Jamais Vu
-343-

第23章
光道の果て
(30)

 足首にまとわりついた手は、妙に熱っぽかった。
 バランスを崩した萠黄は、右手で頭を庇いながら床に転んだ。正体を確かめようと向けた目は、暗がりの中にザワザワと蠢く怪物の姿を映し出した。
 恐怖に身体がすくむ。それでもエアボールで迎撃しようと、背中を床にして構えた。
 しかしその手がすんでのところで止まった。怪物が人間の女性の声を発したからだ。
「苦……しい……」
(──逃げ遅れた研究員さん?)
 萠黄は足首を離さない手を握り返し、力を込めて女性を暗がりから引きずり出した。
 女性は黒く焦げた卵の殻のようなものに覆われていた。萠黄は足首の手を優しく外すと、彼女の長い髪にかかった殻を払ってやった。
「大丈夫です……か──」
 そこまで言って、今度は言葉が凍りついた。
 萠黄の前に現れた女性は“清香”だった。
 よく似た女性だ! そう思おうと、頭の中で混乱と格闘する萠黄に対して、彼女は荒い息遣いの下で、
「萠黄さん……」
と呼びかけてきた。
 異常を感じてやってきたシュウや久保田らも、口をあんぐりと開けて立ち尽くした。
 萠黄は雛田を振り返った。彼はまだ壁際に座り込んでいた。そして、その手の中にはまぎれもなく彼の娘の死に顔があった。
(清香さんが、ふたりいる………………)
 清香似の女性はフラフラと立ち上がり、身体をブルッと震わせると、肩や髪にかぶさった殻を振り落とした。
「わたし、どうしてたのかな」
 その高く可愛らしい声は間違えようがない。萠黄はもう一度雛田のほうを見やり、目の前の女性を恐る恐る見上げた。
「本当に、清香さんなん?」
「あら、萠黄さんが助けてくれたのね──キャッ!」
 ふたり目の清香は悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。萠黄もようやく気づいたが、彼女は全裸だったのだ。
 シュウは探してきた白衣を放ってよこし、萠黄は急いで彼女に着せかけた。
 目の前の女性は確かに実在する。驚きと恐怖を感じながら、萠黄は彼女をそばの椅子に腰かけさせた。
 女性は震えながら何度も髪をかき上げた。その動作に萠黄はアッと叫んだ。女性は不安げな目で萠黄を見た。
「清香さん……あなたは……ヴァーチャルやね」
 そこにいた人々は息を飲み、互いに顔を見合わせた。
 清香は常に右手で髪を梳いていた。それを萠黄は思い出したのだ。
(なんてことを……)
 萠黄は全身に鳥肌を立てた。
 突拍子もない事態ではあるが、プラズマ噴流を浴びせられた清香は、リアルとヴァーチャルに分離したのだ。
「嘘だろう?」
 いつの間にか、背後に雛田が立っていた。萠黄は道を空けると雛田に向かい、
「嘘じゃありません。清香さんは、ヴァーチャルとして生まれ変わったんです」
 すると雛田は顔を左右に振り、そして両手で自分の頬を激しく張ると、
「リアルだろうがヴァーチャルだろうが関係ない。私の娘だ!」
 彼は駆け寄って、白衣の上から清香を抱きしめた。わずかに身長の高い清香も父親の首に腕を回した。
(こんなことって──)
 萠黄は目を壁際に転じた。そこには痛ましい姿で横たわる、リアルの清香が永遠に眠っていた。

 萠黄は回廊に出てきた。
 いろんなことが一度に起き、心の中は台風一過の海岸のように、雑多な漂流物であふれていた。とにかく今はすべきことを早急に片付けよう。当初の決心を思い出した萠黄は、研究室を後にしたのだった。
 手には二枚のカードキーが握られている。これで全てのデータを削除する。それが自らに課した最後の使命だ。
 足が階段にかかった。核シェルターは地下十階の、まだ下だ。
 ──ギュンッ。
(………?)
 奇妙な音がした。階上からだった。
 萠黄はギョッとして、下ろしかけた足を止めた。
 しかし音はそれっきりだった。
(今のは何? どこかで聞いたことがあるような)
「俺もついていこうか?」
 シュウが研究室の入口から心配げな顔を向けた。
「ううん、大丈夫」
 萠黄は邪念を振り払うと、階段をリアルならではのハイスピードで駆け下りていった。

 たまらないぜ。
 クビだぞと脅されて研究室に残ったものの、暴れ放題のリアルには空気玉を投げつけられるし、リアルの生んだ卵から同じ人間がヴァーチャルになって生まれてくるし。頭脳明晰が自慢のこの山上様でも、さすがにショックは隠せないぜ。
 この世界は狂ってる。あってはならないことばかり起こりやがる。
 全ての元凶は伊里江真佐吉だが、こっそり聞いた博士の話では、真佐吉亡き現在、残された問題はリアルだけだとのこと。
 奴らが消えてなくなれば、この狂った世界にも多少はマシな明日が来るのかも知れない。
 ──伊椎研究所から派遣されて、俺の給料は数倍に跳ね上がった。今回の事件もうまく解決すればケチな副社長もボーナスに色を付けてくれるんじゃないか。そのためにも、世間から評価を得る形で、きっちりとした手柄を立てないといけない。
 シュウという男が、たったいま扉を離れた。
 ついさっき、萠黄がひとりで地下に向かったのだ。
 リアルは不意を突きさえすれば倒せる。前々から言われていたことだ。ところが奴らはやたらに勘が鋭い。隙を突くなんて無茶だ。
 しかし──この建物の中なら、勤務歴一年の俺のほうに分がある。残念ながら、地下シェルターに入る権限はいまだにもらえてないが、そこまでのあいだで狙いをつければ、俺にもチャンスはあるはず。
 よし、誰にも気づかれずに回廊に出られたぞ……げっ、萠黄のヤツ、もう姿が見えない。チクショー、急がないと間に合わない。
 おや? 上の階で物音がする。機械音みたいな。まさかアイツ、下に行く前に上に寄ったのか? ちょっと様子を見てみよう。
 ──うわわっ。何だコイツ! お、俺の腹が……!
 ま、また来やがった!
 来るな!
 来るな!
 来────。

(ここがサーバルームか)
 数日のあいだ、軟禁された部屋のある地下十階を通過し、最初の扉を一枚目のカードキーで開いた。そして点々と灯る暗い電灯の下を歩いていくと、突き当たりに目指す部屋があった。
 二枚目のカードキーを、扉の横の読み取り装置に滑らせる。ガコンと重々しい解錠音がして、扉は手前にせり出した。隙間から中を覗く。
 細長い部屋だった。奥行き十メートルほどの空間の中央に、電車のように並んだ四角いサーバが静かなファンの音を立てていた。
 他には、隅にコンソールとキーボードの乗ったテーブルがあるくらいだ。サーバ様の個室は実に殺風景だ。
 一歩中に入る。周囲の壁には一定の間隔で穴が空いていた。手を当てるとひんやりとした空気が吹き出していた。空調システムも完備だ。人間はひとりもいないのに。
 のんきに観察している時ではない。萠黄はタッタッとコンソールに近づくと、ポケットから携帯を取り出した。雛田に借りたそのメモリには、萠黄のPAI、モジがカバ松と同居したままである。
「しっかりね」
《へいへい》
 まずは携帯から引き延ばしたコードをコンソール横のコネクタに差し込む。これでモジはサーバに侵入し、ウイルスをバラまくという手はずだった。
 ふいに頭の中でアラームが鳴った。
 空調の音が若干高くなったかと思うと、鼻腔に違和感を感じ、次いで頭の奥にチクリと痛みが走った。
 携帯を持った手であわてて鼻を押さえる。空調の音はさらに高まった。そしてそれに合わせたように、部屋の扉がプシューッと密閉音を鳴らして閉じてしまった。
 壁の穴から出る期待は、明らかに別のものに変わっていた。
 毒ガスだ!
 萠黄は急いで携帯を離すと、エアボールを扉の小さな窓に目がけて投げた。
 しかし扉は遥かに頑丈だった。エアボールはわずかにへこみを作っただけで跳ね返された。さらに二投、三投と試みても、ほとんど成果は得られなかった。
 萠黄は厚い空気の層を作って身体を包み込んだ。
 頭痛が広がっていく。立っているのがやっとだ。
(考えろ。何か方法はあるはずや)
 床に四つん這いになり、顔を上げて室内を見渡す。あるのはサーバの大きな筐体、小さなコンソール、キーボード、テーブル、椅子。
 萠黄はその中のひとつを選び、全リアルパワーを使って覆い込んだ。
 選ばれたのはサーバだ。萠黄のパワーは筐体をまるごと抱えると、周囲から強烈な圧力をかけ、握りつぶした。
 イヤな破壊音が狭い部屋に響く。ただ破壊するだけではない。スクラップと化したサーバをさらにペシャンコにし、細長いロケット状に整形した。
 ガスのせいで、目からは堰を切ったように涙があふれ出す。ありったけのパワーをサーバに送ったので、身体の防御が手薄になっていたのだ。
 スクラップがドスンと床に落ちた。集中力がダウンしている。アカン、思うように焦点が合わへん。
《なんじゃこらァ! 罠やんけーっ》
 モジの雄叫びが耳を打った。
(罠──?)
 誰が、何のために?
 どうしてわたしが──まさか……!? 
 萠黄はカッとまぶたを開いて、四つん這いのまま前進した。そしてスクラップに右手を添えると、再び宙に浮かせ、ぐるんと回した。
「イケーッ!」
 スクラップは激しく回転し、そのまま扉へと激突した。扉は紙のように押し潰れ、スクラップを突き刺したまま、火花と煙を上げて廊下を滑っていった。

 とぼとぼと重たい足を交互に動かし、ようやく階段下にたどり着いた。
 萠黄の心は、沈鬱な思いに打ちしおれていた。
 サーバにアクセスするには、もう一枚カードキーが必要だったのだ。後でよく見ると、テーブル横の判りにくい場所に、カード読み取り装置があった。萠黄が受け取ったカードキーは一枚足りなかった。
 そしてカードキーを使わずに、不正にアクセスしようとする者がいれば、ただちにガス攻撃をおこなうよう、罠が仕組まれていたのだ。
 最初から萠黄を消すつもりだった。
 この世に害を及ぼすリアルとして。
 たまらず萠黄は階段に腰を落とした。膝に置いた右腕に顔を埋め、ひとしきり泣いた。
 ポケットの中では、モジが代わりに怒りを炸裂させていた。
 どれくらい経ったろう。物音に萠黄は我に返った。涙を拭うと頭上の階段を仰いだ。
 激しい金属音。悲鳴。
 萠黄の全身は雷に撃たれたように緊張した。
 彼女はすぐさま跳躍した。わずか十数秒で彼女の身体は研究室の前に帰り着いた。
 そんな萠黄を、最後の〈敵〉は舌なめずりをして待っていたのだった。


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