりだろう。
「清香。僕が……私が、本当の父さんだ」
 清香は彼の胸に飛び込み、今度こそ声を上げながら泣き出した。
「今まで済まなかった。これから僕がカゲに代わって、ちゃんとお父さん役を果たすから」
「……お母さんも……喜ぶよね」
「もちろんだ。僕たちだけのために是非、アルパのリサイタルを開いてほしい」
 清香の頭が頷いたように見えた。
「萠黄さん」雛田は携帯をもう一度胸の高さに上げた。「この世界は厳しい時代に突入するだろう。だからこそ、今まで以上に〈笑い〉が必要になると思うんだ。僕はね、コイツとコンビを組んで再デビューするつもりだよ」
 証明書が消えると、ピンク色の鼻の穴がふたつ、浮上した。
「新米の相方さん。よろしく頼むぞ」
《ニュー・カゲヒナタってわけだな。取り分は七三でいいか?》
 雛田は笑った。すると、カバ松の横にモジが現れた。
《オレはどないしたらええんや〜?》
「モジはね」萠黄はしばし考えて、「そや。清香さんの携帯に住まわせてもろたら?」
「え、いいの!?」
 清香が明るい顔を見せた。
「おイヤでなければ」
「ありがとう」
 清香は大事そうに、雛田の携帯を受け取った。
 背後から萠黄の肩が叩かれた。
「時間がもう残り少ない」シュウはそう言って、木の根元に寝そべっている伊里江へと足を向けた。
 萠黄はその背中を追いながら、礼を言った。
「シュウさん、あの、今までどうもありがとう」
「妙な縁だったな」
 背中向きで答えが返ってきた。彼は伊里江を背負い上げると、雛田の携帯に、残り何分だ? と問いかけた。
《九分です》
 再び、清香の姿が現れていた。その声にも顔つきにも焦りの色があらわに出ていた。
「行くぞ」
 シュウはすたすたと、光のほうに歩き出す。
「炎君。おいで」
 萠黄も少年の手を取り、後を追った。久保田たちももちろんついてくる。
 シュウはちらと萠黄に目を向け、
「この下に埋まってるブラックホール装置の残骸や、その他諸々については心配するな。俺が責任を持って完璧に処分しておく」
「お願いします」
 光の外縁部に到着した。ヴァーチャルが近づけるのはここまでだ。
「シュウさん、あの──」
「あちらの世界に戻ると、君もただの人なんだな。それもなかなか大変なことだろう。しかし、君なら、乗り越えられる。……それから最後にひとつだけ」
 力強い目が萠黄を射た。
「みんな言いにくいようだから私が言うが──君は人類を救った。のみならず、宇宙を救ったのだ。このことは誇りに思っていい」
 萠黄は背筋を伸ばすと、右手を上げて敬礼した。シュウも敬礼で返した。
「坊主、お前も達者でな」
「坊主じゃねえよ。……でも、みんな、ありがとう」
 炎少年は神妙な表情になって、両手を膝について頭を下げた。
「もう、母さんを泣かすなよ」と雛田。
「うるせえや」少年は目をごしごしとこすった。
 萠黄は伊里江を背負い、少年の手を引いて、光のカーテンをくぐった。中は不思議な温かさに満ちていた。
「いま入った」
 シュウが冷静な声でむんに伝えた。
《了解しました。引き揚げを開始します》
 足許がぐらりと揺れた。
 身体が浮上し始めた。
「がんばれよーっ」
「元気でなーっ」
 久保田、揣摩、柳瀬、清香、雛田、シュウ。
 手を振る人々の姿が下へ下へと下がり始める。
「みんなもねーっ」
 萠黄はあらん限りの力で右手を大きく振った。
 彼らの姿が点になっても振り続けた。
 やがて下界は薄暗くなり、漆黒の闇に取って代わった。
 萠黄たち三人は、七色の光の中を、どこまでも上昇していった。


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