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実験でリアルエネルギーを抜かれた伊里江は、すぐに実験台から下ろされ、医療班によるチェックがなされた。かなり衰弱してますとの報告が返ってくると、大尉は、殺すなよ、リアルは貴重だからなと念を押した。 光嶋博士はやるせない気持ちだった。どうしてこんな事態に巻き込まれたのか。どこかで道を踏み違えたのだろう。何度も自問自答していた。 しかしそんな心の懊悩は、ガチャガチャという騒々しい音に寸断された。 エレベータの扉が開き、新たなベッドが運び込まれてきたのだ。清香と炎少年だった。ベッドは一直線に発生装置へと向かっていく。 「どういうつもりですか?」 ベッドを押しているのは米兵である。大尉に問うと、 「彼らは一時的に動けなくなってはいるが、決して内に蓄えたリアルエネルギーが消えたわけではない。放っておけば、明日には日本どころかアジアが吹っ飛ぶことになる」 「それぐらい判ってます」 「ならば」大尉の目の群青が深まった。「ただちに、残るふたりからもエネルギーを除去したまえ。まだ元気なリアルが、すぐそこまで来ているのだ。我々も万全の備えで迎撃し、彼らの好きにさせるつもりはないが、万が一前回のように手を取り合って逃げられると、一巻の終わりなのでね」 終わり。ついに明日が、ヴァーチャル世界誕生の日から数えて十四日目。世界最期の日。だが、萠黄はリアルエネルギーを発散する術を体得した。もうひとり逃亡中の小田切ハジメも、名古屋港からの報告では、やはり発散方法を身につけた可能性があるという。 米軍は、このふたりが自分たちのパワーを盾に、世界を牛耳るつもりではないかと分析している。言うことを聞かなければ自爆してやるぞ、と。 まさか萠黄がそんなことを。博士はそう言って取り合わなかったが、米軍は本気で検討し、作戦を組み立てている。 大尉が、万全の備えと表現したのは、単なる誇張ではない。研究室の内外には屈強な兵士たちが緊張感をたたえて配備に付いている。 WIBAで救出された総理は、リアルの中で唯一、萠黄だけが人の心を読み、心に話しかける能力を持っていると告げた。 誰もが戦慄した。史上最強の存在が、読心術やテレパシーまで持っているとあっては、政治的手段による交渉など不可能だ。何があっても抹殺すべし。 いまや萠黄は、真佐吉以上に危険な存在だった。 (それでも……) たとえリアルだったとしても、あの子はただの人間だ。 数日前、久しぶりの再会を果たし、恨みつらみを聞かされたが、あの時、傷を負った自分を心配すらしてくれたではないか。 (なのに私は……) 米軍は萠黄の読心能力を逆手に取った。捕まえた清香と炎少年の救難の声を聞き取ることを踏まえて、彼女らに移送先を教えた。 これまでの経過から、萠黄たちが救出にやってくることは予想できた。ヒロインになったつもりでいる。リアルの能力を過信している。そう思われていたのだ。 そして自分は──自分もその作戦に組み込まれた。志願したのだ。 この世界の母親は亡くなったと、萠黄は告げた。 生き残った片親としては、萠黄の運命を見届ける義務がある。だから自分はここにいる。 「博士」 山中が振り返った。指示を待っている。 ベッドには清香が寝かされていた。意識はあるが、首を左右に振る程度にしか身体を動かすことができない。 「それでは……先ほどと同じ手順で」 再びスイッチが入れられた。 円錐が通低音と共に伸び始める。水を飲もうとする鳥のように先端がゆっくりと垂れていく。 光が集まり始めた。ブラックホールが生まれつつある。 博士は身震いした。何度経験しても、この瞬間には馴れることができない。心のどこかに、宇宙の真理を弄んでいるのではないか、触れてはならぬものに触れたのではないかという、畏れにも似た感情が込み上げてくる。 画面の数値が九〇〇〇を超えた。 山中がレバーをじわじわと戻していく。数値の上昇にブレーキがかかる。 その手に別の手が重なった。 「え?」 レバーを逆方向に動き始める。 「ちょっと、やめてくださいよ」 大尉だった。屈託のない笑顔を光嶋博士に向けると、山中の脇腹をトンと突いた。山中はバランスを崩して床に尻餅をついた。理解できないという表情でぽかんと口を開けている。 博士にも大尉の行動が理解できなかった。ただはっきりしているのは、数値の上昇スピードが上がり始めたということだけだ。 「ご存知なかったようだね」大尉は笑みをたたえたまま、口を開いた。「私はアメリカで真佐吉と同じ研究室にいたことがある。だからある程度の知識は持っているつもりだ」 数値が二五〇〇〇を超えた。博士には大尉の意図が読みとれない。 「ブラックボックスに同じデータを入力しても、出てくる結果は同じだ。発生装置が完成したといっても、ブラックホールやリアルには、まだまだ不明な点が多い。調べるのなら違うことをしないとね」 「さっきとは別の人間です。結果が同じになるとは限りません」 「時間がないのだよ。ほら」 大尉が空いてるほうの手で、ノートパソコンを指さした。数分前まではひとつだった赤い点が、二個に増えていた。 「あなたの一人娘が来たようだ。これで役者が揃った」 レバーが押し戻される。 五三〇〇〇。 少尉はためらいもなく、赤いボタンを押した。 空間が収縮し、稲妻のような火花が幾本も走った。 視界が真っ白になる。博士は腕をかざして目を閉じた。それでも光がまぶたを通して瞳を突き刺してくる。 研究員たちに悲鳴が上がる。火花はますます激しくなる。 博士は目を閉じたまま、コンソールに駆け寄った。大尉を突き飛ばし、レバーに手をかけた。 その時、薄く開いた視界が激しくブレた。 全てがダブって見えた。 博士は立っていられなくなり、制御パネルに手をついた。しかし眩しさと狂った三半規管が目測を誤らせ、パネルの端でしたたかに顎を打ちつけると、ウウとうなって床の上に転がった。 (萠黄……) まぶたの裏に、たったいま見たパソコン画面がよぎった。赤い点。萠黄なのか。生きてまた会えるのか。しかし──。 悲鳴が博士の思いを断ち切った。プラズマを浴びた清香の声であることは明白だ。 戦慄が走った。自分は何をやってるんだ? 痛みをこらえて立ち上がる。よろよろとレバーに両手を伸ばし、全体重をかけて押し返す。 途端に爆発が起きた。黒い炭のようなものが、博士の頭や肩を直撃した。 悲鳴は萠黄の全身を貫いた。 身体の中を戦車が駆け抜けたようだった。 その時、萠黄はエネ研の上空にいた。真上から丸い屋上と脇にくっ付くように着陸した大型ヘリを眺めていた。ヘリは米軍のもので、ブラックホール発生に必要な電源ユニットを緊急輸送してきたのだ。 高高度から垂直に侵入すれば、二次元情報しか拾えないリアル検知器は困るだろう、敵もどう攻撃していいのか迷うかも知れない、そんな単純な発想で降下している最中だった。 清香が発した苦痛の波動は、萠黄の理性の衣を突き破り、敏感な神経をざらりとした手で荒々しくなぶった。 萠黄の頭が下を向いた。 見る見る加速していく。幾重もの空気の壁が鎧となって肌の上に覆いかぶさる。 頭の中は空っぽになっていた。 怖れも怒りもなかった。それらは清香の悲痛な声によって、脳味噌ごとどこかに消し飛んでいた。 エネ研の屋上が眼前に迫った。数人の米兵らしき人影が見えた。彼らは手に持った黒い銃を、落下してくる萠黄に向けようとしたが、その動きは超低速度撮影された映像のように緩慢だった。 中庭の公園の樹上に隠れていたハジメは、萠黄の落下を目の当たりにした。 プリンを縦に引き延ばしたようなエネ研の建物は、萠黄によって中央を貫かれ、膨らんだエアシールドによって、内部から〈破裂〉した。 破片は百メートル以上離れた公園にまで飛んできた。ハジメはエアクッションで身を守らねばならなかった。 「チッ、打ち合わせと違うじゃないか」 ハジメの陽動作戦で敵の目を引きつけ、そのあいだに萠黄が侵入を試みる。そのつもりで、公園の大きな樹木をパワーで引き抜き、エネ研の窓という窓に突き刺してやろうと目論んでいたところなのだ。 「ムチャクチャだ。死ぬつもりかよ」 エネ研を白い煙が包む。火災も起きている。大きな破片に潰された米兵の姿も見える。建物の中にどれくらいの人がいたのか知らないが、被害は小さくないだろう。 「萠黄さんらしくない。全然らしくないぞ!」 しばらくすると何ごともなかったかのように、天井や壁の震動は治まった。 ブラックホール発生装置の出力が低下した直後、エネ研は大きな地震に見舞われた。少なくとも地下研究室にいた者はそう思った。山中ら研究員は机の下でガタガタと震えていた。 ところがパソコン画面に外の様子が映し出されるや、誰もが絶句した。風に流れる煙の下、エネ研の地上部分は瓦礫の山と化していた。 「ど、どういうことだね、これは!?」 副社長が喚いた。 「リアルの攻撃だ」 大尉は苛立った口調で断定すると、各部所に対して連絡を取り始めた。 「み、光嶋クン、キミの娘さんの仕業かね?」 「私に訊かれましても──」 崩れた地上部には、数十人からの研究員がいた。画面に映る砂埃は、彼ら彼女らの成れの果てかもしれない。 たまらず、博士は目を逸らした。身体が鉛を背負ったように重かった。 (何ということを──) 博士は両手で顔を覆った。 机の下から出てきた山中は、制御パネルにもたれると大声で叫んだ。 「博士、発生装置に電力が来ていません!」 「映像を見れば判るよ」 博士は虚ろな目で室内を見渡した。 新しい電源装置も破壊された。つくづくエネ研は呪われている。この世界は一体どうなるのか。 清香が寝かされていたベッドはねじくれていて、黒い燃えカスが散乱している。過剰なプラズマを浴びて、灰になってしまったか。 《リアル、降りてきます!》 階上を守る兵士の緊迫した声が伝わってくると、室内は混乱の極みに陥った。研究員たちはエレベータと階段に殺到した。エレベータが動かないのは判っているはずなのに、味わったことのないパニックは皆から日頃の冷静さを奪っていた。 両極にふたつある階段では別の騒ぎが起きていた。一方では、愚かにも上に逃げ道を求めた研究員たちを、上階から転げ降りてきた山上や山下が押しとどめている。 「瓦礫で塞がってるんだ!」 他方の階段からは銃声が聞こえた。黒い光線銃の発射音もする。萠黄はこっちから接近している。 《敵の動きは素早く、全く捕捉できません!》 米兵が絶叫する。が、彼の声はギャッという悲鳴と共に消えた。 研究員たちは「地下だ!」と叫び、階下に向かって雪崩を打って逃げ始めた。 室内に残ったのは博士と副社長、そして副社長に「逃げるとクビだ」と怒鳴られた山上山中山下の三名。あとは大尉を始めとする米兵たちだけだった。 頭上からズズン、ズシンと爆撃のような音が響いてくる。横でリアルの野郎と大尉が舌打ちした。 「エネ研の設備をことごとく破壊している」 それを聞いて博士はハッとした。 (なるほど、萠黄はブラックホール生成装置のことをどこかで知り、災いの元を絶つべく、研究を根絶やしにするつもりだな) 「分析を誤った」手をついて起き上がった大尉がうめくように言った。「これほどの行動に出るとは──」 博士にしろ、我が娘の行動に鳥肌が立つのを禁じ得なかった。これがあの引っ込み思案な萠黄と同一人物なのか! 「提案があります!」山中が優等生が発言するように挙手した。「コンピュータも照明も落ちますが、予備電源を回せば、一回目の実験程度のプラズマ放射は可能です。ただし一度きりですが」 (よけいなことを!) よし、それで行けと大尉は号令を下した。 博士はしかめた顔を山中に向けた。しかし山中はそれに気づかず、勇躍して制御パネルに飛びつくと、予備電源回路の接続作業を開始した。 その時だった。 「……う……ああ」 地獄の底から聞こえてくるような声が博士の耳を捉えた。 女性の声のようだった。研究員の誰かか? 目を走らせる。すると、装置の向こう側、壁際に転がっていた黒い物体から、傷だらけの細腕がよろよろと持ち上がった。 |
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