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萠黄の声に清香や炎少年らは素早く動き、ヴァーチャルの影に隠れて難を逃れた。黒い光はヴァーチャルには全くの無害だった。 ハジメを倒した三つの黒球は、しばらく辺りの様子をうかがっていたが、獲物を求めてボーリングの球のように、廊下をゴロゴロと転がり始めた。 驚いたことに、黒球は障害物に突き当たると、開いた穴から、しなやかで細長い足を出し、進行方向を変えたり、器用に後ろから踏ん張って、障害物を乗り越えたりした。 照射される黒い光線は、廊下や壁を間断なくなぞっていく。萠黄は六道の遺体の陰を静かに回り込んだ。黒球のセンサーは耳を持っている可能性を考えたからだ。 (何かで光を遮ることができたら) しかし元々、間仕切りも什器もない廊下である。剥がれた壁が数枚落ちているだけで、どれもひどく歪んでいる。 雛田は、清香が下着の上に着ていた自分の上着を受け取ると、黒球の上に広げて被せようとしたが、その足を鞭のように伸ばして、上着を軽く振り払った。まるで凶暴な爬虫類を思わせる動作に、萠黄は戦慄を覚えた。 念のために、圧縮した空気をぶつけてみた。黒球はそれ自体の重みと、タコのような足を床に突き刺して平然と耐えてみせた。 「どうしよう、萠黄さん」 雛田の背に隠れた清香が泣くような声で言った。。 (そう言われても──) 胃がキュンと痛んだ。 自分なんか頼らんといて! そう叫びたかった。 萠黄は目を逸らし、肩越しに後方を見やった。柳瀬のライターの火が左右に揺れ、それに合わせて壁が暗くなったり明るくなったりしている。 (あれは?) ライターの火の向こうに、ドアの把手のようなものがきらめいた。 (部屋がある──どこかに通じてるかも!) WIBAの地下を男たちに追われて逃げていた時、あちこちの部屋はよく別の部屋や廊下へとつながっていた。あるいはあの扉の向こうにも逃げ道があるかもしれない。 シュウがそばに寄ってきた。 「階段を誰か降りてくる」 言われてハッとした。確かに足音のようなものが聞こえる。いま米兵が来たらヴァーチャルたちも危ない。 「あそこに部屋があります。どこかにつながってるかもしれません」 萠黄は指さした。 シュウはすかさず立ち上がり、扉に向かって駆けていった。黒球がぴくりと反応する。やはりこいつらは耳だけでなく目も持っている。それでも前進スピードは極めて遅い。廊下に落ちた障害物をひとつひとつ乗り越えていくためだ。 仲間たちの現在位置を階段側から見ると、倒されたハジメ、黒球群、距離を置いて、雛田と清香と気絶している山寺、久保田と和久井、揣摩と炎少年、伊里江、萠黄、柳瀬、そしてシュウ。 萠黄は首を回して、使えそうな物を探し、当たりをつけた。 『みんな聴いて!』再びテレパシーを送る。『合図したら、廊下の奥の部屋までダッシュすんのよ!』 「黒い光は?」清香がすかさず問いかける。「あと、ハジメさんは?」 『まかせて!』 階段を下りる足音が消えた。フロアまで下り切ったようだ。時間がない。 もう一度、扉に目を転じる。柳瀬から受け取ったライターで扉の中を覗いていたシュウが「ダメだ」と首を振った。 「この部屋は完全に行き止まりになってる」 萠黄は首を振って叫んだ。 「他に逃げ道はあらへんねんで!」 扉の向こうに、ここに這い上がってきた脱出口がある。またあの熱帯のような蒸し暑い場所に逃げる気はしない。それに今その脱出口は、男たちの半ば砂になった遺体に埋もれていたのだ。 萠黄は視線を前に戻した。黒い光はかなり接近していた。 と、その向こうにふたつの人影が現れた。暗くてもリアル・アイにはかろうじて見えた。米兵だ! ちょうど曲がり角のところに。 しかし、皆に知らせようと張り上げかけた声が、喉元で凍りついた。 異形の兵士だった。人間には違いなかったが、薄手の宇宙服のようなものの中に入っている。 「マズい、パワードスーツだぞ!」 シュウの声に「あれが?」と萠黄が思う暇もなく、ふたつの人影はモーターの回転音を上げて近づいてきた。その動作は意外なほど軽快だった。 シュウの銃が火を噴いた。特殊な装甲は鈍い音を立てて銃弾を跳ね返した。 数年前、米軍に試験導入されたパワードスーツ。暗褐色のそれは、鍛え上げられた人間の能力を最大限に引き出す目的で開発された。とはいえ実物は予想以上の威力を発揮した。パワーも戦闘能力も生の人間の十倍。内蔵のコンピュータによって状況を瞬時に分析し、いくつもの戦闘パターンを呈示する。一昔、二昔前にはSF小説やアニメではおなじみだったものが、現実に登場したのだ。 米軍は、黒球攻撃だけでは安心できず、リアル抹殺に完璧を期すため、できることを総動員させようという作戦なのだろう。萠黄は素人頭でそう考えた。 だが、実にマズい。これでは後ろの部屋まで移動できない。 ふたつのパワードスーツが、肩に取り付けられた銃の筒先こちらに向けた。 萠黄は右手の指を力いっぱいに広げると、急いで床に叩きつけた。 頭の中で、水面の波立つイメージを浮かべる。 ぐらり。たちまち床が波打った。 波は廊下の上を伝搬した。進むに連れて波の高さが大きくなり、三つの黒球が跳ね飛んだ。 床が上下に動くなど、想像できる者はいない。パワードスーツの米兵は意表を突かれ、ものの見事に転倒した。 萠黄は第二のイメージを宙に放った。壁際に落ちていた歪んだ壁パネルがふわりと飛ぶ。堅い壁パネルは見えない力によってさらに歪み、醜い袋状になって黒球に襲いかかった。 黒球は逃げようとしたが、パネルはそれより速く落下し、三つの球をすべて包み込まれてしまった。 廊下から黒い光が消えた。 「今のうちや! みんな部屋まで駆けて!」 合図に全員が動いた。 萠黄はハジメを空気の担架に乗せ、空中を滑らせた。 伊里江は久保田が肩に担いだ。しかし、揣摩と雛田が山寺総理を引きずってきたのには驚かされた。 「人質だよ」 見送った萠黄は、階段側で米兵が起き上がるのを感じて、すぐにまた床を波立たせた。彼らはおそらく暗視カメラを付けている。こんな暗がりでもよく見えるだろう。ライターの火が走り去った廊下は、また一面の闇となっていた。これでは黒い光が復活しても気づかない。 パネルの中で黒球が暴れている。出てくるのにそう時間を要しないはずだ。 全員が扉にたどり着いたのをきっかけに、萠黄も腰を上げた。 「急げっ」 シュウがライターを持った手を、部屋の入口でぐるぐると回している。萠黄は火の下に向かってダイブした。 扉が閉じる直前、再び黒い光が廊下に差すのを見た。 「ギリギリセーフ!」 扉の向こうから、黒球の転がる音と、英語で何ごとか叫ぶ声が聞こえた。 揣摩たちが、手近にあった事務机を扉の前に移動させ、二段に重ねた。パワードスーツの前には無力と判っていてもやらずにはいられなかったのだ。 「全員、いるか?」 シュウが点呼を取る。生存者で落伍者はいなかった。 横たわったハジメは、身体を縮こまらせ、ひくひくと顔面や手足の先を痙攣させていた。清香がその手を握ってパワーを送り込んでいる。 「どう、効きそう?」 萠黄の問いに、清香は判らないと首を振った。 部屋は典型的なオフィスだった。まだ真新しい事務机にスツールが並んでいる。壁際には何も入っていない書庫が部屋のそこここに並んでいる。何よりも重要なことは、どこにも別の部屋につながる扉はないということだった。 シュウや久保田らが壁を両手で叩いた。しかしピタピタと反響のない音がするばかりで、壁の向こうに別の空間があるようには到底思えなかった。 天井を見上げる。小さな排気口が数カ所に配されている。とても大人の通れるような大きさではない。 (映画みたいに、あそこから逃げられたら) 思わず腰を上げようとした時、ハジメがぴくりと動いた。 「……しく……じったぜ」 口から泡を吹きながら、ハジメは悔しさとふがいなさに涙を流していた。 (これ以上は無理かも) 弱気が胸に広がっていく。するとそれをあざ笑うかのように、扉がドンッと強く叩かれた。 パワードスーツがすぐそこまで迫っていた。 「みんな、机の陰に隠れて!」 そう言うと、萠黄は一番扉に近い机のそばにしゃがみ込んだ。 扉が破られれば、あの黒い光が真っ先に差し込むはずだ。少しでも浴びればお終いである。 一瞬の勝負だ。せめて相撃ちを狙ってやる。 そう決めて、机の橋に手をかけた時、萠黄は突然、目眩を感じた。 (えっ、こんな時に持病が──) あわてて伸ばした手が、机の角をつかみ損ねた。 |
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