Jamais Vu
-346-

第23章
光道の果て
(33)

 怪物はその肢を久保田たちひとりずつに巻き付け、身動きできないようにしていた。中でも伊里江と炎少年に対しては、首にまで何重にも念入りに巻き付いている。リアルであることを十分認識しているのだ。
 萠黄と怪物のあいだは約十メートル。ひと飛びで躍りかかれる距離だ。試みに、右足を別の瓦礫の上に動かした。怪物はどこに目があるのか、彼女の動きを敏感に察知すると、わずかに向きを変えた。これでは、飛びかかろうと腰を屈めることも難しい。
 対リアル銃を構えたシュウも、どうすることもできず、様子をうかがっている。そのシュウに怪物は『萠黄を撃て』と言ったのである。
『……いつつ……かぞ……える』怪物のたどたどしい言葉が言った。『うたねば……ひとりずつ……ころす』
「隊長代理!」
 相手が人間だった頃の名前をシュウは呼んだ。しかし怪物は何の反応も示すことなく、カウントダウンを開始した。
『ひと……つ』
 萠黄はすっと目を細めた。
「シュウさん。わたしを撃ってください」
「聞こえんな」
 にべもない返事だった。
「わたしが撃たれたら油断するかも。そこを狙っ──」
「普通の銃弾とワケが違うんだぞ。そんなのは作戦でも何でもない。ヤケを起こすな」
 図星だった。
「疲れが限界に達してるは判る。でもな」
『ふ……たつ』
「ここまで来て放り出したら、今までの二週間は無意味なことになるぞ」
 意味なんかあらへん。ただ逃げ回ってただけや。
 ずっと押さえつけていた感情だった。状況が悪くなるとすぐにもたげてくる悪い性格だと彼女は思った。
「俺は傭兵だ。ひと様に胸を張れる職業だとは思わないが、そんな俺が長年の経験と、そして真崎さんから学んだことがある。あきらめない、ということをだ」
『みっ……つ』
「ヒューマンドラマにありがちな精神論とは全く違う。いわば、突破できない壁はない。抜け出せない密室はない。破れない非常線はない。盗めない重要機密はない。つまり人間が作った状況で、乗り越えられないものはひとつもないということだ。そうやって俺たちは生き延び、目的を達してきた。そしてもうひとつ。倒せない敵も、ない」
 シュウの言いたいことは理解できた。頭脳を最大限に働かせ、この事態を打開する方法を見つけろと言っているのだ。
 しかし追い込まれたいま、うまい考えが反射的に浮かぶほど、自分はピンチに強くは──。
 その時、天啓が訪れた。
『よっ……つ』
 普通の銃弾とは違う。シュウの言葉を思い出した。
「シュウさん、撃って!」
「だから──」
〈大丈夫。わたしは死なない〉
 萠黄はシュウの頭の中に、直接話しかけた。
『いつ……』
 シュウは意を決した顔で振り向くと、萠黄に向かって対リアル銃を発射した。
 狙いは正確だった。
 萠黄は黒い光線が近づいてくるのを、ゆっくりした時間の中で見つめていた。
(一発勝負!)
 右手を前に構える。腕の先にリアルパワーを集中させる。たちまち目の前の空気が凝縮し始めた。
(もっと、もっと)
 温度が急速に下がっていった。萠黄はさらにパワーを込める。凝縮された空気は、徐々に黒ずんだ色合いを帯びてきた。
 エアシールド。文字どおり空気の盾。萠黄の前に広がったそれはまるで、パラボラアンテナのような曲面を持っていた。
 黒い光線はできたばかりのエアシールドに達した。そして光線は透過することなく、盾の上を別な方向に〈反射〉した。盾の曲面によって、空中の一点に収束しながら。
 グアアアアッ。
 怪物がボディを仰け反らせた。収束した光線によって、その肢が付け根からナイフを浴びせられたように、ざっくりと切り取られたのだ。萠黄の『対リアル光線・反射作戦』は予想以上の成果を上げたのだった。
 彼女は盾を捨てると、十メートルの距離を一瞬で移動した。手早くエアクッションを作ると、久保田たちを中に包み込み、そのまま瓦礫の外へと連れ出すことに成功した。
「うひゃっ、たす、助かった」
 雛田の声が裏返った。
「萠黄さん。まだふたりが」
 揣摩が瓦礫の方向を指さした。
 怪物は瓦礫の山の上にひっくり返ったまま、残った肢をじたばたさせていた。伊里江と炎少年はその中に取り込まれたまま、右へ左へと翻弄されている。
(リアルだけは逃がさへんつもりやね)
 反撃の機会を与えては行けない。萠黄は再度飛び上がるべく、膝に力を込めた。
〈萠黄〉
 そのまま膝が固まった。振り向く。揣摩や柳瀬が驚いて身体を引いた。
「いま呼んだ?」
「いいや」
 男たちは首を振るばかりだ。
〈萠黄。聞こえる?〉
 また同じ声がした。今度は声質まで聴き取れた。
(むん???)
 WIBAで聞いた霊魂の再来か?
 でも、なぜ、いま?
 グルルルと怪物が喉を鳴らした。起き上がろうとしている。急がねば。
〈危ないよ〉
 声は執拗に話しかけてくる。その調子には何か別のことを訴えようとする必死さが込められていた。
(これは──霊魂なんかやない!)
 萠黄はアンテナを極限まで伸ばした。前後左右上下へと全方向に。するとある一端が、声ではなくその奥に潜む、かすかな思考を捉えた。
〈パワーの〉〈危険〉〈時間との〉〈プラズマで〉〈垂直に〉〈光〉
 それらは、全くつながらない言葉の羅列だった。
 だが〈危険〉という単語の裏に、場所に関する情報がくっついているのを萠黄は見逃さなかった。
 ここだ。エネ研だ。
 すでに“跡地”と化してしまったこの場所に、声が言うところの〈危険〉が迫っていたのだ。
 それがいつなのか──。
 萠黄は〈垂直〉に顔を上げ、空を見つめた。
 いつの間にか、一カ所だけ雲がしみ出していた。雲は大砲のような縦長で、中央に穴があり、その暗い穴の向こうには空はなく、小さな稲妻が走っていた。
 大砲が狙っているのは間違いなく、エネ研。
 萠黄は急ぎ、宙を飛んだ。
 怪物の姿が迫る。怪物はようやく裏返ったボディを起こしたところだった。萠黄は瓦礫の上で呆然と立つシュウを突き飛ばした。そしてカーブを描いて、怪物の下に頭から飛び込んでいった。
 その時だった。
 大空に浮かぶ大砲から、強烈な光が地上に向かって落ちてきた。同時に辺りは真っ白な光に包まれた。
『あああああああああ』
 光線を浴びた怪物がのたうち、絶叫した。そしてボディに火がつくと、激しく燃え出した。

「これは──この光の束は、プラズマ噴流なのか!?」
 シュウは呼吸することも忘れて、指のあいだから信じがたい光景を眺めていた。
 まるで光の柱だ。なぜこんなものが。
「萠黄さんは──」
 彼女に瓦礫の外まで突き飛ばされていなければ、シュウは今頃生きてはいなかった。
「すると彼女は、こうなることを知っていたのか」
 光は瓦礫全体を覆い尽くすほどの広さで降り注いでいた。その中で怪物は黒く焦げ、断末魔の叫びを残して、ついにどさりと倒れた。
「あの下に萠黄さんたちが……」
 助けに行くこともできず、指をこまねいていると、少し離れたところの地面が割れるのが見えた。三人の人影がその下から現れた。シュウは思わず拳を握りしめて駆け出していた。光の柱の向こうでも、久保田たちが立ち上がった。
 土にまみれた萠黄は、息をついて横たわると、そそり立つ光の柱に魅入られたように微笑みを浮かべた。駆けつけた揣摩たちは、手を伸ばして彼女を地面の上に引き上げた。他に出てきたのはもちろん炎少年と伊里江だった。少年はハジメに充電されて元気さを取り戻していたが、伊里江はエネ研に入る前と、さして容態に変化はないように見受けられた。

(ムチャクチャ綺麗やなあ)
 萠黄の素直な感想だった。肉体も精神も疲労の極地にいた彼女を、その光景は温かく癒してくれた。
 夢の中で見た〈光の塔〉。あれは予知夢だったのだ。自分はこうなることを知っていた。こうなることを待っていた。
 光は、真っ白だった最初の状態から虹色へと遷移していた。
 萠黄はジーンズの泥を適当に払い落とすと、オーロラのようにゆらめく光に近づいていった。
「お、おい」
 久保田が止めようとする前に、萠黄は腕を肘まで差し込んでいた。
「大丈夫。もう害はあらへんよ」
「光の正体を知ってるみたいだな」
 しかし萠黄は首を振った。
「ただ、こうなることは何となく……」
「予想できたってのか」
 全員が光の柱を仰いだ。真っ青な空の中、ぽつんと穴の空いた雲が浮いており、光はそこからとめどなく降り注いでいる。萠黄ばかりでなく、誰もがその美しさに魅了されていた。
《電話やでー》
 カバ松が唐突に着信を告げた。雛田はこんな時に誰だと携帯を取り出しながら、
「例の『ふゅう〜ん』はもうやめか?」
と問うた。
《バカバカしい。バレちまったら、もう二度とあんな媚びた真似なんてできるかい》
 液晶画面を覗き込んだ雛田は、変だな番号が出てないぞと訝しげに言うと、受話口を耳にあてた。が次の瞬間「あーっ」と大声で喚き、携帯を地面に放り投げた。
「どうした、誰からだ?」
「む、む、む、む、む」
「落ち着け」
「むんさんだ!」
 全員が地面の携帯に目を向けた。
「いたずらに決まってるじゃないか」
 揣摩が苦笑混じりに言ったが、雛田はぷるぷると首を振り、
「そっくり。声。生き写し」
とおびえたように言った。
 誰も拾わないのでシュウがつかみ上げた。通話ボタンを押す。すると画面に立体映像が浮かび上がった。
「ほら、俺の言ったとおりだろ?」
 雛田の耳は正しかった。服装こそ見慣れない地味な背広姿だったが、長い髪を後ろでまとめた女性は、記憶の中のむんと同じ姿かたちをしていた。
 しかし画質は非常に悪くて、数秒ごとにブレたり消えたりを繰り返す。
「むんや」萠黄が進み出たので、シュウは彼女に携帯を手渡した。「この顔──リアルのむんや……」
 萠黄の目から涙があふれた。
《萠黄? その声は萠黄やの?》
 画面の女性は前屈みになって、きょろきょろと辺りを見回す仕草をした。しかし感極まった萠黄は応じることができない。代わりにシュウが答えた。
「萠黄さんはここにいますよ」
《本当ですか? よかった──! こちらからはそちらを見ることができないんです》
「了解。ところで、そちらはリアル世界ですか?」
《そうです。そちらはヴァーチャルの世界ですね?》
「ええ」
 ほぉーっと皆から溜息が漏れた。今この時、両方の世界がつながっている。そのことに誰もが感銘を受けていた。
 画面のむんが早口に説明し始めた。
《実はあまり時間がありません。だから手短にお話しします。そちらでは今、空中から強い光が差していることと思います。それはこちらとそちらをつなぐ通路なのです。こちらのエネ研がようやく完成させたブラックホール生成装置によって作られ、つい先ほど安定化に成功したばかりです。わたしたちの目的はもちろん、リアルの皆さんをこちらの世界に連れ戻すことです。でも許された時間は、たった三十分。……だからお願い、萠黄! 急いで!》


[TOP] [ページトップへ]