Jamais Vu
-333-

第23章
光道の果て
(20)

 萠黄の声に清香や炎少年らは素早く動き、ヴァーチャルの影に隠れて難を逃れた。黒い光はヴァーチャルには全くの無害だった。
 ハジメを倒した三つの黒球は、しばらく辺りの様子をうかがっていたが、獲物を求めてボーリングの球のように、廊下をゴロゴロと転がり始めた。
 驚いたことに、黒球は障害物に突き当たると、開いた穴から、しなやかで細長い足を出し、進行方向を変えたり、器用に後ろから踏ん張って、障害物を乗り越えたりした。
 照射される黒い光線は、廊下や壁を間断なくなぞっていく。萠黄は六道の遺体の陰を静かに回り込んだ。黒球のセンサーは耳を持っている可能性を考えたからだ。
(何かで光を遮ることができたら)
 しかし元々、間仕切りも什器もない廊下である。剥がれた壁が数枚落ちているだけで、どれもひどく歪んでいる。
 雛田は、清香が下着の上に着ていた自分の上着を受け取ると、黒球の上に広げて被せようとしたが、その足を鞭のように伸ばして、上着を軽く振り払った。まるで凶暴な爬虫類を思わせる動作に、萠黄は戦慄を覚えた。
 念のために、圧縮した空気をぶつけてみた。黒球はそれ自体の重みと、タコのような足を床に突き刺して平然と耐えてみせた。
「どうしよう、萠黄さん」
 雛田の背に隠れた清香が泣くような声で言った。。
(そう言われても──)
 胃がキュンと痛んだ。
 自分なんか頼らんといて! そう叫びたかった。
 萠黄は目を逸らし、肩越しに後方を見やった。柳瀬のライターの火が左右に揺れ、それに合わせて壁が暗くなったり明るくなったりしている。
(あれは?)
 ライターの火の向こうに、ドアの把手のようなものがきらめいた。
(部屋がある──どこかに通じてるかも!)
 WIBAの地下を男たちに追われて逃げていた時、あちこちの部屋はよく別の部屋や廊下へとつながっていた。あるいはあの扉の向こうにも逃げ道があるかもしれない。
 シュウがそばに寄ってきた。
「階段を誰か降りてくる」
 言われてハッとした。確かに足音のようなものが聞こえる。いま米兵が来たらヴァーチャルたちも危ない。
「あそこに部屋があります。どこかにつながってるかもしれません」
 萠黄は指さした。
 シュウはすかさず立ち上がり、扉に向かって駆けていった。黒球がぴくりと反応する。やはりこいつらは耳だけでなく目も持っている。それでも前進スピードは極めて遅い。廊下に落ちた障害物をひとつひとつ乗り越えていくためだ。
 仲間たちの現在位置を階段側から見ると、倒されたハジメ、黒球群、距離を置いて、雛田と清香と気絶している山寺、久保田と和久井、揣摩と炎少年、伊里江、萠黄、柳瀬、そしてシュウ。
 萠黄は首を回して、使えそうな物を探し、当たりをつけた。
『みんな聴いて!』再びテレパシーを送る。『合図したら、廊下の奥の部屋までダッシュすんのよ!』
「黒い光は?」清香がすかさず問いかける。「あと、ハジメさんは?」
『まかせて!』
 階段を下りる足音が消えた。フロアまで下り切ったようだ。時間がない。
 もう一度、扉に目を転じる。柳瀬から受け取ったライターで扉の中を覗いていたシュウが「ダメだ」と首を振った。
「この部屋は完全に行き止まりになってる」
 萠黄は首を振って叫んだ。
「他に逃げ道はあらへんねんで!」
 扉の向こうに、ここに這い上がってきた脱出口がある。またあの熱帯のような蒸し暑い場所に逃げる気はしない。それに今その脱出口は、男たちの半ば砂になった遺体に埋もれていたのだ。
 萠黄は視線を前に戻した。黒い光はかなり接近していた。
 と、その向こうにふたつの人影が現れた。暗くてもリアル・アイにはかろうじて見えた。米兵だ! ちょうど曲がり角のところに。
 しかし、皆に知らせようと張り上げかけた声が、喉元で凍りついた。
 異形の兵士だった。人間には違いなかったが、薄手の宇宙服のようなものの中に入っている。
「マズい、パワードスーツだぞ!」
 シュウの声に「あれが?」と萠黄が思う暇もなく、ふたつの人影はモーターの回転音を上げて近づいてきた。その動作は意外なほど軽快だった。
 シュウの銃が火を噴いた。特殊な装甲は鈍い音を立てて銃弾を跳ね返した。
 数年前、米軍に試験導入されたパワードスーツ。暗褐色のそれは、鍛え上げられた人間の能力を最大限に引き出す目的で開発された。とはいえ実物は予想以上の威力を発揮した。パワーも戦闘能力も生の人間の十倍。内蔵のコンピュータによって状況を瞬時に分析し、いくつもの戦闘パターンを呈示する。一昔、二昔前にはSF小説やアニメではおなじみだったものが、現実に登場したのだ。
 米軍は、黒球攻撃だけでは安心できず、リアル抹殺に完璧を期すため、できることを総動員させようという作戦なのだろう。萠黄は素人頭でそう考えた。
 だが、実にマズい。これでは後ろの部屋まで移動できない。
 ふたつのパワードスーツが、肩に取り付けられた銃の筒先こちらに向けた。
 萠黄は右手の指を力いっぱいに広げると、急いで床に叩きつけた。
 頭の中で、水面の波立つイメージを浮かべる。
 ぐらり。たちまち床が波打った。
 波は廊下の上を伝搬した。進むに連れて波の高さが大きくなり、三つの黒球が跳ね飛んだ。
 床が上下に動くなど、想像できる者はいない。パワードスーツの米兵は意表を突かれ、ものの見事に転倒した。
 萠黄は第二のイメージを宙に放った。壁際に落ちていた歪んだ壁パネルがふわりと飛ぶ。堅い壁パネルは見えない力によってさらに歪み、醜い袋状になって黒球に襲いかかった。
 黒球は逃げようとしたが、パネルはそれより速く落下し、三つの球をすべて包み込まれてしまった。
 廊下から黒い光が消えた。
「今のうちや! みんな部屋まで駆けて!」
 合図に全員が動いた。
 萠黄はハジメを空気の担架に乗せ、空中を滑らせた。
 伊里江は久保田が肩に担いだ。しかし、揣摩と雛田が山寺総理を引きずってきたのには驚かされた。
「人質だよ」
 見送った萠黄は、階段側で米兵が起き上がるのを感じて、すぐにまた床を波立たせた。彼らはおそらく暗視カメラを付けている。こんな暗がりでもよく見えるだろう。ライターの火が走り去った廊下は、また一面の闇となっていた。これでは黒い光が復活しても気づかない。
 パネルの中で黒球が暴れている。出てくるのにそう時間を要しないはずだ。
 全員が扉にたどり着いたのをきっかけに、萠黄も腰を上げた。
「急げっ」
 シュウがライターを持った手を、部屋の入口でぐるぐると回している。萠黄は火の下に向かってダイブした。
 扉が閉じる直前、再び黒い光が廊下に差すのを見た。
「ギリギリセーフ!」
 扉の向こうから、黒球の転がる音と、英語で何ごとか叫ぶ声が聞こえた。
 揣摩たちが、手近にあった事務机を扉の前に移動させ、二段に重ねた。パワードスーツの前には無力と判っていてもやらずにはいられなかったのだ。
「全員、いるか?」
 シュウが点呼を取る。生存者で落伍者はいなかった。
 横たわったハジメは、身体を縮こまらせ、ひくひくと顔面や手足の先を痙攣させていた。清香がその手を握ってパワーを送り込んでいる。
「どう、効きそう?」
 萠黄の問いに、清香は判らないと首を振った。
 部屋は典型的なオフィスだった。まだ真新しい事務机にスツールが並んでいる。壁際には何も入っていない書庫が部屋のそこここに並んでいる。何よりも重要なことは、どこにも別の部屋につながる扉はないということだった。
 シュウや久保田らが壁を両手で叩いた。しかしピタピタと反響のない音がするばかりで、壁の向こうに別の空間があるようには到底思えなかった。
 天井を見上げる。小さな排気口が数カ所に配されている。とても大人の通れるような大きさではない。
(映画みたいに、あそこから逃げられたら)
 思わず腰を上げようとした時、ハジメがぴくりと動いた。
「……しく……じったぜ」
 口から泡を吹きながら、ハジメは悔しさとふがいなさに涙を流していた。
(これ以上は無理かも)
 弱気が胸に広がっていく。するとそれをあざ笑うかのように、扉がドンッと強く叩かれた。
 パワードスーツがすぐそこまで迫っていた。
「みんな、机の陰に隠れて!」
 そう言うと、萠黄は一番扉に近い机のそばにしゃがみ込んだ。
 扉が破られれば、あの黒い光が真っ先に差し込むはずだ。少しでも浴びればお終いである。
 一瞬の勝負だ。せめて相撃ちを狙ってやる。
 そう決めて、机の橋に手をかけた時、萠黄は突然、目眩を感じた。
(えっ、こんな時に持病が──)
 あわてて伸ばした手が、机の角をつかみ損ねた。


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