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『唯一、気がかりなのは──』 山寺総理を取り巻いていた黒い霧はすでにない。が、好天の大地に一点の影を落とすように、輪郭のくっきりとしたその雲は、山寺の不安の強さを物語っていた。 『──伊椎製作所の連中だ』 思いがけない固有名詞が出てきた。とはいえ、つい先ほど山寺が回想したエネ研でのワンシーンには、副社長が登場していた。 『彼らは真佐吉の研究の後追いで得た成果を独占するつもりだ。おまけにそれを鋭く嗅ぎつけたアメリカは、すべてを自分たちのほうに取り込もうとしている……。危険だ。このままでは第二、第三の真佐吉が出現する』 ドクン。 萠黄の心臓が大きく波打った。 波動は全身の端々へと伝わっていく。 顔を上げる。いや、上げなくても周囲の状況はほぼ完全につかんでいた。 全身が目になったような気がした。左右、前後、上下、すべてが彼女には見えた。そしてはるか空から飛来するミサイルの姿も。 萠黄は叫んだ。吠えたと言ったほうが近い。危機はもうそこまで来ている。説明している余裕はなかった。しかし、リアル同士ならパワーを使って意思を伝える自信が、今の彼女にはあった。 ハジメ、清香、炎少年が丸くした目を萠黄に向けた。壁を背に力なく座っていた伊里江でさえ、顔に緊張感をみなぎらせた。 通じたのだ。ひと言も話さずに。 萠黄は伊里江のそばに駆け寄った。他の三人も同時にそうした。差し出した手を互いに握り合い、動けない伊里江を含めて、輪になった。 壁や天井が激しく振動したのは、その直後だった。 明かりが消え、悲鳴が交錯した。 眉に込めた力をゆっくりと抜く。 そっと薄目を開く。 辺りは真っ暗だった。どちらが上か下かも判らない。 あの瞬間、萠黄は、仲間たち全員を飲み込める大きな空気球、エアボールをイメージした。五人のリアルパワーを結集したので、ほんのまたばき一回の時間でそれは完成した。 しかし万全かどうか確認する余裕もなく、ミサイルは頭上に落ちた。それでも手は離さなかった。萠黄の右手は清香の左手を握っていた。 萠黄は右手を動かしてみる。手の中に清香の手のひらの感触があった。 「清香さん、清香さん」 呼びかけると、ウンと元気な声がすぐそばの闇の中から聞こえてきた。 「ここにいるよ。大丈夫だった?」 「平気。ずいぶん弾んだみたいやったけど」 エアボールが有効に作用した証拠だ。イヤというほど目が回ったが、おかげで打ち身ひとつしていない。 離れたところで、鉄骨が倒れる音がした。するとそれが合図のように、あちこちで身じろぎする音やうめく声、呼び合う声がした。 「……香、清香」 「あ、おじさま。ここよ。無事?」 「なんとか……手足は付いてるよ」 「久保田さーん、揣摩さーん」 萠黄が大声で呼ぶと、後方からふたりのウォーッスと言う声が聞こえた。やはり無事のようだ。 シュッと音がしてライターの火が灯る。揣摩だった。ぼんやりとした明かりが床や壁に反射する。 「見ろよ、あっちこっちにヒビが入ってる。廊下もさっきより傾いてるぞ」 揣摩が立ち上がろうとしたので、萠黄は注意した。 「まだ動かないで。エアボールは消えてないんよ」 「何だい、エアボールって?」 萠黄は説明した。揣摩は二の句が継げないほど驚いた。 「ありがとう」久保田が萠黄のそばに這ってきた。「助けられたんだな」 「お互い様ですよ」萠黄が応えた。 ハジメも炎少年も集まってきた。彼らには〈攻撃は終わっていない。まだリアルパワーを切らないように〉とテレパシーで伝えてある。そうだ、これはまさにテレパシーだ。 萠黄はさらに伝言を空中に放った。 (米軍はリアルパワーを無効にする兵器を持ってるんやて。きっとまた攻撃してくると思うわ) 考えは一瞬のうちに他の四人に伝わる。まるでメールでも送るように。 『今度はテレパシーか。どうやったらそんなに、自分の能力を開発できるんだ?』 炎少年だ。そんなこと、萠黄にも判らない。 「また、あの黒い光線銃か! 今度来たら、撃つ前に仕留めてやるよ」 ハジメが口を尖らせた。 萠黄は周囲に声をかけた。 「みなさん、無事ですかー? 無事だったら返事してくださーい」 ワタシここよーと柳瀬が返した。 ここですと和久井の感情の乏しい声がした。 無事だと短くシュウが応えた。 平気ですーっと雛田がギャグっぽく叫んだ。 「総理は?」 すると和久井が、横におられますと知らせた。 「ただ、気絶してるようです」 「起こしてください! 敵がどう攻めてくるのか、知りたい」 山寺は唯一の情報源だ。彼の思考から敵の計画を〈読み取る〉必要があった。 久保田が暗い中を山寺に近寄り、その頬を手で張った。山寺は軽くうなった。しかしその思考は混濁していて、萠黄のアンテナには何も引っかからなかった。 揣摩が言ったように、廊下はほんのわずかだが、出口のある階段方面から、地下からの脱出口のある奥に向けて緩やかな傾きがあった。WIBA全体がそうなったのか、自分たちのいる辺りだけそうなのかは不明だが、攻撃の規模は決して小さくなかったらしい。 エアボールがなければどうなっていたか。想像するのも恐ろしい。萠黄は改めて肌の粟立つ思いがした。 「あ、あ、あ」 柳瀬が廊下の奥で蚊の泣くような悲鳴を上げた。尻餅をついた彼の手にもライターの火があり、そのゆらめく光が奥のほうを照らしている。 萠黄もアッと叫んで棒立ちになった。後ろから覗き込んだ清香も息を飲んでいた。 廊下の隅。折り重なって倒れている男たち。命からがら、共に地下から脱出してきた人々。 そこはエアボールの外だった。萠黄はパワーを拡散し、エアの外に飛び出した。だがすぐに足を止めた。 誰ひとり、生きてはいなかった。 彼らをエアボールの中に取り込めなかったのは明らかだ。もしかしたら、エアボール自体が彼らを廊下の端に弾き飛ばしたのかもしれない。廊下の隅だったために、ミサイルの衝撃で破壊された壁材や柱などが彼らを直撃して──。 萠黄は無言で近き、仰向きに倒れている六道の手首をとった。生きていてほしいというはかない望みで脈をとろうとしたのだが、六道の腕はずるっと手首から千切れて床に落ちた。砂状化は無慈悲なほど早く進行していた。 (人並みはずれたパワーを持ったことに、うぬぼれていた?) 思いが去来したが、すぐに打ち消した。今さら考えてもしょうがない。 ハジメがクソッと喚いて、壁を拳で殴りつけた。 「俺は許さないぞ! この世界のヴァーチャルを全て滅ぼしてやる!」 その時だった。反対の階段側から、カラン、コロンと硬い物が転がり落ちる音がした。 真っ先にハジメが反応した。彼は駆け出した。 「今度は手榴弾か? ガス攻撃か? 俺たちにそんなものが通用かよ!」 止める間もなかった。ハジメはエアシールドを盾にして、廊下の曲がり角まで突進した。 その足許に転がり出たのは、ソフトボールの球ほどの大きさの黒い球体だった。数にして三個。 「こんだけか? 舐められたもんだな」 ハジメは苦笑すると、直径一メートルほどのエアボールをすかさずイメージし、黒い球体を丸ごと包み込んだ。爆発することを見越しての冷静で適切な処置だった。萠黄でもそうしただろう。 ハジメはその上でエアボールに強い外圧をかけた。球体をエアボールごと押しつぶす気だ。 その時、球体が動いた。萠黄は彼の目に映ったものをアンテナを中継して見た。黒い球体の表面には無数の穴が開いていた。 「みんな、伏せて!」 萠黄は怒鳴った。そして六道の遺骸の影に倒れ込んだ。 球体は光を発した。 光は八方へと伸びた。 エアボールはあくまでも空気の塊であり、光を阻むことはできなかった。 黒い球体は爆弾などではなく、リアルを無力化する光線を発する機械だったのだ。 萠黄たちは知る由もなかったが、球体は米軍が発射したミサイルの中に搭載されていたもので、落下着弾と共にこれらを吐き出した。球体はそのままWIBAへと侵入し、生体センサーによって萠黄たちの居場所を探知し、接近した。 そして、リアルに接触した球体は、本来の能力をフルに発揮した。表面に開いた穴からレンズを通して拡散した光は、忌まわしいほど黒い色を帯びていた。 「ア……ガ……ガ……」 まともに光を浴びたハジメは、身体を激しく震わせて、その場にどうっと倒れた。 |
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