Jamais Vu
-337-

第23章
光道の果て
(24)

 萠黄は念を押すように、ハジメの目をじっと見つめた。ハジメの心中には不満の火がくすぶっていた。彼は最初、ミサイルをイージス艦にぶつけ、周囲に停泊している米海軍の艦船もろとも核の餌食にするつもりでいた。
 萠黄はそれに対して、「お願い」という言葉で反対の意思をぶつけた。米艦船がいる海域は、名古屋にあまりにも近すぎる。核爆発を起こせば、一般市民も巻き添えにするのではないか?
 ハジメがヴァーチャルの命を軽んじている傾向は、少し前から勘づいていた。どうせ二週間前に複製された存在じゃないか。そんな考えが彼の中にはあったのだ。それでも一抹の罪悪感は抱いていたのだろう。萠黄が強く目で訴えると、しぶしぶ了承した。
 ミサイルは爆発させない、と。
 ハジメは尖らせていた唇を丸め、眉を寄せると、新たなパワーを弾頭の先端に集中させた。萠黄も続いて自分のパワーをハジメのものと合体させた。
 先端に今までにはなかった空気の渦が発生した。渦は先導するように、ミサイルをイージス艦へと一直線に連れていく。ふたりのパワーを吸収した渦。『エアドリル』。萠黄は心の中で緊急命名した。
 着弾の衝撃波がふたりを襲った。
 ミサイルは見事イージス艦に、銛のように突き刺さっていた。爆発しなかったのは、エアドリルというキャップと、ミサイル全体を包んだエアクッションのおかげだ。
 萠黄とハジメは、激突の直前にミサイルを離れていた。
 イージス艦がしだいに傾いていく。あちこちで煙や火が上がって、乗組員たちが次々と海に飛び込んでいた。
 考えうる最小限度の被害か。そうであってほしい。
「なんとかうまいこといったね──」
 萠黄はハジメを振り向いたが、言葉を途中で途切らせた。ハジメは空中で静止したまま、奇態なポーズをとっていた。
 別の艦艇が浴びせる探照灯の光に浮き上がったそれは……。
(雛田さんの〈電話ですー〉やん!)
 ハジメはぐるんと身体を回転させた。すると今まで凪いでいた海面が突如として沸騰したように揺れ始めた。そして波は自然には起こりえない規模のうねりとなって、周囲にいた米艦船を片っ端から飲み込んだ。
(──やっぱりハジメさんは、リアルパワーを発散する方法を会得してたんか!)
 彼は今それを地震ではなく、海に大波を起こすために使ったのだ。
 まるで風呂に浮かべたオモチャの船のように、空母も巡洋艦も一隻また一隻と転覆していく。
 萠黄はただ呆然と眺めているしかなかった。
(これがリアルの力か?)
(奴らは悪魔だ!)
(俺たちは奴らに滅ぼされるんだ!)
 恐慌を来した米兵たちの思考が、萠黄の脳内で炸裂した。耳を押さえても、男たちの声が怒号となって、後から後から聞こえてくる。
 萠黄は身体を倒し、ハジメのそばに滑り降りると、彼の胴体にしがみついた。
「おい、間違えるなよ、俺は味方だ!」
「もうお終い! 帰るよ」
 萠黄は叫んだつもりだったが、渇いた喉が発したのはかすれた声だけだった。

 下界には一面の暗闇が広がっている。海面ではない。そこは三重県と滋賀県の県境にある山々が南北に連なった辺りだった。
 疲労と空腹と睡魔が萠黄の身体を重くしていた。重いのはそれだけではない。彼女の背中にはハジメがいた。
 ハジメは米軍との戦闘で精根尽き果てたのか、海岸にたどり着いた頃、意識を失ってしまった。しかたなく萠黄は自分より大きな彼をおぶってここまで逃げてきた。
 幸い、追っ手の姿はなかった。それが安堵感を生んだのだろう、川沿いにキャンプ場を発見した時、萠黄はフラフラと高度を下げて接近した。樹々を縫って低空を飛んでいると、バンガローやロッジが目に飛び込んできた。
(もう限界。ちょっと休憩させて)
 転ぶように一軒の軒先に着地した。どうにか玄関口にたどり着き、チャイムを何度か鳴らしたが返事はない。ドアノブを回すと施錠されている。
 ハジメを半ば引きずりながら、横手に回ってみた。アルミサッシのガラス越しに畳が見えた。萠黄はサッシに手を触れ、パワーで回転錠を動かした。サッシが開くやいなや、靴を脱ぐのももどかしく、そのまま畳の上に倒れ込んだ。
(清香さんらはどうしたやろ。みんなも無事に逃げられたかな……)
 不安と気がかりに、閉じかけたまぶたがゆるゆると持ち上がった。しかし睡魔に抗することは難しく、まばたきするつもりで閉じた目を、再度開くことはできなかった。

 光が差している。
 見上げた空は、一面の雲に覆われていた。そこにわずかな隙間があって、白く強烈な光が地面に向かって伸びていた。
 白壁の斜塔。萠黄は光に対して、そんな印象を抱いた。
 よく見ると光はゆるやかに動いていた。理由はすぐに判った。雲が移動しているせいだ。
 たれ込めた雲にできた切れ目はそこだけだった。
 萠黄は土手を駆け下りた。地面がぬかるんで何度も足を取られた。
 近づくのにたっぷりと時間を要したが、光は消えることなく、萠黄の到着を気長に待っていた。
 手を差し出す。光はそうされるのを待っていたように、温もりで両手の平を包み込む。萠黄は息を飲んだ。失ったはずの左腕がそこにはあった。右腕と並んで天から降り注ぐ陽光を浴び、地面にくっきりと二本の影を作っていた。
 前に進み出てみる。つむじや肩がほっこりと温かくなる。陽光にはにおいがあった。懐かしいにおいだった。
 目を空に向ける。光の源をまともに見上げた。それでも眩しくはなかった。耳を澄ませると、遥か天上から何か聞こえてきた。
(萠黄)
(萠黄さん)
 自分の名前だった。誰かが呼んでいるのだ。
 目を細めてみるが、声の主は確認できない。
(も〜え〜ぎ〜)
 これは判った。モジだ。
 あそこまで飛んでみようか。
 萠黄は腰を屈めた。
 その時だった。多少ぬかるんでいた地面が、萠黄の両足を引きずり込んだのだ。
 と同時に、光が急速にすぼまり、数秒と経たないうちに、斜塔は跡形もなく消えてしまった。見上げた空は墨を塗ったように黒くなっていた。
 ぬかるみはいつの間にか膝まで達していた。もがいてもつかまるものすらない。萠黄は両腕を振り回した。助けてと大声で叫んだ。

「寝ぼけるなよ、おい!」
 頭上で乱暴な声が言った。
 萠黄は目を覚ました。目の前にグレイのTシャツを着た男が、萠黄にのしかかろうとしていた。彼女はめったやたらに手を振り回し、相手の肩や頭を殴りつけた。
「俺だ、俺だってばよ!」
 ハジメだった。ようやく気づいて振り上げた手を下ろした萠黄に、ハジメは何か柔らかいものを投げつけた。
「それ着ろよ」
 モスグリーンの無地のTシャツだった。萠黄は自分が上半身ブラ一枚でいたことをやっと思い出した。
 急いで首を突っ込む。サイズはピッタリだ。感謝の目を向けると、ハジメはサッシ戸を開いて靴を履き、地面へと降りていた。上向いた顔は空をじっと見つめている。萠黄も戸に手をかけて、同じ方向に目をやった。
「きれいだな」
 山稜から太陽が顔を出す直前。これから始まる一日への期待と不安。そんなものが渾然一体となって作り上げた風景のようだ。
 でも何を期待するというのか。こんな世界の中で。
 ハジメがしゃがみ込み、落ちていた一枚の葉をつまんだ。
「こっちの世界に来てから気づいたんだけど……俺って、意外と自然が好きみたい」
「ん………」
 ハジメは葉っぱを顔の上にかざした。
「これもヴァーチャルなんだな。左右が逆になっててもこの世界ではきちんと光合成やってるんだな」
 朝の冷たい風が頬を撫でる。葉っぱがハジメの手を離れて飛んでいった。
「齋藤のジイさんに初めて会ったのは、京都のお寺の庭だった。もう一面むせ返るような緑でよ。ジイさん、その中に、ぽつんと仙人気取りで座ってやがった」
 ハジメの手が尻ポケットから、髪の毛の束をつかみ出した。齋藤老人の遺髪だ。中央でぎゅっと結ばれている。
「ジイさん、言ったんだ。この世界はジャメ・ヴュ≠セって」
「ジャメ……ヴュ」
「デジャ・ヴュ≠チてあるだろ。それの反対語で、見慣れた物なのに、ある日突然、あれっ違うぞって思うことだって」
「このヴァーチャル世界がジャメ・ヴュ=c…」
「フランス語らしいぜ。なんで外人はこんな舌を噛みそうな言葉を好き好んで使うんだろ。やっぱ肉ばっか食ってるせいかな。自分の舌との区別がつかなくなって──ンン、何だ?」
 ハジメは山稜を背にして立ち上がった。視線は西を向いている。
「アレ、何だと思う?」
 萠黄も靴を引っ掛けて外へ出た。
 ハジメは木々の間を指さしている。
 指の遥か先では、空の上から一条の光が差していた。
「あっちは京都だろ」
 萠黄は光の筋をたどった。しかし光源となるものが見当たらない。太陽はまだ山の向こうだ。そして快晴の上空には雲ひとつない。光は空の一点から突然現れ、真っ直ぐに光の塔となって降り注いでいた。
(塔──!)
「これと同じ光景、夢の中で見たわ」
 ハジメが振り向く。目を大きく見開いている。
「たくさんの人の呼ぶ声も聞こえた。すごく切実な気持ちのこもった声で……」
 萠黄の胸は騒いだ。清香らのことが気になった。すぐに目を閉じて、アンテナを翼のように広げてみた。
(清香さん! 清香さん!)
 心の中で、大声で呼びかける。
 すると返事はすぐにあった。
(……萠黄さん! どこ?)
(三重と滋賀のあいだにある山の中。米軍をやっつけて、ここまで逃げてきた。そっちは?)
(ごめんなさい。捕まってしまったの)
 背中を戦慄が走った。清香が続ける。
(あれから炎君とみんなのところに戻ったの。すぐに全員を連れてWIBAを離れたわ。エアボールに入って水中をね。いったんはうまく逃げられたと思ったんだけど、眠っているあいだに囲まれてしまって……)
 彼女も疲労困憊だったはずだ。萠黄は同情した。
(今どんな状況ですか?)
(わたしと炎君は例の黒い光線を浴びせられて、まったく動けなくされたわ)
 やられた。おそらく敵はあらゆるケースを想定して、琵琶湖の周囲を警戒していたに違いない。
(身動きできへんねんね)
(うん、トレーラーに投げ入れられて、床に寝そべってる)
 どうするつもりなんだろう。萠黄は咳き込むように訊ねた。
(トレーラーがどこに向かってるか、判りますか?)
(全然。……でもね、運転手に見覚えがあったの。京都工大で見た、山上って人だった)


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