Jamais Vu
-334-

第23章
光道の果て
(21)

 転倒を避けようと萠黄はスツールの背もたれに手をついた。ところがスツールそのものが床を滑り出した。
「わわわ」
「ひゃひゃひゃ」
 雛田や柳瀬も突然のことに声を裏返らせた。彼らの横をラックやシュレッダーが滑っていく。
(目眩やない! でも──)
 リアルパワーが自分の目眩を現実世界に呼び出したのか。荒唐無稽な発想が頭に浮かんだ。この世界では何が起きても不思議ではない。
 だが、そうではないようだった。
 扉の向こうで米兵が地上本部と連絡を取り合っていた。英語だが、兵士の心を通じて意図が読み取れた。
『何が起きたんだ! ──WIBAが? 傾き始めただとォ?』
 耳を疑った。
 WIBAは「揺れない」「沈まない」がトレードマークではなかったのか!?  
 まるで遊園地のビックリハウスだった。
 キャスターの付いたものに続いて、机や書棚が横滑りを始めた。
 ところが部屋はまだ傾き続けている。まるでダンプが積み荷を残らず振るい落としてしまおうとするかのように。
 床はやがて立っていられない角度に達した。萠黄は清香と炎少年に呼びかけ、再度、エアボールで仲間たちを包み込んだ。壁がギシギシとイヤな音を立てている。このままでは部屋自体が潰れかねない。それを心配したのだ。
 すでに事務机やスツールは、部屋の一方に積み上げられた状態になっていた。皆は壁が崩れてくるのを恐れて、エアボールの中で身を寄せ合った。
 ギシギシ、バリバリ、ドーンと、外からは物騒な音が際限なく聞こえてくる。部屋の明かりがライターの火だけというのも、さらに恐怖をかき立てた。
 アーーーッと長い悲鳴が扉越しに聞こえた。米兵たちが廊下を滑り落ちたのだ。続けて、雪崩のように廊下をはじく音が通り過ぎ、ズシンと床が震えた。
 萠黄は右手で顔を覆った。
 それからどれほどの時間が経過したか。
 周囲がようやく静けさを取り戻した頃、床の傾きは優に三十度を超えていた。
「俺、様子見てくる。ライター貸して」
 炎少年がエアボールを飛び出した。小さな身体がスルスルと床を登っていく。
 気をつけてと萠黄が言うと、
「子供扱いすんなよ」
とにべもない返事をよこした。
 ドアノブに手をかけ、回し、手前に引く。廊下は依然として暗い。ライターの火がついた。少年は胸から上を廊下に突き出して明かりを左右上下に振った。
 萠黄は目を閉じて、炎少年の視覚にダイブした。
 弱々しい火に照らされた下方は、廊下の突き当たりだったが。今は瓦礫の山と化していた。少年は上を見上げ、また底に目を落とした。米兵の姿も黒球の影も形もない。傾いた廊下を落ちてきたさまざまな物に飲み込まれたことは明らかだった。
(助かった……)
 萠黄はエアボールの軟らかな底にへたり込んだ。当面の危機は去った。理由は判らないが、まさにグッドタイミングでWIBAが傾いてくれたのだ。奇跡としか言いようがない。
「大丈夫だ。奴らはいない」
 炎少年が頭上から元気に報告すると、清香は顔を輝かせて、
「急いで逃げよう」
と言った。ハジメもどうにか身体を起こせるまでに回復していた。
 反対に、ヴァーチャルたちの疲れはピークに達していた。どの顔にも『ゆっくり休みたい』と書いてあった。
「米軍だって今なら混乱してるんじゃないか? ダーッと飛び出せば、きっと振り切れるよ」
 炎少年の言葉に萠黄は頷いた。
「まあ、いつまでもこんな所にいるわけにはいかないが……」
 シュウも同意しながら、仲間たちを振り返った。
 山寺総理は今の騒ぎで目を覚ましていた。ハジメはよろよろと立てるまでに復活していたが、土気色の顔をした伊里江だけは、しゃべるのさえつらそうだった。
 久保田たちは斜めになった床に背を着けて、ぐったりとしている。
 この一行で、再び脱出に挑む。
(まるで頂上のない山を登ってるみたいや)
 萠黄の素直な感想だった。
「私も連れて行くのか?」
 シュウが山寺に手を差し出していた。
「ここにいると危険ですよ」
「放っておいてくれ、私は行かない」
「わがまま言いなさんな」久保田がズイと出た。「総理には我々の人質となっていただく」
「人質だと?」
「そうだ」揣摩も顔を精一杯気張らせる。「まさか米軍も、日本のトップに対してミサイルを打ち込んだりはしないだろう」
 すると山寺は髭の下の口をかすかに歪めた。
「何を笑う!」
 揣摩が気色ばむ。山寺はややあって口を開いた。
「いや、甘いなと思ってな。本気でそう考えているのか? さっきも見ただろう、SPらが私を残して去っていったのを。米軍の意思は、リアル殲滅が何より最優先だ。そのためにはVIPだろうが誰だろうが無関係だ。私を盾にしても、連中は迷わず私を蜂の巣にするだろう」
「そ──それでも、地上にはマスコミもたくさん集まってるはずだ。そいつらの前でそんなことができるか?」
「試してみればいい」
「………」
 揣摩と山寺はにらみ合ったまま、黙り込んだ。
「ちょっと、ええかな?」
 口をはさんだのは萠黄だった。
「判ってるよ、急げって言うんだろ」
 揣摩が手を振ってみせる。
「違うねん。総理のこと。──出口まで一緒に行ったら、後は放してあげよう」
「放すって、釈放するってことか?」
「うん」
「総理の命は俺たちが助けた。だから攻撃するな、なんて相手が考えてくれるとでも思ってるのか?」
「そやない」萠黄は強く否定した。「総理を人質にしたら──わたしらもテロリストと同じレベルに堕ちてしまうから……」
 揣摩の顔がみるみる真っ赤になった。
「俺は! ……俺は、死にたくないんだ! それだけなんだ!」
 揣摩は斜めになった床に腰を下ろした。
「大丈夫。わたしらが絶対に守ってあげるから」
「絶対なんて軽々しく言うなよな。地下から一緒に上がってきた男たちはどうなった?」
 萠黄のまぶたに六道の顔が浮かぶ。返す言葉がなかった。
「俺はヴァーチャルだ。萠黄さんが殴っただけでも死んじまうかもしれない。そんなひ弱な生き物なんだ」
 誰も口をはさまない。皆が揣摩の思いに耳を傾けている。
「だから──さ」揣摩は少し表情を和らげて、「助かる方策があれば、たとえ細くてもそれにすがりたいわけよ。でも……判ったよ。総理は人質にしない。いや、人質扱いはしない。それでいいんだろ?」
 そう言って背中を向けた。
 萠黄は自分の無神経さに腹が立った。大声で泣きたくなった。
 自分はやっぱりリアルだ。ヴァーチャルの立場になって、ヴァーチャルの気持ちを理解することなど、本当にはできないのだろう。ここはリアルがいるべき場所では〈絶対〉にないのだ……。
《ワッ、なんだよ、お前!》
 突然、素っ頓狂な声が張りつめた空気を割った。
 全く聞き覚えのない声だった。
 雛田があたふたと尻ポケットから携帯を取り出した。液晶画面を広げながら、部屋の奥へと移動していく。皆は、ああ携帯かという顔をした。
「なんでこんな時に騒ぐんだよ。丸聞こえじゃないか」
 雛田が画面に小声で吠えると、ピンクのカバが大きな口をパクパクと動かした。確か、カバ松という名前が付けられていた。しかし人語がしゃべれたとは。
《ウィルスだ! この変なのが、いきなり侵入してきやがって》
《もえぎ〜〜〜》
 皆の顔をハッとさせた。萠黄はハッとするどころか、腰を抜かすほど驚いていた。
 声の主は明らかに、モジだった。
 気づくと萠黄は雛田の手から携帯をもぎ取っていた。3D画面には、迷惑そうな表情で縮こまっているカバをよそに、モジが緑色のゴツゴツした身体をうれしげに震わせていた。
《おひさやのぉ〜》
「アンタ……」言葉が喉に詰まってなかなか出てこない。「ど、どうして?」
《ビックリした? こっちもやで。原因はWIBAが傾いたせいや。おかげで最下層が電波の届く範囲まで持ち上がってくれてな。ほんでチャンスやー思てダッシュで飛び出してきたんや。そしたら運良くここにジャンプできたってわけや》
 モジは得意げに宙返りした。
《俺は運が悪いぜ》
 カバ松が横でぽつりとぼやいた。


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