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怪物の姿はまたも変貌を遂げていた。 回転刃を支える胴体の下からは、多数の肢が伸びており、それが倒れた机や転けた椅子などを避けながら歩く姿は、イカというよりもクモに近く、思わず目を背けたくなるグロテスクさだった。 その一匹が壊れた計測器を乗り越えようとした時、黄色い声を張り上げて飛び出したきた人間がいた。赤ら顔の顔は忘れもしない、伊椎研究所の副社長だ。隠れていたところに突然怪物が頭上に現れたものだから、肝をつぶしたのだろう。あられもなくうわああと叫びながら扉に突進していく。 ところがその行動は、ヴァーチャルには興味がないはずの怪物の気を引いてしまった。 怪物は身体をひねると、ふわりと宙に浮いて、副社長を追い始めた。すると完全に動転した副社長はさらに大きな悲鳴を上げ、自分の居場所を教えながら逃げていく。 バカな、とシュウは心の中でなじると、物陰から飛び出した。 シュウは出口の近くにいた。久保田や雛田らを連れ、壁際を影づたいに移動中だったのだ。怪物二匹は萠黄が引きつけてくれている。この間にヴァーチャルを外へ。萠黄がそれを意図していることは容易に想像できた。今では萠黄の考えていることが手に取るように判るような気さえしていた。 「出口に向かって走れ!」 シュウは久保田らにそう叫ぶと、銃を構えた。 副社長は出口にあと一歩というところで、装置のコードに足を取られて転倒した。追っていた怪物は肢の一本を伸ばして副社長の腰に巻きつけた。 シュウは近接距離に迫ると、すぐに引き金を引いた。銃弾が二発三発と発射される。だがやはり怪物には何らダメージを与えることができない。 「おいっ」すぐそばで声がした。「この縄を解け」 あの青い目の大尉がそこにいた。手足をがっしりと縛られている。 「解いてどうする?」 「対リアル用のプラズマ銃がある」 怪物が副社長を引きずり始めた。 「よこせ」 シュウは手を出して腰から奪おうとした。 「やめとけ。特殊な銃だ。初めての奴には使えない」 大尉は傲然と言い放った。シュウは嘘だと思ったが、無言でひざまづくと、すぐにナイフを取り出し、ロープを切って大尉を自由にした。 大尉はロープの切れ端を振り捨てると、腰からラッパのような形をした銃を抜き、怪物に向かって照準を合わせた。 怪物はすぐ目の前の、見上げる位置にいた。 引き金が引かれた。黒い光線が怪物の下腹へと伸びる。 効果はてきめんだった。 『やーめーろーっ』 怪物は人とも獣ともつかない声で吠えると、円盤のボディを裏返して、立て込んだ装置の後ろに倒れ込んだ。 大尉は機を逃すまいと床を蹴り、机を踏み台にして、倒れずに残っていた戸棚の上に躍り上がった。 「油断するな」 シュウが声をかけると、大尉は床に向かって唾を吐き、 「俺にはアフリカの猛獣狩りの血が混じってるのさ。そこで見てろ」 と早口でまくしたてた。 シュウは別の一匹に警戒の目を向けた。 黒い光線が発射されると、萠黄は頭の中に焼かれるような激痛を感じた。逸れた光線の一部が彼女のほうにも飛んできたのだ。 萠黄と対峙していた怪物も同じだったようだ。グアッとうなると円盤を傾げた。回転刃が当たるものをことごとく削っていく。 副社長を捉えた怪物は、ひっくり返ると、起き上がる力が出ないのか、じたばたと暴れている。 短い会話が聞こえた。撃ったのは誰? 見ているうちに、戸棚の上に男が現れた。銃を構えている。唾を吐いて何ごとか言い捨てると、男の銃が黒い光線を発射した。 ついに黒い光線が怪物の動きを止めるのか──。 「あっ」 ボンッと破裂音を響かせ、回転刃が空中に飛び散った。 それは一種の小型ミサイルだった。刃のいくつかは萠黄のそばの壁を、ガツッと砕いて突き立った。 驚いて戸棚に視線を戻す。すると、身体に無数の刃を受けた大尉が仰向けに倒れていくところだった。 相撃ち。なんという怪物の攻撃能力だろう。 怪物の脇には、身体を真っ二つに裂かれた副社長の遺体が転がっていた。 萠黄は黙然と頭を垂れると、すぐ眼前の敵に注意を戻した。残された怪物は、兄弟を救いに向かおうとして、思いとどまったようだ。 視界の片隅で、大きな火が燃え上がった。シュウがリアルパワーを失った怪物に放ったのだ。火の色は思わず見とれてしまうほど美しい青だった。ラピスラズリ──瑠璃色と言えば近い。 (わたしが燃えても、あんな色が出たらええけど) 萠黄は背中の伊里江を床に下ろした。 「さあ、残るはアンタひとりや」 自分の恐怖心に打ち勝つため、萠黄は怪物に語りかけた。円盤の怪物は反応を見せない。 「真崎さん──もう終わりにしよ。嫌われ者同士が争っても、何の得にもならへんよ」 「………」 「あなたがどんな思いでリアルを追っかけてたんかは知らん。けど、この世界に放り込まれて、すぐ自分がリアルやて判ったよね? それやのにずっと隠して追いかけてたやなんて、ぶっちゃけ、わたし感心するわ」 『……たかった』 えっ? 萠黄は耳をそばだてた。 『ほ……めら……れたか……た』 萠黄は耳を疑った。 「ほめられたかった……って、誰に?」 問いかけた瞬間、怪物は数本の刃を投げてよこした。萠黄はエアシールドでこれらを跳ね飛ばした。 「やめなさいっちゅーてんの」 また刃が飛んでくる。今度も萠黄には一本も届かない。 「わたしらはストレスが強かったから、この世界に呼ばれたんやて。知ってた?」 萠黄は一歩前に出た。 「思い出したら、心当たりがあったわ。二週間前の明け方……ううん、その時だけやなくて、わたしは毎日がストレスの連続やった。親友のむんがいてたから大学には入学したけど、そやなかったら、ずっと家の自分の部屋に引きこもってたと思うわ。普段から引きこもりがちのわたしは、パソコン相手にプログラミングして、PAIのバージョンアップして、そんなんばっかりしてたんよ。なんでわたしは外に出られへんのやろ、なんでむんみたいにバイトしたりでけへんのやろって、始終悩んでた。わたしは他のコとは違うんやろか、きっと違うんやなって、毎朝毎晩、自問自答してた。できそこないやって、さげすみもした。……でも、そんなこと考えてたから、こんな世界に来てしもたんやね。あはは」 また一歩前に出る。怪物はわずかだが後ずさった。 「清香さんも、あの朝は森の小道を歩きながら、自分の音楽のことで悩んでたって言うてはった。植物状態やった炎君もきっとそうやろうし、ハジメさんも、齋藤のお爺ちゃんも、五十嵐さんも、柊さんも。それに、ハモリさんや、出会う前に亡くなった他の人たちも。……それに、あなたも大きな悩みを抱えてたんやね、真崎さん」 とうとう萠黄は、怪物を壁際まで追い詰めた。イカのような肢に支えられ、回転する刃を持ったベージュのボディはゆらゆら揺れるばかりで、萠黄のアンテナにも、形のある思考は読み取れなかった。 「あなたはリアルキラーズとして十分働いたやん。後はあなたもわたしも含めて、生き残ってるリアルがみんなこの世界からいなくなったら、それで終わり。あなたがほめてほしいと思てる人も、きっと認めてくれるんとちゃうかな。真崎さんのがんばりを、ようやったって。そやからもう争うのはやめて、わたしらと一緒に──」 「萠黄さん。どくんだ!」 シュウの声が、萠黄と怪物を包んでいた空気を破った。彼は手の中の対リアル光線銃の照準を、ピタリと怪物につけていた。 「シュウさん、ちょっと待って──」 「伏せろ!」 シュウは叫ぶや、光線を放った。しかし怪物の動きは遥かに敏捷だった。全ての肢で床を蹴ると、見事に光線をかわし、そのままシュウ目がけて突進した。 危ない、と萠黄も遅れて跳躍すると、空中で身体を傾けたまま、エアボールを怪物の下腹に投げ込んだ。 空気の塊を喰らった怪物は、飛行コースを変えられて、プラズマ装置へと突っ込んだ。 巨大な円錐が崩れ落ち、そばで燃えていた火が移って、たちまち装置は熱によって歪み始めた。 シュウはその火をかいくぐって、装置の下を無事脱出した。そして迷彩服がくすぶっているにもめげず、さらに光線銃を連射した。怪物は激しく動きながら、広い研究室の中を逃げ続ける。 萠黄も追った。 どんな形にせよ、ここで決着をつけなければならない。そう思えば思うほど、心臓が破裂しそうなほど高鳴った。 「くわっ」 シュウが突然倒れた。萠黄はあわてて飛び降り、エアシールドでシュウの身体を覆った。 シュウの右腕に怪物の太い歯が刺さっていた。刃を抜き取ると、赤い砂がすさまじい勢いで噴出した。萠黄はパワーを込めた手の平で、傷口をしっかりと押さえた。 「大したことはない」 シュウは言ったが当てにはならない。萠黄は一層腕にパワーを込めながら、目だけは怪物を追跡すべく、空中を見上げた。 ズズズーン。 室内が激しくゆれ、コンクリートの大きな塊がふたりのすぐそばに落下した。萠黄はシュウを庇って彼の上にかぶさった。 「天井が落ちてきたぞ!」 シュウは頭上を指さした。萠黄が見上げた時、天井の一部と思われる塊が彼女の上に落ちてきた。だがエアシールドは完璧にそれらを受け止め、脇へと払い落としてくれた。 細かなホコリが暗い室内を一面の灰色にした。すぐには何が起きたのか判らなかった。 (しもた、ハジメさんが!) 視界はもうもうと舞い上がったホコリで何も見えない。崩落は手の平を空中に向けた。手の平の先に精神を集中させると、ホコリが一カ所に集まり始めた。 みるみるうちに視界が晴れていく。だがそこに怪物の姿はなかった。そして天井には巨大な穴が空いていた。 「逃げたな」 シュウが舌打ちした。そのあいだに、萠黄はハジメを探した。 ようやく発見したハジメは落ちた天井の下敷きになっていたが、幸い意識はあった。 「俺、もうダメみたいだよ」 事実、彼は腰に最も大きな直撃を受けていた。あまりの痛みに呼吸すら困難なようだった。 「アホなことは、聞く耳持たんからね」 萠黄は重傷のハジメを慎重に背負った。 「マズいぞ」シュウが対リアル銃を腰にはさんで駆け寄ってきた。「先に地上に逃げた久保田たちが危ない」 萠黄はハッとなり、すぐに眉を引き締めると、力強い声で言った。 「このまま行きます。わたしのそばに来て」 萠黄はハジメとシュウを空気でくるみ、ふんわりと宙に浮いた。そして怪物の逃げた穴に狙いを定め、一気に上昇を開始した。 地上に抜けた途端、雲の欠片もない青空に一瞬目がくらんだ。 ふたりを抱えた萠黄は、エアクッションで地上に軟着陸した。彼女はすでに怪物の姿を捉えていた。 瀕死のハジメは、やわらかな地面を見つけて寝かせた。 シュウは対リアル銃を抜いて、萠黄の前に出る。 怪物は崩れた瓦礫の真上にいた。萠黄は怪物の回転刃を睨みつけた。 怪物はなんと、久保田を始め、揣摩、柳瀬、雛田、清香、炎少年、そして伊里江の全員を人質として、その蠢く肢の中に捕えていたのだった。 「その人たちを放しなさい」 萠黄の声はリアルパワーに乗って、瓦礫を震動させた。 『……じゅう……を……すてろ』 シュウは構えを下ろさず、怪物に一歩二歩と近づく。 『……とまれ……うてば……こいつら……も……つぶれて……しぬ』 「卑怯な奴め!」 シュウの声が虚しく轟いた。 『おまえ……そのじゅうで……もえぎを……うて』 怪物のおぞましい形をした唇が、にやりと笑ったように見えた。 『おれが……しぬのは……もえぎ……おまえのさいごを……みとどけてからだ』 |
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