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研究室の異変の原因が、何者かによる攻撃であることは明らかだった。 銃声。怒号。爆裂音。そして、およそ状況には不似合いな、気持ち悪いほど間延びした〈遠吠え〉。 (猛獣──) それは動物園から逃げた虎かライオンを想像させ、萠黄の足を暫時、萎縮させた。 回廊の真ん中で見上げた入口は、恐竜の爪に掻きむしられたように斜めに深々と抉られており、扉は全く原形をとどめていなかった。 また遠吠えが空気を切り裂いた。続いて銃声。 萠黄は急いで扉をこじ開けた。 「なんで……」 その瞬間、萠黄は悪夢がよみがえったことを認識した。 倒したはずの円盤の怪物。そいつは小振りになって再び現れたのだった。逆方向に回転する二重の刃も、WIBAで見た時より格段に数を増しており、ボディの中央に空いた穴から奇矯な声を吐き出すと、逃げ惑う仲間に次々と襲いかかっていた。 「真崎ぃぃぃーーーっ」 萠黄はエアボールを握りしめ、力いっぱい投げつけた。しかし、怪物は軽々と宙返りでかわし、萠黄に向かって一直線に向かってきた。 『もーへーぎー、みーふーひーはーもーへーひー』 怪物の奇声は萠黄の名を呼んでいた。萠黄は生理的嫌悪感を感じて、部屋の隅へと逃げた。怪物は萠黄がいた床に突っ込むと、ガリガリとけたたましい音を立ててもがいた。 (みんなは無事?) 焚き火があちこちに飛火したせいで、室内はさっきよりも明るくなっていた。それでもほとんどが暗がりの中に没しており、萠黄は必死に目を凝らさなくてはならなかった。 真っ先に発見したのは、焚き火を背に銃を構えたシュウだった。萠黄はジャンプし、彼の横に着地した。するとシュウは、 「やっと帰ってきてくれたか」 と、疲れた顔をかすかにゆるめた。 「ハジメ君はどこにいてるの?」 「右側のロッカーの下で気を失ってる」 シュウは顎をしゃくった。揺らめく火に照らされた丸い壁の下にハジメの姿があった。背にしたロッカー群の潰れ具合が彼の受けた攻撃の強さを物語っている。 「伊里江君と炎君にパワーを割き過ぎたようだ。彼らしくもなく一撃で吹き飛ばされてしまった。なので我々は部屋の中を逃げ回りながら、君の帰りを待ちわびていたんだ」 萠黄は当惑した。プロの傭兵が明らかに彼女を心強い助っ人だと感じている。 (何をアホな!) シュウはそんな萠黄の心の動きを読み取ったらしく、顔を前に戻すと、短い言葉を投げてよこした。 「自覚を持て。──来るぞ!」 萠黄は目眩を感じたが、首をひと振りして、すぐに顔を上げた。他の仲間が無事かどうか、訊ねる暇もなかった。 「もーえーひー、もーへー」 怪物は再び襲いかかってきた。 萠黄はもう一度エアボールを正面から投げた。怪物はドンッという音を発してはじかれると、ブーメランのように斜めに飛んで側面の壁に突き刺さった。 地下競技場の戦いの再現だ。 それにしても芸がない。この怪物の攻撃は一本調子だ。 ヤツはもともと、本体の一部が千切れて誕生したに過ぎない、半端な生き物だ。萠黄の名前を呼ばわるところを見ると、ひたすら彼女を追うことだけが本能として刷り込まれているだけで、真崎だった頃の記憶は残っていないのではないか? 壁にはまった怪物は、なかなか抜け出すことができずに往生している。 「どうすればヤツの息の根を止められる?」 油断なく銃を構えながらシュウが訊ねた。しかし萠黄には答えられなかった。 (わたしにはスーパーヒーローのような必殺ワザなんてない。相手がコンピュータやったら、ウイルスで倒すこともできるけど。それに……) 怪物はまだ壁から自由になれないでいる。 その姿がひどく惨めに映った。真崎はリアルだった。だからこの怪物も正真正銘のリアルだ。自分と同じ境遇の生き物なのだ。なのに自分までリアル狩りに手を貸すなんて──こんな皮肉があるだろうか。 (くっそーっ、どないしたらええっちゅうねん) 奥歯がギリリと鳴る。爪が手の平に食い込む。 「萠黄さん!」 シュウが催促する。だが萠黄は動けない。どうしていいのか判らない。 すると彼女の背中に、萠黄、と呼びかけた者がいる。 「何とかしてくれ。このままではみんなやられる!」 父親の光嶋博士だった。振り向くと父親に寄り添うように、雛田や清香らが息を潜めている。 ここに至って頼みの綱は、リアルの中でも萠黄だけ。そんなヴァーチャルたちの強い期待に背中を押され、父親としては檄を飛ばさずにはいられなかったのだ。 萠黄はきっと振り向くと、鋭く言い放った。 「戻ってこれるとは思ってなかったんやろ?」 炎に揺らぐ父親の顔が翳った。 雛田が「何のことだ?」という表情を見せる。 萠黄はいまこそ、父の「すまん」の意味を悟った。 『この世界を守るための犠牲にしてしまって、すまん』 そう謝りたかったのだ。 善人にも悪人にもなりきれない父。 調子、良すぎや! ガチャンとガラスの割れる音が響いた。萠黄は視線を戻す。散らばった炎に浮かび上がる室内は、さながら爆撃現場のようだった。 「何があった?」 「えっ」 「出ていった時よりも服装が汚れている。地下での作業は、楽ではなかったらしいな」 さすがにシュウの観察眼は並ではない。 萠黄は黙って首を振った。しゃべりたくなかった。シュウもそれ以上、追求しなかった。 二、三分が経過した。 壁の怪物は、依然として抜け出せないでいる。萠黄は張りつめた緊張の糸が、徐々にたるんでくるのを覚えた。シュウが見えている腹に向け、一発銃弾を発射したが、座布団にビー玉を叩きつけたような手応えしかなく、銃弾はぽろりと床に落ちた。 そうだ、とシュウは平板な声でつぶやいた。彼はどんな状況でも淡々としていて、声の調子がほとんど変わらない。 「米兵の対リアル用の光線銃があったはずだ。アレを使おう」 そう言って、辺りに目を走らせた。 なるほどその手があったか。萠黄は感心した。自分は撃たれる側だったので、そこまでは考えが及ばなかった。 (そや。怪物の思考を読まれへんやろか? 相手は猛獣やし期待でけへんけど) たちまち頭の先から角のように、見えないアンテナが伸びていく。操りかたにも随分と馴れた。 (……も……えぎ) それらしき反応をすぐに捕捉した。 (……頃合い……そろそ……ろ……逸れ始……めた……注意) どういう意味だ? そもそも怪物は意味のある思考が可能なのか? 萠黄がさらにアンテナの受信範囲を狭めようとした時、別の思考が割って入った。 (……OK……行く!) 怪物に似ていたが、別な場所から発した言葉だった。そしてそのひと言には、行動への強い意志が込められていた。誰だ? 無音の圧力を全面に感じて、萠黄は暗闇の一点に目を据えた。すると獰猛で狡猾な意思が、唐突に暗闇の奥から突進してきた。 萠黄は咄嗟に身体を反らし、間一髪で攻撃をかわした。 回転する刃が彼女の片頬をかすめた。その瞬間、視野の片隅に、壁に刺さったままの怪物の姿を認めた。 (しまった、二匹いてたんか!) 同じ手に二度かかった。萠黄は頭の中で敵を甘く見たことを悔やんだ。 しかしそれも一瞬のこと。萠黄を捉え損ねた怪物は、勢い余って彼女の背後に突っ込んだ。そこには光嶋博士がいた。 ガリガリと金属を掻く音に、悲鳴が重なった。 萠黄は転がったまま空気で鞭を作り、怪物を力いっぱい払った。怪物はフリスビーのように反対側の壁へと飛んでいった。 急いで父親のそばに駆け寄る。しかし雛田に助け起こされた光嶋博士は、腹を真っ赤に染め、すでに事切れていた。萠黄は両目をぎゅっと閉じ、赤い砂を手ですくった。が、すぐに払い落とし、全身に緊張を走らせ、戦闘態勢をとった。 一匹目の怪物がのそりと壁から抜け出した。二匹目も体勢を立て直そうとしている。両者の刃はそれぞれ一枚しかない。あたかもハンバーガーのパティを上下に分けたようだ。元の怪物がふたつに分離したことは明らかだった。 思考力がないなどとんでもない。怪物たちは、いまも真崎なのだ。 萠黄はシュウに、隙を見て外に逃げるよう指示すると、ハジメのそばへと向かった。 ハジメは口から血を垂らしていた。名前を呼んで身体を揺さぶるとようやく目を開き、やあと力なく微笑んだ。 「肋骨が二三本いっちゃったみたいだ。ザマぁないな」 そんなものではないはずだ。おそらく内臓も傷ついているに違いない。 「ムチャするから……。ふたりにエネルギーを分け過ぎたんでしょ」 伊里江と炎少年の姿はベッドの上から消えている。誰かがふたりを安全なところへ避難させたようだ。 チェーンソーのような回転音が左右から近づいてきた。萠黄たちのいるところは、焚き火にまともに照らされて、どこからでもよく見えた。二匹は今度こそ逃がすまいと、じりじり間合いを詰めてくる。萠黄はハジメを背負い、扉から離れる方向へとゆっくり足を動かした。 (陽動作戦は、アンタらの専売特許やないからね) こうしているあいだに、久保田や雛田たちが逃げおおせてくれればいい。どうせ怪物の狙いはリアルだし、中でも自分が一番憎まれているようだし──。 萠黄の思いは通じたようだ。今のうちに安全なところへという皆の考えがアンテナ伝いに聞こえてくる。 よし。もうちょい時間が稼げたら──。 だが萠黄の計算は、予期せぬ人物によって狂わされた。 |
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