Jamais Vu
-342-

第23章
光道の果て
(29)

 扉から光が差した。
「萠黄さーん、いるかい?」
 小声で呼んだのは雛田だった。
「……はい」
 萠黄は応じると、居場所を教えるため、青いペンライトを拾って左右に振った。
 真っ先に入ってきたのはハジメで、シュウ、雛田、揣摩、柳瀬が続いた。彼らは手に手に、火の灯った木切れを松明のようにして歩いていた。
 雛田はすぐ状況に気づいた。松明を放り出し、萠黄のそばに駆け寄ると、そのままストンと膝を落とした。
 差し出された両手に清香を渡した。
 雛田はしばし慟哭した。
 誰も声をかけなかった。
 真っ暗な部屋で、松明の火が作る研究機材の影だけが、小人の踊りのように蠢いていた。
(まともな親子の名乗りもしてなかったのに……)
 萠黄はアンテナを閉じた。そうしないと、雛田の激情に足許をすくわれそうな気がしたからだ。
 泣いている余裕はない。
 まだやるべきことが残っている。
 萠黄は入ったのとは別の扉の前に進んだ。
 ふたつのベッドが並んでいる。一方には伊里江が、もう一方には炎少年が横たわっていた。
「よか、った、来て、くれたんや」
 炎少年が口を動かした。ペンライトの弱い光で見る限り、少年の身体には異常は見られなかった。
 逆に伊里江は無惨な様をさらしていた。抜けた髪が周囲に散らばり、お仕着せから覗く皮膚には紫色の斑点が浮き出ている。虚ろな目は開いたまま、まばたきもせず、胸の上下するのが、かろうじて彼の生を知らせていた。
 ひとつ息をついて動揺を抑え込むと、萠黄は炎少年の首に手を置いた。リアルエネルギーを注入する。炎少年はすぐに身体を動かし始めた。無理にも手を伸ばし、上半身を起こそうともがいている。動けないことが、車椅子生活を思い出させるからかもしれない。
 交代に今度は伊里江の首筋に触れる。しかし伊里江にはなかなか生気が戻ってこなかった。斑点の色が心無しか薄まった程度である。
 誰かが萠黄の肩を叩いた。ハジメである。
「俺が交代する。親父さんがいるぞ。知ってたか?」
 父が。
 やはりここにいたのか。
 ハジメは親指で背後を指さし、早く行けと促した。
 部屋の真ん中では、揣摩と柳瀬が落ちていたプリンタ用紙をくしゃくしゃにして、焚き火を作っていた。
 シュウは萠黄のエアボール攻撃で倒された米兵たちをロープで手際よく縛り上げている。
 萠黄は炎に照らされたプラズマ放射装置を一瞥した。デジタル表示の数字は、ゼロを示している。
 光嶋博士は装置を回り込んだところに横たわっていた。
「萠黄か」
 先に声をかけたのは父親だった。彼は身体を持ち上げようとして、痛そうに額の痣に手を当てた。萠黄のエアボールが当たったのだ。
「……その腕はどうした?」
 博士は焚き火を背にした娘のシルエットに驚き、目を見はった。萠黄はTシャツの左袖を右手でヒラヒラとはためかせ、
「怪獣の相手をしてて」
と自嘲気味に答えた。
「そうか……大変だったな」
「お父さん。わたしがここに戻ってきたのはね──」
 判ってるよと博士は手の平を見せた。
「判ってる。ブラックホール生成に関するものを全て消去しようというんだろう?」
 萠黄はウンと頷き、片膝を床に着いた。
 博士は背広の内ポケットから二枚のカードを取り出すと、
「この建物の最下階に地下シェルターがある。そこにはバックアップデータを蓄積するコンピュータサーバが置いてある。データはアメリカ側にも伊椎製作所の本社にも一切出していない。だからそのサーバを破壊すれば、完成したブラックホール生成装置に関する資料やデータはこの世界から消滅する」
 博士は顔を上げた。つられて萠黄も見上げる。円錐を擁する巨大な装置。これがそうだったのか。萠黄はしばし見つめると、目を父親に戻した。
「このカードキーは、シェルターに入るためのものと、サーバ室に入るためのものだ。エレベータは動かないので、階段で行きなさい」
「なんで──?」
 萠黄は戸惑った。容認するどころか、協力?
 博士はそれに答えず、萠黄の後ろの焚き火を瞳に映しながら、
「……状況に流されるのが父さんの悪い癖だった。誰も傷つけたくないから、いつも大事な場面で逃げてしまう。そして気がつけば、こんなところまで来てしまった。人類が食べてはいけない果実に手の届くところまで……」
 博士は娘を見た。萠黄も父の視線を受け止めた。
「もう少しで取り返しがつかなくなるところだった──が、萠黄、お前が現れた。私には宇宙の意思がそうさせたような気がしてしょうがないよ」
 萠黄は首を傾げた。言ってることが理解できない。
「長年この研究に携わってきたが、知れば知るほど判らないことだらけだった。理解できたと思うと、すぐその先に深遠な謎が横たわっている。転送装置に続き、小型ブラックホール生成装置を完成させたが、まだまだ未知の領域だらけだ。……でもね──今になって何だが──こんなものを作るべきじゃなかったと悔やんでいる」
 いつの間にか、シュウや久保田らもそばにいた。
 博士は大きく息を吸い込んで続ける。
「宇宙は謎に満ちている。それでも私は常々気品あるバランス≠ニいうものをそこに感じていた。ブラックホールのような特異な存在にしても例外ではない。……なのに彼らは畏敬の念を持つこともなく、ブラックホールのクローンを作るのに躍起になった。これこそ宇宙万物の運行をつかさどる神の逆鱗に触れる所業言わずして──」
「お父さん」
 萠黄は父親の肩を軽く揺すった。博士は突然夢から醒めたように驚いた顔をした。
「教えて。わたしらリアルはこれからどうしたらええのん? 時々リアルエネルギーを発散させながら、互いに遠く離れて生きていく……。そんな孤独な人生しか選択肢は残されてへんのん?」
 博士はしばしまぶたを閉じた。そして再び開くと、
「萠黄。これから大事なことを言おう。気を落ち着けて聴きなさい」
「……うん」
 博士は深く息を吸うと、
「人工ブラックホール研究の初期の段階から、ブラックホールの生成には、あるイオンが密接に関係していることが判っていた。我々はこれを仮にBHイオンと呼んでいる。人工ブラックホールが誕生する際には、このBHイオンが多量に発生するんだ。BHイオンは不安定さの尺度でもある。だからブラックホールが安定すると発生は止まる。
 北海道消失の際にもおびただしいBHイオンが計測された。このヴァーチャル世界でも、空中に均等に存在しているんだよ。
 厄介なことにBHイオンは増えることはあっても減少しない。そしてなんと、君たちリアルがパワーを使ったりエネルギーを発散するたびに、空中に含まれるBHイオンは増大していたんだ。一時期、君たちにセンサーを取り付けさせてもらったね。得られたデータを分析した結果、それがハッキリした。
 ──思い出してみてくれ。ヴァーチャル世界は十二人のリアルを〈種〉として生まれたコピーだ。促成栽培のイミテーションだ。それもリアルが爆発するまでのたった二週間という期限付きのはずだった。だから……そのしわ寄せが、人体の砂状化現象として現れたのだろう。まるでクローンで生まれたひ弱な羊や牛のように。
 ──何を言いたいか、判るね? 地震などによるエネルギー発散は、リアル自身の爆発を遅らせるかもしれない。しかしながらそれは結局、この脆弱な世界を不安定にするだけだ。しかもいずれは……世界を崩壊へと導く避けようのない一本道なんだ」
 衝撃だった。
 それではハジメの生き残り作戦すら、意味をなさないことになる。
「死んだ人──亡くなった人たちの身体は影響せえへんの?」
 萠黄は呆然としながらも訊ねた。
「調査したよ。遺体からはほとんどBHイオンは出てこなかった。おそらく、生きてることが最低条件なのだろうな」
 父親の返事は、さらに萠黄を打ちのめした。
(リアルの存在自体が、この世界の害悪か……)
 自分たちは生き延びることさえ許されない。
 ウォーッとハジメが吠えた。彼にも博士の話が聞こえていたのだ。
「俺たちがこんな事に巻き込まれる理由なんてない! なのになんで……」
 その先は泣き声混じりになり、よく聞こえなかった。
 萠黄も同感だった。この十三日間で何度目かの憤りが胸を突いた。よりによって、どうして自分たちが──
「なんでなん?」
 我知らず詰問調になった。語り続ける博士に、萠黄は昔、一緒に生活していた頃の父親の面影を見ていた。萠黄の幼い問いかけに、いつも丁寧に答えてくれた父。だから問えばどんな疑問にも答えてくれるような気がした。今もそうだった。
 父はやはり答えを用意していた。あくまでも仮定だがと断って、
「人間はストレスを感じる時、微量のBHイオンを脳内に作り出す。……そこから推量すると、真佐吉の人工ブラックホールは、大きなストレスを抱えた人間を選んだのかも知れん。あの日、あの時刻に」
 十三日前の早朝。
 まどろみの中。
 ハンマーで殴られたような頭痛の嵐。
 萠黄は父親の手から二枚のカードキーをひったくると、後も振り返らずに出口に向かった。
「……すまん」
 父親の小さな声が聞こえた。萠黄は無性に苛ついた。
(何がスマンよ。何に対してスマンなんよ。わたしを攻撃するのに加勢したこと? ブラックホール研究に手を染めたこと? ──気が弱くていつもペコペコ謝ってばかりなんやから)
 とにかく地下へ行こう。データを消してからまた考えよう。
 唇を噛みしめながら、倒れた机の上を乗り越えた。
 正面に、清香の遺体に頭を埋める雛田の姿があった。
 とても見ていられない。そう思って、足早に通り過ぎようとした時、見知らぬ手が暗い中から伸びてきて、萠黄の足首を握った。


[TOP] [ページトップへ]